| 『潮江文次郎』 | |
夕食を食べて部屋に戻ると、仙蔵はいないのか部屋の中は真っ暗だった。 今夜は月の光が明るいので、油を灯さなくても良いかと窓を少し開く。途端まともに見てしまった月光の眩しさに目を細め、窓から離れた。 食事を摂ってすぐ後は少し動きづらい。落ち着くまで予習でもして、その後風呂に入って自主練をしようと、文机に向かう。重ねて置いていた教科書と参考書とを引き寄せて、どの教科からしようかと考え始めた、そのとき。 気づくのが少し遅かった。 いや、部屋に入った時点で気づいたとしても、対処出来たかどうか。 背に張り付くのは薄い気配。後ろから首にゆっくりと回される、女のものだと分かる細い腕。もう一本の腕は苦無を握り、俺の脇腹に突きつけられている。一瞬で二カ所の急所を同時に押さえられたその鮮やかさに、焦るよりもむしろ感心しそうになった。女相手に正攻法ではまず負けないだろうが、こうされてしまえばどちらかを力業で外そうとした瞬間に、もう一つの急所を突かれる。 ここまで的確な技を持つ『女』は、まずあのくの一教室の生徒、それも上級生に違いない。とすればその目的も見当がつく。 「……誰だ」 「声で分かる?」 「……か」 問われた通り、声で分かった。これほどまでに近くにいるのに、集中しなければ嗅ぎ取れないほどの薄い気配。それだけでは特定するのは難しいだろうが、耳元の声はまず間違いなく同年の女子生徒のものだった。こいつの声は昔から聞き慣れているから、よっぽど声色が上手い奴でなければ本人だろう。 「驚かないの?」 「大体知ってるからな」 一つため息を漏らすと、は唐突に気配を消すのをやめた。途端はっきりと認識出来るようになったの気配に、首に回された腕と背に触れる身体がその感触と温度を伝えてくる。俺より華奢で、比べようもないほど小柄な身体。けれど、今は俺が劣位だ。 は後ろから俺の表情を覗き込むように、俺の肩に顔を乗せる。頭巾を被っていないのか、さらりとした髪の感触が頬に触れた。 「もしかして、もう誰かにされた? 文次郎なのに」 「どういう意味だよ。……委員の女子に迫られた。男なら誰でもいいからってな」 思い出して、顔を歪める。結局押し切られはしなかったが、あまり愉快な記憶ではない。 「そっか。私も、誰でもいいの」 「……お前らくの一は、本人目の前にして本当に遠慮がないな。ならなんで俺なんか選ぶんだ、他にいくらでも楽な相手がいるだろう」 仙蔵とか伊作とかな、と例を挙げてやると、耳元で小さく微笑む気配がした。からかうつもりか、甘えるように柔らかな頬を首に寄せられ、僅かに身体が強張った。 「文次郎は、いつも三禁三禁言ってるでしょう?」 「……それがどうした」 「そういうこと言ってる男子のほうが、やりがいがあると思って」 ね、と同意を求められて押し黙る。はくの一教室では実技・教科共に優秀らしい。仮にも忍術を学んでいる俺がこう易々と後ろを取られるのだから、それはまず間違いないだろう。普段どこででも外敵に備えるようにと後輩にまで指導している分、さすがに少しばかり情けない。 「……ねぇ、文次郎」 返す言葉も見つからず黙ったままでいると、が名を呼ぶ。その普段通りの声音に、実習か、と諦めた心地になる。 「なんだよ」 「実習の相手にしてもいい?」 「……俺に選択権なんかあるのかよ」 ここまでしておいて、嫌だと言えば引くのかお前は。試しに言ってみようかとも思ったが、咄嗟に口から言葉が出ない。これが委員の後輩女子や他の女子ならば、問われる前に『ふざけんなとっとと帰れこのアホが!』と叫べるのだが。 その理由は分かっている。俺はこいつが苦手なんだ。傍にいられると、調子が狂う。 「嫌って言うなら配慮するよ」 「どんな配慮だよ」 「したこと、先生以外には言わない」 配慮、な。結局やる気満々じゃねーか。まあ俺だって、逆の立場になったら嫌だと言われたところで機会を逃すことはしないだろう。それくらい出来なくてなんの忍びだ。 「……好きにしろ」 「え?」 意外な言葉だったのか、は虚を突かれたような声を出した。 「いいの?」 「どうせするんだろ」 「……うん、そうだけど。手、離しても逃げない?」 「逃げねーよ」 逃げる気など本気でなかったが、はしばし迷うような気配を見せてから、すっと身を引いた。信じたのか。そのことにむしろこっちが驚く。 首に回されていた腕と脇腹の感触がするりと離れる。振り向くと、月明かりに少し照らされた部屋の中、が素直に苦無を仕舞っているところだった。 「……正気か」 「文次郎は、嘘をつかないから」 そんな聖人君子になった覚えはない。必要であれば俺だっていくらでも嘘を口にする。その俺の思考を読んだのか、は軽く微笑む。 「今まで私、文次郎に嘘つかれたことないから。一度騙されるまでは、信じるよ」 その説得力があるようなないような曖昧な言葉に、毒気を抜かれる。は昔からどこか掴みどころのない女で、たまによく分からないことを言う。普段はあまり特徴のない、ほどほどに悪辣な普通のくの一教室の女子生徒にしか見えないのだが。 は苦無を仕舞い終えると、俺の前に正座して顔を上げる。まともに視線がぶつかって、慌てて僅かに目を逸らした。 これが、俺がを苦手にしている最たる理由だ。少し目が大きいの瞳は、まっすぐに向けられていると落ち着かない思いになる。遠目ならばなんともないが、これほど近距離だとなおさらにそれが強い。 「……とっととやってさっさと帰ってくれ」 諦め混じりに言うと、は素直に「うん」と頷いて俺に身を寄せる。 口付けごとき、この年になれば別にどうということもない。寝ろというならまた話は別だろうが、こいつのように本気で忍びを目指そうという奴らにとっては、他愛もないことだろう。 は、ちょっとごめん、と言いながら、すぐ傍まで身を寄せる。目でも閉じてやったほうがいいのかと思案したとき、は両腕を伸ばして俺の背に回し、ぐっと身体を押しつけてきた。……抱きつかれた格好だ。 さきほど背に感じていたそれとは違い、の体温と紛れもなく女の身体を意識させられて、さすがにどうしたものかと迷う。なにが狙いだこの女。 好きにしろと言ったのはこっちだし、特に害はないかと勝手にさせていると、が少しだけ膝を伸ばす。顎にの頭の感触を感じた瞬間、反射的に小さく震えた。 首筋を、音を立てて啄まれた。 「……なにやってんだ」 声をかけても、は返事をしない。身じろぎされて咄嗟に止める間もなく、次は耳の後ろに軽く吸い付かれた。 「っ、ばかやろ」 ぞくりと背筋に走る震えにを引き剥がすと、張本人は少し戸惑う顔を見せた。 「……嫌だった?」 「つかお前、なんのつもりだ」 「せっかくだから、いろいろやってあげようと思って」 なんの躊躇いもなく言われて、舌打ちしそうになった。せっかくだから? こんな場面で言う言葉か、それは。 「あほなこと言ってないでさっさと終わらせろ」 「……分かった。じゃあ文次郎」 は素直に頷くと、また膝を伸ばした。頬と頬とが触れ合い、は俺の耳元で小さく囁く。 「恋仲みたいにしてあげる」 は? なにを言ってるんだと唖然としたとき、ぎゅっとまたがしがみついてきた。再び囁かれる言葉に、身体の動きが止まる。 「────好き」 艶のある声ではない。可愛らしい甘えたような声でもない。泣き声に近い、縋るような震えた声音。 ああ、誘うならばこちらのほうが男には有効だろうと、酷く冷静にそう思った。 このほうが、落ちるだろう。今の俺が身動き取れないのがいい例だ。 はそのまま俺の頬に手を伸ばすと、顔を近づける。ああ来るかと思ったが、鼻先同士が軽く掠めたところで、動きが止まる。の黒い瞳がゆっくりと瞬いて、それからただじっと俺を見つめたまま動かない。 その曖昧な距離にもどかしくなって無意識に目を細めたとき、強く唇を押しつけられた。 同時にの目が閉じられ、唇の感触だけに思考が染まる。圧倒的に柔らかな感触。角度を変えて幾度かただ押しつけられた後、躊躇いがちな動きで唇の上を柔く吸われる。微かな痺れに、身体の奥底から熱が生まれる。そのことに、苛立たしく思う。相手の反応を気にするような所作は、が言った通り恋仲に向けるようなもので、ともすれば引きずられそうな自分に悔しくなる。翻弄されてたまるかと思った瞬間に、今度は舌先で表面をなぞられる。舐められ、吸われて、独特の感覚に力が抜けそうになる。濡れた唇同士は乾いたそれよりも密着度が強く、吸い付くようなその感触が心地良かった。 ……実習だ、と頭の中で繰り返す。こいつにとってはただの試験だ。色術を使って当たり前、それに酔ったならそれだけ俺が未熟だということだ。そう幾度も繰り返しているのに、繰り返す度に心地良さが勝って忘れそうになる。このままでは本当に引きずられる。だからいっそ突き飛ばせとまで思うのに、拘束されているわけでもないのに身体が動かない。 まずい。──昂ぶった。 自覚した途端に熱が上がる。はゆっくりと目を開き、すぐ近くの俺の瞳を覗き込む。瞬きを繰り返す睫に細かな雫を見つけて唖然としたとき、唇が僅かな間だけ離れた。涙に濡れた瞳が、また俺を映す。 「好き。……大好き」 泣き声に脳がぶれかける。抑制が効かなくなる。 演技だと分かっているのに、これがくの一の術の一つだと理解しているのに、 ……他の男にもこんなことをしているのかと思うと、煮え立つような怒りが襲う。 再び唇が重なり、の舌が唇を割ってこっちの舌と僅かに触れた瞬間、もう歯止めが利かなくなった。 の腰元と頭の後ろにそれぞれ腕を回して、強く引き寄せる。の舌を押し戻して口内を軽く舐めると、それだけで甘い痺れが襲う。躊躇無く奥まで押し入れての舌と強引に絡ませると、は一度驚いたように動きを止めた後、おずおずと窺うように俺に合わせて舌を絡めてくる。舌同士の摩擦が強くなり、味蕾が刺激されてじわりと唾液が染み出る。腕の中の身体はそれでも拒絶することなく、どころか一層こちらの動きを受け入れようとする。自分の中と外で同時に聞こえる水音に、ますます理性が飛びかけた。下半身が重くなりかけているのを自覚しても、止められない。突き動かされる衝動に従って唇を奪い続け、俺より華奢な身体を抱き締める。その柔らかさが全部欲しくなる。荒い呼吸を共にして、堪えるような喘ぎに脳を溶かされそうになって、気を抜けば今すぐにでも押し倒してしまいそうな誘惑に必死で耐えた。 それをしてどうなる。好きにしろと言ったのは俺だ。はただ試験だから俺に合わせているだけだ。そこまで許されるはずがないし、許されたいとも思ってはいけない。今これほどに俺の欲を受け入れてるのすらおかしいのだ。これ以上触れてはいけない。これ以上は駄目だ。 ──完全に拒絶される前に、離せ。 ──それならさほど傷つかずに済む。 浮かんだ思考の意味を考える暇はなく、の肩を掴んで押し戻す。 は涙の薄く浮かんだ瞳で顔を歪めて、すぐにまた唇を重ねようとする。 「や、だ……。してよ」 「……なにを、……っこら」 引き剥がそうとしても、縋るように唇を重ねられる。再び絡む舌にますます官能が刺激されて、もう限界だと悟る。頼むから、煽るな。 「」 「なんで……すきなの、に」 「……っ、や、めろって」 「してもいい、って」 「……、……っ……!」 ほとんど無理矢理に押し離すと、びく、とは一度震えて、それからしばらくして身体の動きを止めた。ゆっくりと表情を元に戻すに安堵したそのとき、やはり全部演技だったのかと、場違いな苛立ちが襲う。が引いてくれて安堵した瞬間なのに、なにを。 まずい。昂ぶった熱が引きそうにない。じっと顔を覗き込もうとするを、再度押しのけた。 「……もういいだろ、帰れ」 「…………」 「帰れ」 再度伝えてもは動かず、逆にまた少し身を寄せた。 近づくなと言いそうになったとき、呟かれて一瞬動きを止めた。 「……勃ちそう?」 「……、生理現象だ。どけ」 むかつく。見透かされていることに苛立ちが走る。さすがにおとなしく帰るかと思ったが、はそうしなかった。 「苦しいなら、私が抜こうか?」 至極普通に、俺の袴に手を伸ばそうとする。本気のアホか。その手を強く払いのけると、きょとんとした顔になる。 「……私じゃ嫌?」 「うっせ。……でてけ」 そんな当たり前みたいに言うな。どんだけこなれてるんだ、お前。 「……ごめん」 「勘違いすんな、呆れてるだけだ。……頼むから、もう帰れ」 理解しているつもりなのに。どの男にも同じように接していると思うと、苛立ちが募る。これがこいつらの学ぶ術だと知っていてもだ。 「うん、……分かった」 ようやくに、はゆっくり身を引いた。と思うと、突然に手を伸ばして俺の顔を包み込んだ。息を呑んだ瞬間、は俺の額に小さく口付けを落とし、それからすぐに立ち上がる。 「なにやってんだ、お前は」 「……手伝ってくれてありがとう」 まさか、礼のつもりかよ。 「礼になってねーよ……」 煽られただけだ。背を向けた後ろ姿に思わず呟くように言うと、聞こえたのかは俺を振り返る。一瞬考える顔になった後、ぽつりと言った。 「じゃあ……お礼に、今日は私で抜いてもいいよ?」 ……なに言ってんだ、この女は。 「……誰がお前で抜くか、さっさと帰れ!」 「うん。……おやすみ」 は小さく頷くと、今度こそ俺に背を向けて部屋を出て行った。ぱたぱたと微かな足音が去って行くのを確認して、ようやくに身体の力を抜く。 くそ。なんでわざわざ許可出されなきゃならねーんだよ。 火照りが引かない身体に舌打ちして、深く息を吐いた。 なんとか昂ぶりを静めようと努めても、勝手に脳内がさっきの行為を思い出して熱を広げていく。 なにが抜いてもいいよ、だ。あのアホ女。 「……そんなこと言われたら、逆にやりづらいだろうが」 やっぱり、どっちが演技なのかも見抜けないんだ。 そのことに寂しさは感じない。そんな男だとはずっと前から知っている。 鈍感。 でもその鈍感な男が、腹立たしいほどに好きで仕方ない。 唇に残る感触に、泣きそうになる。 それが愛情でなくても、ただの欲でも構わない。抱いてくれればよかったのに。 やっぱり私では駄目なのだろうか。 色の技術を身につければ、少しは私に興味を持ってくれるかと思ったのに。 ……私は、あなたのことがすごく好きなの。 女としてだけでも求められたなら、私にも意味があると思えたのに。 私は。 いつになったら、あなたの前で嘘をつかなくてもよくなるんだろう。 終 |