| 『立花仙蔵』 | |
※とても消化不良な出来になっています。 読後感が悪くてもすっきりしなくても構わない! と仰ってくださる方だけスクロールをお願いします。 ようは、躊躇をなくすことが目的なのだろう。 実習の概要説明を受けた後、教室を出てそこらを適当に歩きながら、私は思う。 ほとんどの女子生徒にとって、口付けという行為は特別なもののはずだ。たとえば同じ肌と肌の接触でも、『男子生徒と手を繋いでこい』という内容ならば、実習にはならない。口付けは恋仲同士でするものだと刷り込まれているからこそ、難易度が上がってしまうのだ。 つまりは、単に『口付けは特別な行為だ』というこだわりを捨てられるかどうかという試験だ。色術というより度胸の問題だろう。 ……そこまで冷静に分析してから、私はそれを自分もしなくてはならないことに気づいて、今更ながらにうんざりとため息を吐く。ものすごく、面倒くさい。ものすごく、やる気がない。 それは、私が男という生き物が大嫌いだからだ。だいきらい、などという可愛い言葉ですら言いたくない。男なんぞ、一人残らず地獄の業火に焼かれてしまえばいい、とまで思っている。 けれど男が嫌いな分、私にはあいつらを騙すことや傷つけることに一切の躊躇いがない。そもそも房術の手ほどきを受けている私にとって、口付けごときになんの抵抗もない。 やる気が全然湧いてこなくても、これが楽すぎる試験であることは確かだ。私は授業や試験をそのときの気分次第でしょっちゅう放棄しているから、成績は常に進級ギリギリしかない。面倒だからという理由だけでこの試験を放棄したら、後々もっと面倒な試験を受けるような事態になるかもしれない。 仕方ない。 頭巾を取り払って畳んで懐に仕舞ってから、髪紐を解く。ばさりと肩にかかる髪を今一度結い直して、私はまた適当に歩き出した。もう誰でもいいから、四年生以上の男子を見かけたらヤってしまおう、と。 口付けを強いるそれ自体は、一応はすぐに終わった。 庭を歩いていたら、向こうから五年の男子生徒が駆けて来た。私の姿を見て一瞬ぎょっとして(私のことを知っている上級生の男子は大抵そういう反応をする)、それから極力視線を合わせないようにしながら、私の横を通り過ぎようとする。 ──すれ違いざまに間合いを詰めて、その腹に拳を叩きつけた。 「っ!?」 私を警戒していたのにこういう状況は予想出来なかったのか、男子生徒の腹には全く力が入っていなかった。その分みぞおちまで容易に抉った衝撃に、膝から崩れ落ちて咳き込み始める。私はその隣にしゃがみこんで、上から顔を覗き込んで囁いた。 「先輩に会ったら、挨拶くらいしたらどう?」 「な……、先輩……っ」 苦しげに私を見上げる男子生徒の頬を掴んで引き寄せて、そのまま唇を重ねた。途端に強張る身体に、図体はでかいのにまだまだだなと思う。 すぐに口付けを解いて手を離すと、男子生徒は呆然と私を見て、それから思い出したようにまた咳き込み始めた。その背を軽く叩いて、私は立ち上がる。 「ま、待ってください! 先輩、なんで」 驚きと動揺の入り混じった表情を向けられて、私は目を細めてその顔を見下ろした。 「ただの暇つぶしよ」 目を見開く男子生徒に背を向けて、歩き出す。後ろから微かに聞こえる呻き声を無視して、さっさとその場を後にした。 これで実習は終わりだ。先生に報告してとっとと部屋でごろごろしよう、とくの一教室に向かおうとして。 ……名前を聞いていないことに気がついた。 私は男の顔を覚えるのが苦手だ。苦手と言うより、覚える気がないのだろう。同年の男子ならばともかく、接点のない他の学年の男子の顔と名前など、さっぱり頭に入っていない。もう一度あの男子生徒を見つけようにも、どんな顔だったかもほとんど思い出せない。 無駄、か。 あー、くそ面倒くさい。 どう考えても自分が悪いのだけど、ぶつけようのない怒りに頭痛がする。仕方ないからもう一度誰か襲おうと諦めて、また適当に学園内を歩き出した。 むやみやたらに実習内容を吹聴するなというお達しが出ているせいか、学園内は結構静かだ。たまに見かける女子生徒達も、騒がずおとなしく目当ての男子を探している。 思いついて、縁側から柱を伝って屋根に上った。私の顔は男子生徒によく知られているから、真正面に向かうのは得策ではない。学園内をよく把握できるところから、近くに手頃な男子がいないか確認しようと思ったのだ。 地上よりも少し強い風が吹いている屋根の上を、ぶらぶらと下を見ながら歩く。なんだかものすごい勢いで爆走しているくのたまの後輩とか、こっそりと男子寮に忍び込もうとしている同級の子とかを見つけて、気づかれていないと知った上で小さく手を振った。みんな頑張れ。 さて。私も嫌々ながらに男子生徒を見つけようと目を凝らす。運動場でいけいけどんどんしているアホ男子とか誰かを追いかけているのか必死に走ってる変な男子とかはいたけれど、後ろからボコ殴れそうな隙だらけの男子はいない。いっそ私も男子寮に行ったほうがいいかと思ったとき、視界の端に六年男子の深緑の制服が映って、反射的にそちらに目を向けた。 そして、すぐに後悔した。 艶のある長い黒髪、女と言っても通用しそうな整った顔立ち、同年の他の男子と比べて無駄に筋肉のついていない、すらりとした体躯。 ほとんど反射的に顔を歪めた。嫌なものを見てしまったなと軽く気が滅入る。 立花仙蔵。私が嫌悪する男の中でも、一番嫌いな種類の男だ。あいつだけはありえないと即座に見なかったことにしようとして、その仙蔵に駆け寄る顔見知りの後輩に気づく。後輩は仙蔵を呼び止めると、少し緊張した面持ちで何事かを告げている。声はここまで聞こえないけど、今の状況からしてその内容は容易に想像出来た。……ああ、そうか。 なるほど、この試験はあの男に頼むのが一番楽だろう。仙蔵は来る者拒まない節操のない男だから、相手が誰であろうが簡単に了承するはずだ。 学園のゴミくらいにしか思っていなかったあの男にもこんな活用方法があったのかと、私は少し感心する。まぁ、普段女子をよく泣かせているのだから、あいつも一年に一度くらいは役に立てばいいのだ。 会話を交わしている仙蔵と後輩から視線を逸らして、私は運動場に目を向ける。その端に体育倉庫に向かって歩いている四年男子を見つけて、もうあれでいいや、と素早く屋根の上から下りた。 男子生徒が体育倉庫からボールを抱えて出てきた瞬間に、その肩を掴んで無理矢理倉庫の壁に押し付けた。とん、と地面に落ちるボール。何事かと目を見開く男子生徒に、綿足袋から暗器を抜き取って、よく見えるように近づける。 「これ、なんに見える?」 「……ど、毒を塗った長針です」 「その通りよ。これ以上は言わなくてもいいわよね?」 「────……」 男子生徒は一瞬だけ抵抗しようかと戸惑いを見せて、それから逃げるのは無理だと悟ったのか、諦めの混じった吐息を漏らした。 「僕に……なんの御用ですか、先輩」 「痛くないから目を閉じてなさい」 「……目?」 男子生徒はきょとんとした後、私の手に握られている長針に視線を向けて、慌てて瞼を下ろした。素直なのは、男の中でもまだ嫌いじゃない。 「いい子ね」 囁きながら、唇を重ねた。 びく、と男子生徒の身体が跳ねて、閉じていろと言ったのに目を開く。まあ、仕方ないか。男子生徒が口付けされていることを悟って息を飲んだとき、唇を離した。 「忘れる前に聞いておくわ。名前、なに?」 「な、まえ?」 今起こったことに理解がついて行かないのか唖然としている男子生徒に、無言で眉間寸前に長針を突き出した。男子生徒は途端に血の気の引いた顔で、口早に自分の名を言う。その名字だけ頭に叩き込んで、私は暗器を戻して身を引いた。 「もういいわよ」 「……あの、先輩」 「後で分かるわ」 説明するのも面倒で、私は踵を返して男子生徒を置き去りにする。気配と音で分かる。男子生徒は落ちたボールを震える手で拾って、私にじっと視線を向ける。幾度か私に声をかけようかと逡巡して、結局為せずに諦めて、運動場へと向かっていく。 遠ざかって行く気配に、私は薄く笑う。若いのは素直でいい。 それから、これで本当に実習が終わったなと、やれやれと息を吐いた。 忘れぬように、さっき聞いた男子生徒の名字を何度も頭に叩き込みながら、私は運動場から離れる。 二度も面倒なことをしたせいか、少し疲れて身体がだるい。 まだ報告までは時間があるからと近くの木立に足を踏み入れて、適当にそこらの木の下に座り込む。 「………………」 幹に背を預けて、そのまま目を閉じた。 眠っていたわけじゃない。ただぼうっとしていただけだ。時間が四半刻ほど経ったとき、近づく気配に気づいてゆっくりと目を開けた。 一人の男子生徒──装束の色は四年生のものだ──が、私に近づいてくる。その顔にはいつも通り見覚えはないけど、とりあえずさっきの四年生じゃないことは確かだった。 男子生徒はやや緊張した面持ちで、私の数歩前で足を止める。それから私と視線を合わせるように、その場に腰を下ろした。 なんなんだ、ただでさえ男ばかり目にして腹が立ってるのに、また男か。 「……なによ」 「先輩、俺のことを知ってますか」 「知らないわね。興味もない。分かったらどっかに行ってくれる?」 今は実習が終わった虚脱感でやる気がないけど、普段なら問答無用で蹴りつけるか殴っているところだ。げんなりと、私は男子生徒を視界に入れないように顔を背けた。ああ、嫌だ。 けれど私のあからさまな拒絶にも、男子生徒は怯まない。逆に少し私に詰め寄って、口を開く。 「今、実習中なんですよね。先輩」 その硬い声に、もしかしてさっきの男子生徒のことを注意しに来た学級委員長かと思って、酷く面倒になる。けれどその次の瞬間続けられた言葉に、さすがに少し驚いた。 「まだお済みでなかったら、俺を相手にしてくれませんか」 「………………」 ようやくに、私は男子生徒にまともに目を向ける。硬い表情、緊張した雰囲気。やっぱり見覚えのない、『男子生徒』というだけの顔。 「女が欲しいの? 先輩に、私には近づくなって言われなかった?」 「先輩が好きなんです」 ……あー、面倒だ。 「そういうの、欲愛って言うの、知ってる?」 「先輩がそう答えることも分かってました」 少し目を伏せて、男子生徒は固い声音で繰り返す。 「……誰でもいいなら、俺にしてください」 「…………」 すごく、面倒だ。 色恋沙汰に巻き込まれて、ややこしい事態になるのは勘弁したい。ここで実習はもう終わったと告げたところで、この男子生徒は引き下がるだろうか。 「……あんたさ、もう一回聞くけど、私には近づくなって言われなかった?」 「俺は先輩が好きです。……それじゃ答えになりませんか」 そう。それじゃ答えにならないのよね。 はー、とため息を吐いてから、私は背を預けていた木の幹から身体を起こす。こういうときは、断るほうが時間がかかる。 「あのさ。口付け以上のことは期待しても無駄だから。それでいいの?」 「はい。……それだけでいいです」 「私がこれ以降相手にしないことも分かってるわよね?」 「……はい」 消え入りそうな声音には、悲痛なものが混じってる。心配せずとも、そんなものは今だけだ。色恋の感情ほど脆いものはない。 「なら別にいい。……おいで」 手を軽く伸ばすと、男子生徒は一瞬だけ呆けた顔をした後、躊躇する動きで私に近づく。目前に辿り着いて、居たたまれなくなったのか目を伏せる男子生徒の顔に手を伸ばして、引き寄せた。微かに震えた男の手が、私の背に回される。まあ、それくらいなら許してもいいか。もし押し倒されたら股間を蹴り上げようと醒めた頭で考えながら、顔を近づける。 「目、閉じてなくていいの」 「はい」 鼻先が触れそうな位置で問うと、すぐ傍の私の目をじっと見ながら、頷く。それならと、唇をそのまま押し付けた。 私に触れている男の身体が、軽く強張るのが分かる。至近距離で合った目が、ゆっくりと揺れた。欲愛。あんたが私に抱いてるのは、欲愛だ。決して情愛じゃない。 男子生徒がその気にならないうちに、肩を押して口付けを解いた。少しは食い下がるかと思ったけど、男子生徒は素直に身を引く。遠くを見る目で私の顔をじっと見つめて、礼を言う。 「……ありがとうございました、先輩」 「名前だけ教えて。実習だから」 さっきの名前を忘れる可能性を考慮してそう言うと、男子生徒はぽつりと自分の名を呟いた。私がもう用はないという意図にまた木の幹に身を預けると、それを察したのかゆっくりと立ち上がる。 「……俺の名前、覚えていてもらえますか」 「報告したら忘れるわ。そんな女だって分かってるんでしょう」 答えると、男子生徒は数瞬沈黙してから、無言で私に一礼した。それから、去って行く。 感情のない口付け。 今日だけで三人。けれど、触れたときも、触れたあとも、私にはなにも残らない。 私は愛なんて信じない。 さっきよりも疲れた気がして、私はまた目を閉じた。報告に行くまでにもう少しここで休んでいよう、と思いながら。 次は本当に眠ってしまっていたらしい。もう日が沈んだ木立の中、少し冷えてしまった肩を一度撫でてから、ゆっくり立ち上がる。日が沈んだとはいえ、まだ食堂が賑わっているような早い時間だ。とにかく先に実習報告に向かおうと、私はのろのろと歩き出す。 月が明るい。ざわざわと人の多い共用場には行きたくなくて、人通りの少ない庭を選んでくの一教室へと向かう。大分時間は過ぎたけど、みんな実習は終わっただろうか。私とは違ってこの手のことに慣れていない何人かの友達や後輩を思い浮かべて、少し心配になる。 まあ、もし終わっていなくても、仙蔵のところに行けばいいと助言してやれる。あの男が使えるのは今日だけだ。存分に利用してやればいい。 「………………」 そこまで思ったとき、私は嫌な予感に身震いして足を止めた。仙蔵は半年ほど前から、しょっちゅう私に愛だの恋だの囁いてくるようになった。男嫌いの私を手なずけようとする悪趣味な遊戯だと理解していたから相手にしていなかったけれど、誰かと賭けでもしているのか、仙蔵は一向にそれを止めようとしない。まるで私のことを、自分の女だとでも言うような態度で接してくる。 今、あいつに見つかると厄介かもしれない。 私は面倒なことが大嫌いだけど、あの男に関することは特に嫌いだ。ぎりっと、痛みを感じるほどに唇を噛み締めて、足を速める。 私はあの男の顔が嫌いだ。声も嫌いだ。視線も全部、なにもかもが大嫌いだ。いっそ、あいつなんていなくなってしまえば── ……月に、雲がかかったのかと思った。 唐突に薄暗くなった視界に、私は自分でも理解しないうちに再び足を止めていた。 それが一瞬のうちに近づいた人影なのだと気づくのに、数秒かかった。 月の光が、私の目の前にいる人影を照らす。細身の体躯に、夜の今はあまり目立たない黒髪に、端正な顔立ち。 仙蔵。 それと理解したときに逃げればよかったのに、足が動かなかった。仙蔵が私に向ける冷たい視線に、今一度唇を強く噛み締める。仙蔵には月の光がよく似合う。その白い肌が映えるから。死ねばいいのに。 関わってはいけない。ようやく身を引こうとした瞬間、腕を掴まれた。 「…………なに」 容易く振り解けるほどの弱い力じゃない。掴まれた腕が酷く痛む。落ち着けと、煮えそうになる頭を無理矢理に静める。仙蔵は私の顔をじっと見下ろしてから、たった一言だけを口にした。 「実習は」 やっぱりそのことかと思うと同時に、苛立ちが腹底から上ってくる。私はあんたのものじゃない。 「……あんたには関係ないでしょうが」 「」 名を呼ばれた瞬間に、腕を掴む手にさらに力が込められる。痛みを表情に出さないようにと努めながら、仕方なしに口を開いた。 「私が、この手の実習に躊躇するとでも思うの?」 「相手は」 「なんであんたに言わなくちゃならないのよ」 「……私は、お前が好きだからだ」 うるさい。 今まで何百回言われたか分からない戯言を拒絶して、私は仙蔵から顔を背ける。腹が立つ。頭にくる。 「」 「……四年生と、五年生よ」 名前を呼ばれることすら耐え切れなくて答えてしまうと、仙蔵の目が細められる。 「一人じゃないのか」 「三人よ。……これでいい?」 素直に答えた。もういいでしょう。 仙蔵に掴まれた腕が震えそうになるのを、必死で堪えた。私はこの男が嫌いだ。声が、視線が、全部いつまでも私の中に染み付くから。 「離してよ。……離して」 冷静にと繰り返して意識しながら、私は掴まれた腕を振り解こうとする。 仙蔵は一度ゆっくりと瞬きをして、 「そうか」 愉悦にしか思えない冷たい笑みを浮かべて、私を強く突き飛ばした。 咄嗟の反応が出来ずに、勢い良く地面に背を打ち付ける。身を起こそうとした瞬間に仙蔵が迫って、肩を掴まれて阻まれた。圧し掛かってくる重みと、寄せられた顔にぞくりとする。震えそうになる身体が酷く悔しくて、せめてもと、近い仙蔵の顔を睨みつけた。 「……なんなのよ、あんた」 「」 手を伸ばされて、顎を掴まれる。嫌な予感に、悪寒が走る。いやだ。 「……。私はお前が好きなんだ」 囁かれた声音には、懇願するような響きがある。作り物に違いないそれに、怒りが沸き起こる。 顔を覗きこまれる。鼻先が触れそうな距離。月の光しかない闇の中でもよく分かる、吸い込まれそうに黒い仙蔵の瞳が、私のそれと絡む。 「三人、か」 私の身体に、仙蔵の身体が押し付けられる。逃げ出せぬよう組み敷かれる、その慣れた所作に嫌悪が走った。 「ならば今更、一人増えたところで問題ないだろう?」 なぁ、と柔く微笑む仙蔵に、これから起こるかもしれないことを予想して、小さく身体が震えだす。あれほど堪えていたのに、震えてしまう。もう、むりかもしれない。 「……あんた、なに考えてんのよ」 「他の男は良くて、私は駄目なのか」 「う、るさい」 うるさい。うるさい。うるさい! 「あんただって、数え切れないくらいの女の子としてるでしょう」 「ああ……そうだな」 「それなら、私のすることに口出ししないで。……離して!」 震える手で仙蔵の肩を押し戻そうとすると、その手を掴まれて地面に縫い止められる。額と額が、微かに触れる。私よりも少し冷たい仙蔵の肌の感触に、涙が滲みそうになる。いろんな女を抱いたその手で、私にさわらないで。 「」 力が入らずにそれ以上の抵抗が出来ない私に、仙蔵が囁く。 「ならば……もう誰にも触れないと約したなら、お前は私を見てくれるのか」 ────やめて。 脳髄にまでその声が届いて、私はきつく耳を塞ぎたくなる。けれど腕は仙蔵に拘束されているから、私にはそれすらも許してくれない。 「」 やめて。 「、お前が好きなんだ」 やめ、て。 それ以上は、言わないで。 言わないで。 「──大嫌いよ、あんたなんか」 震える声音で吐いた言葉に、仙蔵の動きが止まる。 もう嫌なの。その顔で私を見ないで。私の傍にいないで。私を混乱させないで。 「愛さないわ、あんたなんか。……あんただけは、嫌なの」 仙蔵。 私に触らないで。私を愛さないで。 ……愛する振りを、しないでください。 「だから……私の前から消えて」 仙蔵は、しばらくただじっと私を見つめていた。手首を掴まれていた長い指がゆるりと解けて、そのまま開いたままの手のひらと重なって、きつく握られる。 仙蔵の顔は歪まなかった。どこか達観したように、小さく笑う。「知ってはいたつもりだが」と、呟くように言いながら、仙蔵は私の肩に額を寄せた。 「……お前は、そこまで私が嫌いか」 私は頷くこともその逆も出来ず、ただ肩口と手のひらに、仙蔵の温もりだけを感じている。 私は愛など信じない。 だから誰も愛さない。 きっと、一生誰も愛せないから。 月の光が雲に陰って、冷たい夜気が包み込む。すまなかった、と小さな仙蔵の声が、闇の中に溶けていく。途端に私の頬に流れた温かいものを、ああこれは今私に触れている仙蔵の温もりと同じだと思いながら、けれど気づかぬ振りをして、私はゆっくり目を閉じた。 終 |