『綾部喜八郎』


 男子生徒に口付けすること。

 これ以上ないくらいに分かりやすい色の試験内容を聞いたとき、さすがに一瞬戸惑った。それから、まあ突き詰めて考えれば組み手とかとさほど変わらないかと考え直して、真面目に作戦を練り始める。
 私はこの手の試験が苦手だし、自分が魅力的な容姿じゃないことも分かってる。となると、これはもう脅すか不意をつくしかないだろう。とりあえず後ろからボコ殴って気絶させてどっかに閉じ込めて、目が覚めた瞬間にヤッてしまえばいいかな、と手順を立てる。
 ならば次に決めるのはその相手だ。出来れば気弱な男子、運ぶことを考えたら体の大きくないやつがいいなぁ……と考えていたとき。
 唐突に、ぽんっと同年の男子の顔が浮かんだ。
 綾部喜八郎。

 ……ふむ。

 実習内容を、今一度確認してみる。
 男子生徒に口付けしてこい。
 口付けしてこい。
 口付けしてこい。

(こ、れ、だ……!!!)

 本当は口に出したいのを必死で堪えて、私は胸中だけで思い切り叫ぶ。思いついてしまうと、もうそれだけしか考えられなくなる。授業終了を告げる鐘が鳴り響き、女子生徒達が緊張した面持ちで教室を出て行く中で、私は一人でほくそ笑んでいた。
 教室長屋を出て、女子生徒達は思い思いの場所に散っていく。私も綾部のいるだろう場所に、弾む心で足を進める。
 ああもう、山本先生ありがとう。最初はちょっと戸惑ったけど、よくよく考えればこれはする側の私達だけでなくて、男子にだって衝撃的な内容だ。
 ふふふふ、と私は不敵に笑う。抑えられない心のままに、叫ぶ。

「とうとうっ! あいつに一泡吹かせられるときがきた!!」

 あいつとは勿論、綾部喜八郎だ。人を毎度毎度「楽しいから」とかいうわけのわからない理由で穴にぽこぽこぽこぽこ落とすあのモグラ男に、この実習を使って復讐できる!
 あの人間関係不自由そうな綾部が、女と付き合ったことなんてあるはずがない。無論口付けだってしたことないに違いない。
 そう、つまりだ。

 あいつの初めての接吻、私が奪ってくれる!!!

 さすがにいつも飄々としている綾部も、驚愕かつ動揺するだろう。普段人を穴に落としまくってるのだから、あいつも少しくらいは落ち込めばいい! 文字通り!
 今までに積もり積もった恨みを思い出して、私はもう嬉しくてたまらなくなる。綾部が落ち込んでいるところを見てみたい! そしてそれを脳裏に焼き付けてやりたい! そして今後ことあるごとにつついてやりたい!
 足は、自然に図書室に向かう。なぜかと言うと、私がいつも落とされるのが図書室の近くだからだ。まあどうせ綾部はいつもどこかでせっせと穴を掘ってるから、探すのはさほど大変じゃない。だって絶対に地面の上にいるんだから。
 授業が終わってすぐのせいでざわざわと騒がしい廊下を渡ると、図書室が見えてくる。ここからは少し慎重に歩かなければ、いつどこに綾部作の穴があるか分からない。私を落とそうとするときは、綾部は目印をつけるなんて親切なことをしてくれない。
 そろりそろり、と気をつけながら図書室へ進む。けれど図書室の入り口まではあっさりとたどり着いてしまった。まだ時間が早いから、図書委員も来ていないのか扉の鍵も開いていない。ちょっと気抜けしてしまう。綾部はここにはいないのだろうか。それとも他の場所で掘ってるんだろうか。
 だとしたらどこかな、早く見つけないと復讐出来ないのになぁ……と思いながら、私が一応確かめてみようかと図書室の裏に回った瞬間、

「ん……? ?」
「あ、いた! 綾部!」

 穴掘り小僧が、まさに穴を掘っていた。放課後になった途端にご苦労なことに、並んだ二つの穴を同時に掘っている。いつもなら大量生産してんじゃないわよと怒るところだけど、今はそんなことどうでもいい、いざ行かん復讐への旅!
「綾部! あんたいつもいつも性懲りもなく──」
、そこらへん穴だらけだけど」
「わっ!」
 綾部の言葉に、慌てて足を止める。綾部はじいっと地面を見ながら、ひょいひょいと私のすぐ隣まで渡ってきた。いつも飄々と無表情の綾部からは、これまたいつも通りに強い土の匂いがする。ふふふ、と私はほくそ笑む。今まで散々穴に落としまくってくれてありがとう、綾部。あの日々とはもう今日で永遠にさようならだ!
「それで、僕になにか用?」
「ええそれはもう大事な用ですよ綾部さん! 今日こそあんたをぎゃふんと言わせてみるからね!」
「ぎゃふん……?」
「綾部綾部、ちょっとしゃがんで」
「……うん」
 きょとんとしつつ、綾部は私の言うとおりにその場にしゃがみ込む。私も同じように綾部の前に膝を折って視線を合わせた。よし、これでいい!
 がし、と綾部の両肩に手を当てる。相変わらず無表情で私を見返してくる綾部に、不敵に微笑んだ。
 さあ、泣くがいい、綾部!

「あんたの初めて、私がもらってあげる!」

 宣言と共に、強引にその唇に口付けた。


 ……うわ、柔らかい。
 それが一番初めに思ったこと。
 ……土じゃない匂いがする。
 次に思ったのは、綾部の気配が本当にすぐ傍にあるということ。
 ……な、なんか恥ずかしくなってきた!
 自分からやったくせに、頭に軽く血が上る。綾部の唇と自分の唇が触れているだけなのに、そこから感じる体温と感触に、身体が勝手に強張っていく。
 いやいやこんなことで怖気づいてどうする。綾部に今までの仕返しをするんじゃなかったのか。そう自分を奮い立たせて、私はさらにぐいっと綾部に唇を押し付けた。
 その時。
 それまで驚いた様子もなくじーーっと私を覗き込んでいた綾部の瞳が、突然にすうっと細められた。ぞくっとする。
 やばい、怒らせたかもしれない。反射的に、私は素早く口付けを解いて身を引いた。
「……なに、
 怒ったようには見えなかった。綾部はもう元に戻っていて、不思議そうにぱちりぱちりと瞬きをする。私は恥ずかしさに高鳴っていた鼓動を鎮めようとしながら、まだ近い綾部の顔に向けてちょっと無理に微笑んだ。
「ふふふふ……綾部、口付け初めて?」
「うん」
 綾部の答えに、よしっ! と拳を握る。無駄にならなかった!
「……それがどうかしたの? なにか意味あるの」
「ある! いつもいつもいつもいつも、私を穴に落としてこっそり影で楽しむその所業の恨み、初接吻を奪うことで解消してやろうと思ったの! 栄光の歴史に傷がつくといいわ!」
 正直、自分でもなにを言っているのかよく分からなかったけど、とにかくちょっと満足した。さあ絶望して落ち込んで! と私がわくわく綾部を見ていると、綾部はきょとんとした顔をして、それから考えるように首を僅かに傾げた。
「……別になにも困らないけど」
「な、なんでよ! 私がなんのためにあんたにしたと思ってんのよ!」
 軽く逆ギレして詰め寄ると、綾部はじいっとその私の顔を覗き込んだ。なにを意味してるのかどこか強い視線を向けられて、ちょっと身を引く。
「な、なに?」
 やっぱりさすがに怒ったかなあと焦っていると、綾部はぽつりと口を開く。
「確かに僕は初めてだけど。……は?」
「…………え?」
 言われた言葉に、ぽかんとした。それから、気づく。

 自分のことを考えてなかった。

「────はっ! あああああ!!! どうしよう綾部、ねぇ、返して!」
「……馬鹿だね、
 珍しい、すごく呆れたような綾部の視線に、かあっと顔に血が集まる。そうだ、綾部の言う通りだ! いや、どうせ実習なんだから誰としたところで初めてなのに違いはないんだけど、もう全然それに気づかなかった。そうだ私も初めてだ、なにこの衝撃!
 顔を真っ赤にしてうーうーと唸ってる私を、綾部はどこかつまらなそうに見る。
、もう少し考えてから行動すれば」
「だってもう、あんたの落ち込んだところが見れると思ったらそれだけしか考えられなくて! あ、そうだ綾部、こうしよう、お互いこのことは忘れよう! そしてゼロからの始まりにしよう!」
 どうせ実習だったんだし、そもそも事故だったと思えばいい! そうだそれがいい、と自分の考えに救いを見出したそのとき、突然にぐいっと腕を引かれた。

「……じゃあ」

 息を飲む。瞬く間に迫った綾部の顔。顎を掴まれて、そのまま唇を奪われた。抵抗出来ない男の力。さっきのそれよりもずっと強く重ねられる唇に、ぞくりとした。

 ……うそ。

 一度も経験したことのない感触に、足に力が入らなくて地面に腰を下ろしてしまう。その私を追いかけて、綾部の身体が私を抱き締めるように近づく。角度を変えて掠めるように重ねられる唇と、私の腰元に回される綾部の腕。さっきは感じられなかったその熱さに、めまいのような混乱が走る。
 綾部を押しのけようとすることすら、出来なかった。嫌とか嫌じゃないとか、そんな咄嗟の感情も浮かばなかった。自分からするのではなく『される』感覚に、どこに意識を向けていいか分からなくなる。地面の上についていた手が、微かに震える。その震えが身体全体に広がったとき、綾部はようやくに唇同士の接触を解いた。そして最後に、離れる直前、ぺろりと私の唇を舐める。
 唖然としてなにも言えない私に、綾部は囁くように言う。

「……じゃあ、これが初めて」
「っ! …………────っ!」

 瞬時に、顔が火照った。同時に頭にも血が上る。

 くっそーーーーーーーーーー!

 悔しさと恥ずかしさに、綾部の肩を思い切り突き飛ばす。腰に回されていた腕が緩んだ隙に立ち上がって、綾部から距離を取る。綾部はまだ地面に膝をついたまま、無表情にしか見えない顔で、私を見上げてる。それがなんだかすごく悔しい。私があんたのせいでこんなに動揺してるのに、なんであんたはそんな落ち着いてるのよ!

「いつか!」

 綾部を強く睨みつける。

「いつか、絶対ぎゃふんと言わせてやるんだからーーー!」

 自分でも捨て台詞だと分かる言葉を吐いて、私は綾部に背を向けて全速力で走り出した。










「……ぎゃふん……?」

 物凄い勢いで走り去って行くに、ぽつりと言ってみる。
 立ち上がろうとして、手が僅かに震えた。まだの唇とか身体とかの感触が残っているせいで、ちょっと力が入りにくい。
 ……なにがなんだかよく分からないけど、とりあえず今のはいつもの夢とかじゃなくて、確かに現実だったと、それだけを僕は理解する。

「……初めて、ね」

 口にしてみて、ちょっとだけ嬉しくなる。初めての相手なら、きっとは覚えていてくれるだろう。

 だけど。

 の柔い感触の唇も、華奢な身体の温もりも。すぐ近くにあった匂いも気配も。


 二度目以降も、全部僕のものならいいのに。








 終