『不破雷蔵』


 くの一は、身体を武器に使うこともある。

 それは、勿論私も熟知していた。私自身は学園を卒業したら実家を継ぐことに決まっていたから、くの一を職にするつもりはもともとない。けれど私には許婚も恋仲の相手もいないし、口付けという行為にそこまでの躊躇いもなかった。無論少しは恥ずかしいけど、精神を鍛えるという意味ではこれも修行の一環に違いないだろうから、実習内容を変更する気はなかった。
 男子生徒と二人きりになって、口付けする。まず思いつく簡単な手は、男子を誰もいないところに呼び出して、不意をつくことだろう。なにしろ同意を得なくても騙しても構わないのだから、それが一番楽な方法だ。
 
 けれど今の私には、……好都合と言っていいのだろう、まさにその男子生徒、同年の雷蔵と会う約束があった。
 昨日、実習内容なんてまだ全然知らないときに、今日の放課後に二人で自習をしようと約束したのだ。これ以上の好機なんて、たぶんないと思う。言い方は悪いけど、利用しない手はなかった。
 雷蔵に口付けをするのが嫌だとは思わなかった。ただ、雷蔵を騙さなきゃいけないんだという事実に、少し憂鬱になる。いくら優しくていつでも温厚で一緒に自習をするくらい私と仲良くしてくれている雷蔵だって、強引にそんなことされたら怒るだろう。私にとっては好都合。けれど雷蔵にとっては不都合極まりないはずで。
 ……でも、どうせ口付けするなら雷蔵がいい。雷蔵はよく私と一緒にいてくれて、私は決して雷蔵のことが嫌いじゃない。雷蔵に拒絶されて失敗したら、次は他の男子のところに行かなきゃいけなくなる。そっちのほうが、ずっと抵抗があった。
 だから……私にとっては、本当に好都合なのだ。

 ──ごめんね、雷蔵。

 心の中で謝ってから、小さく気合を入れる。
 そして、雷蔵との待ち合わせ場所である図書室へと急いだ。








 朝起きて支度をしているとき、三郎に「お前、なんか良いことでもあったのか。それともこれから良いことがあるのか」と突然に図星をつかれた。ぎくりとすると、三郎は寝起きのせいか少し目つきの悪い視線を僕に向けて、それから軽くため息を吐いた。
「……か」
「な、なんで分かるの!?」
 言ってから、しまった肯定してしまった、と頭を抱えた。三郎はふーん、と生返事をして、僕と同じ髪を結い上げ始める。
 三郎の言うとおり、僕は今日すごく楽しみなことがあったし、それはに関することだった。
 昨日、偶然にと廊下で会って立ち話をしていたら、試験も近いし今度一緒に自習をしないかとのほうから誘ってくれたのだ。こっちに断る理由なんて一つもない。なら明日にということになって、今日の放課後はと図書室で勉強する約束をしているのだ。に惚れている僕にとって、これ以上の幸せなんてない。だから朝からそわそわしていたのを、三郎に簡単に見破られたのだろう。
「別にどうでもいいけど、浮かれて実技授業で怪我とかすんなよ。もうすぐ期末試験なんだから」
 呆れたような三郎の言葉に、う、と僕は押し黙る。試験もまあ大切だけど、それ以上にとの約束を破るようなことになったら絶対に嫌だ。よし、と気を引き締める。とりあえず放課後までは五体満足でいなくては。
「うん、気をつけるよ。ありがとう、三郎」
「……ただの嫌味だ」
 三郎は酷く面倒そうに言うと、食堂に向かうために立ち上がる。慌てて、僕も頭巾を被って立ち上がった。


 放課後になるのが待ち遠しかった。最後の授業が終わっていそいそと席を立とうとすると、じいっと八左ヱ門が僕に不思議そうな視線を向ける。
「なんか雷蔵、機嫌良さそうだな。なんかあったのか?」
「……えっと」
 朝の三郎のことを思い出してどう答えようかと思っていると、隣から三郎が余計なことを言った。
「そいつが浮かれてるなら、理由は一つだろ」
 八左ヱ門はきょとんとした後、ああ、と一つ頷いた。
「そっか、か。そりゃ機嫌良いはずだよな」
 ……バレバレにも程がある。なにも言えずに黙ってしまうと、八左ヱ門はにっと笑った。どうも僕は隠すのが下手らしくて、三郎と八左ヱ門だけじゃなくて、兵助も僕がのことを好きだと知っている。
「春到来ってやつか?」
「……違うよ、単に自習するだけ」
「へー。俺も一緒に行ってやろうか。……嘘だって、そんなあからさまに邪魔しないでって顔すんなよ」
 八左ヱ門は楽しそうに僕をからかうと、じゃあなと教室から出て行った。僕も慌てて立ち上がる。を待たせたりしたら、申し訳ない。
「じゃあ僕も行くから、三郎」
 隣の三郎に声をかけると、三郎はちょっとだけなにか言いたそうな顔になって、それからやれやれとため息を吐いた。どうも三郎は、朝から少し様子がおかしい気がする。気のせいかもしれないけど。
「三郎、どうしたの?」
「いや、別に。……まあ、頑張れよ」
 そう言ってぽん、と僕の肩を一度叩くと、三郎はどこか難しい顔付きで窓から外に飛び出して行った。その様子がちょっと気になったけど、そうだを待たせてしまうと改めて思い出して、僕も慌てて教室から出て図書室へと走り出す。

 そして──後ろから声をかけられた。







 僕が図書室に入ると、はすでに隅の机の上で本を広げていた。その姿を見つけて慌てて駆け寄ると、は顔を上げて、「あ」と小さく微笑む。
「雷蔵」
「ごめん、遅くなったね」
 図書室は試験前のせいか数人の生徒達が自習をしていたけど、今日は図書室の主である中在家先輩がいないから、いつもほどには静かじゃなかった。今日の図書室の担当であるきり丸と怪士丸が本を整理しているのを確認してから、僕はの隣の席に座る。
「ほんとにごめん。待ったよね」
「ううん、そんなことないよ。気にしないで」
 軽く首を横に振るが本当にいつも通りなのを確認して、僕はほっと安堵する。持ってきた教科書と資料を広げ始めると、も読んでいたらしい資料を横に押しやり、教科書を開く。
 さてどこからやろうかな、と独り言を言いながら教科書をめくるに、視線を向ける。その視線に気づいたのか、は「ん?」と軽く微笑んで僕を見た。
「どうしたの、雷蔵」
「……ん。、分からないところがあったら聞いてもいいかな?」
「え、私が教えてもらおうと思ってるのに。雷蔵が分からないところはきっと私にも分からないよ」
 おかしそうに言うに、苦笑する。
「今度の試験、男子は武術の座学が出るから。のほうが得意だろ?」
 は実家が道場で、武芸にかけては首位の成績だ。は僕の言葉に、ちょっと顔を引き締めた。んん、と緊張した様子になる。
「そっか、それならちょっとは分かる……かな。頑張って思い出すね」
 照れたように微笑んでから、は「じゃあ」と続ける。
「私も分からないところがあったら、雷蔵に聞いてもいい?」
「うん、僕で分かるところなら」
「ありがとう」
 僕とは一度微笑み合って、それから個々に自習を始める。いつもより少しざわついた図書室の中は、しんとした静けさよりもむしろ集中出来そうだった。……けれど、すぐ隣にいるの気配を感じて、ああ、やっぱり集中なんか無理かなと思い直す。もともと同じ空間にいるだけで気になって仕方ないのに、今はすぐ隣なのだ。気にしないなんてこと、出来るはずがない。
 それに──。
 に気づかれないよう、小さく嘆息する。そして、せめてフリだけでもと教科書に視線を下ろした。

「雷蔵、ごめんね。これ、よかったら教えてくれる?」
「ん? ああ、これはね……ちょっと待って、今図に書くから」
 男子生徒と女子生徒は使っている教科書からして違うけれど、どちらも基礎的な部分はあまり変わらない。算術や薬学などの忍術以外の基礎科目もそうだ。そういった共通する科目を、は時折僕に聞いてくれた。その度に顔をつき合わせて説明したから、近いの気配に僕は動揺することになったけど、は真剣に聞いてくれたし、すぐに理解してくれてありがとうと笑ってくれる。
 たぶんこれが幸せって言うんだろうな、と僕はぼんやりと思う。好きな子の隣で、たぶん好きな子の役に立てて。……これがずっとなら、いいのに。
 そんなことを考えていたら、すっと音もなく図書室の戸が開いて、一人のくのたまが顔を見せた。たぶん六年生。そのくのたまはちらりと僕とその隣にいるを見て、そしてそれだけを確認してすぐに図書室を退出していく。僕がを見ると、も視線を向けられたことに気づいていたのか、図書室の戸に目を向けていた。
「……ねぇ、
「ん? なに?」
 戸から僕へと視線を移して、が聞き返す。うん、と僕は何気ない様子を装って、を見た。
「あのね……今くのたま達、なにかしてる?」
「え? 誰が?」
 尋ねた言葉に、きょとんとは目を瞬かせる。
「えっと、誰がって言うか……。その、実は教室を出た途端に突然引き止められて、少し時間をくれないかって頼まれて」
「くのたまに?」
「そう。ここに来るまでに二人。それで、……どっちも用事があるからって断ったんだけど、鬼気迫ってる感じですぐに断れなくて……ごめんね、だから遅れちゃったんだけど」
 改めて謝ると、はちょっと困ったように、んー、と眉をひそめた。
「ううん、それは全然構わないんだけど……。ごめんね、私はなにも聞いてないけど……五年女子だった?」
「いや……どっちも四年生だったと思うけど」
 そっか、とはしばし沈黙してから、少し申し訳なさそうな顔になった。
「そろそろ実技試験をやってる学年もあるらしいから、それかもしれないね。気になるなら、後輩に聞いてみようか?」
「あ、ううん。ごめん、少し気になっただけだから気にしないで。知らないならいいんだ」
 慌てて言うと、は「そう?」と微笑んで、それから自習に戻る。その様子を少し眺めてから、僕もまた教科書に視線を下ろした。
 
 それから一刻ほど過ぎて、自習をしていた生徒達も半分くらいに減った頃、が静かに立ち上がった。目を向けると、「資料になるもの探してくるね」と小声で言って専門書棚のほうを指で指す。
「僕も一緒に行こうか?」
 思わずそう口にすると、はぱっと笑顔になった。
「いいの? 雷蔵に手伝ってもらえたら嬉しいけど」
「もちろん。これでも一応図書委員だからね」
 むしろのためなら一生こき使われたって構わないんだけど、そこまで口にしたら求婚しているのと変わらない。僕もに続いて立ち上がり、二人で専門書棚に向かう。
「なんの資料かな?」
「火器の……出来れば新しいものの資料が欲しいんだけど……」
「ああ……ええっと」
 の希望に添って何冊か抜き出しながら、ふと気づいた。
「そうだ、昨日新入荷した資料本の中に、もしかしたらあるかも」
「新入荷? 図書室に?」
「うん。まだ点検も図書室の押印もしてないからここには並んでないんだ。中在家先輩が、試験が近いし今回は資料本を揃えたって仰ってたから、そこにあるかもしれない」
「それ、もう読んでもいいの?」
 が僕の顔を覗き込む。じっと、その顔を見返してから、僕は頷いた。
「うん。貸し出しは無理だけど、閲覧だけなら。図書準備室に置いてあるはずだから、一緒に見に行こうか」
 ……いつもなら、僕が見てくるからは待っててって言うところなんだけど。僕は嘘が下手だ。けれど極力、平静を装って微笑む。は一瞬だけ迷う顔を見せた後、すぐに「うん、ありがとう」と頷いた。
「こっちだよ、行こうか」
 先に立って歩き出すと、は軽く微笑んで僕の隣に並んでくれる。図書室内はそろそろ晩ご飯の時間ということもあって、もうあまり人気がなかった。途中貸し出しカードの整理をしていたきり丸を見つけて、声をかける。
「お疲れ、きり丸」
「あ、不破先輩。今日は自習ですか?」
「うん、そうなんだ。ごめん、ちょっと準備室借りるね。見たい資料本があるから」
「はい、分かりました。……僕でよかったらお手伝いしましょうか?」
「ううん、大丈夫。ありがとう」
 僕がきり丸に手を振ると、隣のが軽く微笑んできり丸に目礼する。きり丸はちょっと驚いた顔で、僕とに視線を向ける。がきょとんとしているのを感じながら、僕は苦笑してきり丸に向けて『違うよ』と目で否定した。たぶん、僕にとっては嬉しい勘違いをしてくれたんだろう。
 なんだ違うんだーと言いたげなちょっと残念そうな顔(僕も残念だよ)のきり丸に背を向けて、僕とは図書室の奥に進む。廃棄寸前の古書が積み上げられた本の山の向こうにある、納戸。
「こんなところあったんだ」
「うん。図書室自体の書類とか、一時的に納品された本を置いておくところ。あんまり広くないけどね」
 苦笑しながら納戸の戸を開けて、どうぞ、とに先に入るように促す。は僅かに戸惑いを見せて、それからすぐ「ありがとう」と微笑んで納戸の中に入った。
 それを確認してから、僕もに続く。図書室に音が響かないように、そっと戸を閉めた。
 納戸の中は狭い。だいたい四畳あるかないかだ。さらに大半が本で埋め尽くされているから、僕とが入っただけでかなり窮屈な印象がある。
「……これかな? 新刊本」
 たくさんの本の中でも明らかに新しく綺麗な本が山積みになった一角を、が指す。僕は「うん」と頷いて、その本の山の前にしゃがみこむ。も興味津々な風で僕の隣に同じようにしゃがみこんで、新刊本を覗き込む。
「見てもいい?」
「うん、どうぞ。僕も探すね」
 何十冊もある資料本を選り分けながら、僕は緊張に身体が強ばるのを感じる。平静に、平静にと思うのに、やっぱりこうして密室で二人きりになってしまうと、その動揺は他の比じゃない。
 はいつも通りに見える。一冊新刊本を取って、汚してはいけないと思っているのか、慎重な手つきでぱらぱらとめくる。僕の隣。そのすごく近い距離に、どくんと鼓動が走る。駄目だ考えるなと思いながら、僕は一冊の本を抜き出す。
「綺麗な本っていいよね。自分だけの本みたいだから」
 が少し楽しそうに言いながら、めくっていた本を閉じて、またそっと本の山に戻す。
「本、好きなの?」
「うん、たまには読むよ。……あ、これ武術の本だ……」
 ちょっと弾んだ声で、がまた違う本に手を伸ばしている。ああ、可愛いな、と僕はそのとき本当に素直にそう思った。は……可愛い。だから僕は、こんなにも気になるんだ。
「あ、ごめん。私のために探してくれてるのに」
「いいよ。新刊本を先に読めるなんてあまりないからね。気にしないで好きなだけ読んでていいよ」
「……うん、ありがとう……」
 やっぱり武術には興味があるのだろう。が熱心に本を読んでいる隣で、僕は一つ息を吐く。緊張と、……たぶん、少しの期待。が隣にいてくれているという、そのことについての。はなんとも思っていないかもしれないのに、僕だけこんなことを思っていたらと想像すると、すごく申し訳ないと思う。それでも……それでも、僕はが好きだから。
 少し憂鬱な気分で本を探していると、本の山の下に武具専門の資料本があるのを見つけた。本来の目的を思い出して、僕は悶々と違うことを考えていたことをちょっと反省してから、これなら火器も載ってるかもしれないなと、に視線を向ける。
「ねぇ。この本、もしかしたら」

 ──その時。

 僕は多少の身構えが出来ていたはずなのに、本気でなんの反応も出来なかった。
 すっと細められたの瞳が近づいたと思った瞬間、視界が反転する。額を手刀で突かれたのだと気がついたときには、すでに僕の身体は後ろに倒れていて、の重みが上に乗っていた。
 鮮やかすぎるその動きに一瞬なにもかも忘れて見惚れたとき、が僕にぐっと身を寄せて顔を近づけた。の長い髪がその肩を滑り落ちて、僕の頬に軽く触れる。
 僕の肩口を掴んで体重をかけながら、はぽつりとその唇を動かした。

「ごめんね、雷蔵。実習なの」

 近すぎるの声に、身動きが取れない。は目を閉じると、そのままほんの少しの距離を詰め、唇を僕のそれに押し付けた。
 ……すごく柔らかい感触に、思考がいっぺんにそれだけに染まる。唇の表面同士を掠めて、柔く吸うように啄まれる。僕の上にあるの体温だけでも、死にそうなくらい衝撃的なのに。くらりと、酔ったように意識がぶれる。
 たぶんそれは、さほど長い時間じゃなかったと思う。は唇を重ねたまま目を開くと、そのまま少し身を引いた。僕の唇に触れていた柔らかな感触が、ゆっくりと離れる。けれどまだすぐに触れられそうな距離で。
 はなにも言えない僕をじっと見て、少し顔を赤らめて「ごめんなさい」と謝った。

「実習内容、男子生徒に口付けすること。……騙してごめんね」

 また謝ってそのまま起き上がろうとするのを、僕は反射的にの背に手を伸ばして引き止めた。柔らかくて温かくて小さな、僕の腕に閉じ込めてしまえそうなの身体。
「雷蔵……」
 黙ったままの僕を怒ってると思ったのか、の唇がまた動こうとする。たぶん、謝罪の言葉。けれどそれより早く、僕はの言葉を遮った。

「ごめん、知ってた」
「え?」

 きょとんとするを、強引に引き寄せて口付けた。

「んっ……!」

 もう、なにを考えていいのか分からなかった。すごく愛しいの体温が、僕のそれに触れていることが嬉しい。の匂いと唇の感触に、理性がどんどん剥ぎ取られる。中に入りたくて舌をの唇にねじ込もうとすると、苦しそうな吐息を漏らしながら、は小さく口を開く。軽く絡まる舌の感触に、ぞくりと昂ぶった。
 の震える手が、僕の頭に触れる。至近距離の瞳は、戸惑うように揺れている。その瞳の中に僕が映っていることが、すごく幸せだった。
 なにも考えていないのに、身体が勝手に動いてしまう。の唇と舌の味に酔って、もっと欲しくて、の腰元に手を回して引き寄せる。小さなその舌をほとんど本能のままに吸った瞬間、がきゅうっと眉をひそめた。
 どん、と少し強めに肩を押されて、絡まっていた舌と唇が離れる。口付けのせいで少し荒い呼吸を繰り返しながら、が身を起こす。
 お互いの唾液で、の唇は濡れている。それを震える手の甲で拭ってから、は僕の上から降りた。真っ赤になった顔と、薄く涙の滲んだ瞳。

「……ごめんなさい」

 最後まではそう謝ると、立ち上がって足早に外に出て行った。ぱたん、と戸が閉められて、ようやく僕も身を起こす。
 頭に、まだ血が上っている。華奢で柔らかな温もりが、まだ僕の身体に残っている気すらする。寸前まであったの唇の感触を思い出して、身体が熱くなっていく。

「……

 僕は、実習内容を知っていた。教室を出たときに声をかけてきたくのたまに、全部聞いていたから。断ったら無理強いされそうになったから逃げてきたのは本当だけど、二人に声をかけられたというのは嘘だった。僕はそのまま、全速力で図書室に来たから。
 だって同じ実習を受けているのだと思うと、言い尽くせぬ不安に襲われた。図書室にいなかったらどうしよう。誰かともうしていたらどうしよう。……そして、大きな期待。僕との約束を利用してくれないかという、自分勝手な期待。
 それが実習でもなんでも、好きな女と口付けしたくない男なんていない。この想いが届くことがなくても、それでも恋仲の真似事が出来るならそれだけでもいいと、僕はそう望んだのに。

 それが叶ったのに。
 僕は、どうしてまだこんなに飢えてるんだろう。

 の傍にいたい。抱き締めたい。口付けしたい。触りたい。すぐ近くで僕の名前を呼んで欲しい。を全部僕のものにしたい!

「…………っ」
 
 ごめんねと謝りながら去って行ったに、罪悪感が浮かぶ。どうして僕は、自分からも奪ってしまったのだろう。実習相手に選んでくれただけでも十分に嬉しかったはずなのに。は、そんなの絶対に望んでなかっただろうに。
 薄く涙の滲んだの瞳が、脳裏に浮かぶ。泣かせたくなんてなかったのに。

「……嫌われたかな」

 ──自分で言った言葉に、ものすごく傷ついた。











 脇目も振らずに走り続けて、自分の部屋へと飛び込んだ。同室の子がいないことに感謝して、畳の上に崩れ落ちる。走ったせいか、それともあの行為のせいか、身体の火照りが消えてくれない。まだ熱さを感じる唇に、恥ずかしくて目を閉じた。
 まさか、口付けを返されるなんて思わなかった。騙して、強引にしたのは悪いと自分でも十分に分かっていても、怒られるとか罵られるとかは覚悟していても、雷蔵があんな行動を取るなんて、思いもしなかった。自分からした口付けはさほどなんとも思わなかったのに、雷蔵からのそれはなんだかすごく熱くて、すごくいやらしくて、頭が変になりそうだった。
 舌まで、絡めて。
「…………ど、うしよ」
 恥ずかしすぎて、泣きそうになる。明日から、どんな顔で雷蔵と会えばいいのか分からない。
 ごめんなさい。
 熱を持った唇、男の人の身体、背に回されていた雷蔵の強い腕の感触が、まだぜんぶぜんぶ自分の中に残っていて。 

 熱が、私の中から消えてくれない。あの行為を思い出すだけで、頭がぼうっとしてくる。
 知ってた、と雷蔵が言った言葉が蘇る。
 きっと図書室に来る前に、声をかけられたという生徒から聞いていたんだろう。もしかしたらその子とだってしたのかもしれない。
 雷蔵は全部知ってたのに、それなのに私の実習の手伝いをしてくれたんだ。どうして、あの人はあんなに優しいのだろう。
 どうして。私は。


 ──ほんとはもっとして欲しかった、なんて。

 そんなはしたないことを、いつまでも考えているのだろう。








 終