『鉢屋三郎』


 放課後を告げる鐘が響いた瞬間、自分でもアホかと思うほどに動揺した。

 思わず勢いよく立ち上がりそうになるのを、寸前で堪える。
 誰かに不審がられたら面倒だ。出来る限り平静を装おうとしたが、上手く行かずに軽く苛立った。
 他人を騙すのが得手のはずなのに、今はそれがまともに働かない。
 理由が理由だから仕方ない。そう分かってはいても、これほどに必死になっている自分が、いっそ道化のようで滑稽だった。

 ……くそ。

 苛立ち紛れに舌打ちして、授業の終わった教室を飛び出した。




 ※※※



 日も沈んでしまって、そろそろ夕食を食べに行かなくてはいけない時間だった。
 ちょっといろいろあって部屋の中で一人で悩んで落ち込んでいると、突然に、すとん、と後ろで小さな音がした。
 反射的に振り向いた瞬間、どす、とお腹に軽い衝撃を受けて、そのまま後ろに押し倒された。自分の上に乗ってくる華奢な重みに目を見開いたとき、部屋に響く声。

「ごめん雷蔵! 口付けさせて!」

「……ちゃん?」
 僕の上に乗って切羽詰った顔で見下ろしてくる女子生徒の名を呼ぶと、は「うん」と頷いて、よいしょ、と僕の腹の上に座り直す。
「……実習だよね?」
 苦笑して聞くと、はパッと顔を輝かせた。説明する手間が省けたと思ったのだろうか、嬉しそうに微笑む。
「うん、そう! 雷蔵はもう誰かとした?」
「ん……何人かに追いかけられた」
「そっか、さすが雷蔵だね!」
 よく分からないことを褒めてから、は僕に覆いかぶさりながら、「では」と気合を入れた顔になる。僕の顔の隣に手をついて、身を寄せる。
「口付けさせて頂きます!」
「い、いやいや、ちょっとちゃん待って!」
 慌てて、その肩を掴んで押し戻す。は「えー……」と顔を曇らせながらも、一応身を引いてくれる。ちょっとしゅんとした様子で、僕の顔を見下ろす。
「雷蔵も、駄目かな?」
「ん……うん。ごめんね」
 素直に謝ると、はふう、とため息を吐いた。そして、いやいやこのまま引き下がれませんと言うように、ぐっと拳を握る。
「あのね雷蔵、私これでふられたの三人目なの。お願い! 減るもんじゃないし、一回だけ私にさせて!」
 懇願するの表情に、ああどうしたものか、と僕はかなり本気で困る。今、くのたま達が『男子生徒に口付けしてこい』という実習をしているのは知っている。というか、身を持って知っている。だからだって必死なのは分かるんだけど。
「ね、ちょっとだけだから! 雷蔵が嫌なら先生以外の誰にも言わないし! ……駄目?」
「僕もいいよって言ってあげたいけど、駄目。絶対駄目」
 少し強く言うと、はじっと僕を見下ろして、「そっか」とうな垂れた。
「……実はね。久々知と竹谷にも、お願いしてすぐに『ごめん俺は絶対無理』ってすごい勢いで断られちゃったの。私に魅力がないのは分かってるんだけどこれ実習だし……一回でいいから、犬に噛まれたと思ってしてくれない!?」
「や、だからごめん、無理! ……ていうか……ちゃん、五年生にしか頼みに行ってないの?」
「うん。だって先輩は怖いし、後輩は申し訳ないし。だから五年の長屋の天井裏で、みんなが戻ってくるまでずっと待ってたの」
「……そりゃ断られるよ、ちゃん」
「え? どうして?」
 きょとんと見下ろすに、ああこの子は本当に気づいていないんだ、と僕はちょっと三郎に同情する。兵助も八左ヱ門も、三郎がのことを好きなのを知っているから、もし口付けなんかしたら絶対に殺されると思っている。もちろん僕もだ。
「そっか、五年生は昔から私のことを知ってるから、やりにくいよね。じゃあ、やっぱり先輩か後輩かな……。でも気が進まないの。私色術使えないから、拝み倒すことしか出来ないし」
 まだ勘違いをしているを見上げて、僕はそうでもないけどな、と思う。
 は確かにあまり女らしい身体つきじゃないけど、いつも笑顔で可愛いと思う。小動物的な……例を挙げればウサギみたいだ。小さくて華奢で、でも元気で明るくて。今だって、素直にお願いしようとしているところがくの一らしくない。この子に本気で頼まれたら、先輩だろうが後輩だろうが、好いた相手さえいなければ頷くだろう。
「……ていうかね、ちゃん。三郎は?」
「え……? さ、三郎?」
「うん。僕で三人目ってことは、三郎はまだなんだよね。頼んでみなよ」
 だって三郎だったら、絶対に断らないから。
「む、無理!」
 突然には真っ赤になる。ぶんぶんぶんぶん、音がするほど首を横に振る。
「なんで?」
 に口付けさせてくれなんて頼まれたら、それはもう上機嫌でいろいろ条件つけた挙句に口付け以上のことを要求してしかもその上でに感謝されるくらいの芸当はやるだろうに、三郎。
「……だ、だって、きっと無理だし」
「頼んでみなきゃ分からないよ」
「……で、でも」
 の顔が真っ赤になる。俯いてしまう顔はさっきまで僕に口付けを頼んでいたそれとは大分違い、なんというか恥ずかしそうな表情だった。
「僕とか兵助とか八左ヱ門ならよくて、三郎は駄目なの?」
「だ、駄目じゃないけど……け、ど」
 言葉が尻すぼみになる。うー、と困ったように頭を抱えてから、はがばっと顔を上げる。
「そんなことより、雷蔵! まだまだ時間あるし、私後輩のところに頼みに行ってくる! 喜八郎君……は駄目だ、絶対遊ばれる。滝夜叉丸君と三木ヱ門君……はなんか必死で断られそうだし、た、タカ丸さんのところに!」
「ちょっ、ちょっと待ってちゃん!」
 三郎に頼めばすぐなんだから、そうすればいいのに。僕の上から降りようとするの腕を掴んで引き止めた、その瞬間。


 ぱたん、と戸が開いて、部屋の空気が一気に下がった。


「……………………」
「……………………」

 そこにいたのは、今まで話題の中心だった三郎。
 三郎は、押し倒されている僕とその上に乗っているに視線を寄越すと、戸を閉めないまま部屋の中に進む。そして、唖然と見上げる僕に冷たく言った。

「雷蔵、合意か」
「ち、違う。なんにもしてない」

 潔白だと示すために両手を上げると、ようやくにこの状況に気づいたのか、がかあっと顔を赤らめた。慌てて僕の上から降りようとした瞬間、三郎が無理矢理にを肩に担ぎ上げる。

「わ!? さ、三郎!?」
「このアホどっかに捨ててくる」
「三郎、ちゃん理由があったから! 怒らないで!」
「雷蔵」

 戸を出る瞬間、ぎろりと三郎が僕を睨みつける。その瞳には悪鬼がいる。びく、と反射的に身が竦む。

「……後で覚えてろよ」

 そして、ばたんと勢いよく戸が閉められる。やばい、激怒だ。
 三郎がに深く惚れているのを知っているのは、多分僕達くらいだろうと思う。けれどその分、その想いがどれだけ盲目的かも熟知している。
 実習合格どころか、襲われなきゃいいけど……。
 もしかしたら止めたほうがいいのかなと思ったけど、三郎はを本気で傷つけることはしないだろう。
 だからまあ、結果的にはいいか、と僕は自分の中で勝手に結論を出して。
「…………はぁ」
 それから、が来る前まで悩んでいたことと三郎への弁解をどうしようかと、ため息を吐いた。










 どさ、と乱雑に下ろされたのは草の上。目の前には、冷ややかな目で私を見下ろす三郎。
 私が勝手に忍たま長屋に入ったから、それで怒ってるんだ。以前も昼寝しただけですごく怒られたし、これはまずい。
「……説明できるもんなら説明してみろ。なんで雷蔵の上に乗ってた」
 忍たま長屋の庭の端。後ろは塀、目の前には三郎。この絶体絶命な状況をなんとかしようと、私は素早く正座した。謝り倒すしかない。
「ご、ごめん。実習だったの」
「ほーーー、どんな実習で男の上に乗る」
 三郎は私の目の前に腰を下ろして、あぐらの上に頬杖ついて私を睨む。こ、怖い。
「あの……三郎、聞いてない? 今回の期末試験の実習内容、男子生徒に口付けしてくること、でね」
「…………」
「そ、それで……雷蔵にお願いして、断られてました」
 言いながら、ちょっと情けなくなる。三郎は私がそんなに成績がよくないことを知ってるけど、それでも自分から言うのは抵抗がある。みっともないから。
「ふうん」
 三郎は相変わらず、すごく冷たい目で私を見てる。なんだかそれがいつも怒られている雰囲気とどこか違って、私は焦った。
「ごめん。勝手に長屋に入ったのは謝ります。三郎、委員長だもんね。……でも実習単位がかかってるの。お願いだから、今日だけ見逃してくれない?」
 恐る恐る三郎の顔を覗き込むと、三郎はゆっくりと目を細める。
「……で? 雷蔵に断られて、次はどこに行くんだよ」
「えっと……実はもう久々知と竹谷にも断られてるから、あとは四年生、とか、しか……」
 口にした瞬間、ぐいっと三郎に身を寄せられて、言葉に詰まった。やっぱりどこかいつもと違う三郎の瞳に、唖然とする。
「さ、三郎……?」
「奪えば」
「え……?」
 三郎の身体が、さらに私に近づく。思わず身を引いたけど、すぐ後ろは塀だった。三郎の手が私の耳元すぐ隣の塀に押し付けられて、顔が近づく。あと少し私が動けば、口付けられる距離で。
「奪えばいいじゃん。それで実習合格だろ」
 意味を悟って、目を見開いた。
「……いいの?」
「ああ。しろよ」
 三郎の瞳が、私を射すくめる。
 鼻先が掠めそうなほどに近い距離。すごく傍にある、三郎の気配。私は地面の上に置いた手をぎゅっと握り締める。鼓動が跳ね上がる。
 三郎は動かない。ただ、じっと私を見つめてる。少しだけ顔を前に出せば、それで終わるのに。
 ……私は動けない。
 怖いんじゃない。嫌なんじゃない。なのに出来ない。
 雷蔵とか久々知とか竹谷を前にしたときに、自分から迫れたのが不思議だった。
 こんな近くで体温を感じて、こんな近くで視線を感じて、これで……口付けする?
 出来、ない。
 微かに手が震える。顔に血が集まっていくのが分かる。火照った頬を撫でる夜気さえも、三郎がすぐ傍にいるから冷たくない。
「さぶろ……」
 思わず名を呼んだ、その瞬間。

「遅い」

「っ! ん」
 鋭い声音と共に、三郎が距離を詰めた。私と三郎の唇の間がなくなって、感じたのは柔らかいのに強い感触。一瞬で頭が熱で染まった。
「ん──!」
 きつく目を閉じて、三郎の肩を押し戻そうと手を伸ばす。けれど三郎はびくともせずに、私の足を無理矢理割って自分の足を差し込んだ。ますます三郎との距離が詰められて、全身が三郎に包まれる。後ろの塀と私の頭の間に三郎の手が回されて、そのまま押し付けられる。唇の接触はどんどん深いものになって、力の入らない私の口の中に三郎の舌が入り込んでくる。思わず、そのねっとりとした感触に驚いて震えた。三郎の舌は私の口の中を這い回って、私の舌に絡めて強く吸う。慣れない感触と、それを三郎に与えられていることに、私の頭が変になる。
 舌同士が触れ合うたびに、じわりと唾液が滲んでくる。二人分混じったそれをごくりと三郎が飲み込んだの感じて、愕然とする。その次に喉奥にまで舌をねじこまれて、私も反射的に口の中のものを飲み下した。
 三郎の手が、私の手を包み込む。私は縋るようにその手を握り返す。三郎から与えられるものがまだ分からなくて、ただただきつく目を閉じていた。
 舌の絡みが深くなる。三郎の呼吸が荒いものになって、全身で感じる三郎の身体が、私より酷く熱いのを知る。あたまがおかしくなる。

 口付けの合間、呼吸の隙に呼ばれた名前。その声に返したいのに、私はほとんど身体を動かせなくて、ただ三郎の唇と舌と、体温と匂いだけを感じてる。
 ゆっくり目を開けると、目を細めた三郎のそれとぶつかった。切なそうな三郎の瞳に、月のものの痛みみたいに下腹が締め付けられる。理由の分からない涙が滲んで、頬にそのまま滑り落ちた。
 激しかった三郎の舌の動きが、少しずつ優しいものになる。三郎はゆっくり私の舌を離して、互いの唾液で濡れた私の唇を啄ばむように吸った。表面を舌で舐められ、吸われるのを繰り返されて、唇が腫れたみたいにじんじんする。
 最後に強く唇を押し付けて、三郎は私から少し身を引いた。ついさっきまで全身を包んでいた熱さが、離れていく。
 三郎の手が涙を拭うように私の頬を撫でて、ずっと触れてくれていた唇が、小さく動く。

「……ごめん」

 ──咄嗟に手を伸ばして、三郎の頬を掴んで引き寄せた。
 さっきと同じ、唇の感触。三郎が息を飲むのが分かる。三郎が私にしてくれたみたいに、舌で舐めて吸うのを繰り返す。震えている。私の手も舌も。それでも突き動かされる、名前の分からない感情のままに、私は必死で三郎がくれたものを返そうとした。
 けれど、慣れないそれを長くは繰り返せなかった。唇を離す。涙で滲んだ視界で、唖然としている三郎を見上げた。
、なん、で」
「……自分からしないと、駄目だから」
 三郎の肩を軽く押し離して、私は立ち上がる。頭に血がのぼる。
「あ……、ありがとう」
 それだけを言うのが、精一杯だった。気が抜けば崩れ落ちてしまいそうに力の入りにくい身体を必死で支えて、私は逃げるように女子寮へと走り出した。






 瞬く間に去っていくの気配が消えても、身体の火照りが消えてくれない。奪ったの口付けだって相当昂ぶったのに、まさか本当にあっちからされるなんて思ってもみなかった。
 抱き締めた感触もの体温も口付けの深さも舌の味も柔らかさも、まだ全部覚えている。触れた瞬間、歯止めが利かないほどにあの女が欲しかったのだと、否応が為しに教えられた。

 なんで、最初に俺のところに来ないんだ。

 俺は、事前に女子生徒の実習内容を知っていた。委員長だからと、揉め事が起こりそうになったら止めろと忠告されていたのだ。無論決して漏らすなと言われていたけれど。
 だから、ずっとを探していた。自分でも呆れるほど必死に、あいつをずっと探していた。

 ──なのにどうして、あいつは俺の部屋で、俺じゃない男に迫ってるんだ。

 雷蔵が悪いわけではないと分かっていても、強い嫉妬心が沸き起こる。なんでお前は、俺よりあいつに求められてるんだ。八左ヱ門も、兵助も! 俺はあいつらよりも下なのか。
 
「……どうせなら、抱いてやればよかった」

 それは確かに俺の望みだ。けれど、出来るわけがないくせに。嫌われることが一番怖いくせに。
 ぎゅうっと、繋がった手を握り返してきたの仕草を思い出す。
 抵抗されなかった。強い拒絶もなかった。それがどれほど嬉しいのか、俺が安堵してるか、あいつは絶対に分かっていない。

 俺はなぜ、俺でしかないのだろう。
 なぜ俺は、あいつに選ばれる男になれないのだろう。

「────くそ!」

 煮えた頭は、冷める様子さえ見せない。
 沸き起こるのは、暴力的な想いの渦。
 あの女の全部が欲しいと、独占欲にまみれた想い。


 


 もしも、これ以上を求められないならば。
 せめてこの熱だけでも、俺の身体に残ればいい。








 終