| 『食満留三郎』 | |
…………。 「よーし平太、それが終わったら昨日の続きをするか」 「あ、はいー……金槌取ってきますー……」 「ねえねえ富松先輩、この投網ってどうやって元に戻すんですかー?」 「ああ投網は……ってなんで投網なんかあるんだ、なんに使うんだよ!」 「第三協栄丸さんが、この間お土産にってくれたんですー」 「またややこしいもんを土産に……。とりあえず広げてから畳むか。喜三太、そっち持て。しんべヱも手伝え」 「はーい!」 …………。 「食満先輩……なんで釘ってちゃんと打てないんでしょうか……」 「金槌と平行に釘の頭をまっすぐ打てば良いんだが……ああ分かってる、まっすぐ打ってるつもりなのに曲がるんだよな。数をこなせばコツを掴めるから、とにかく練習することだ。綺麗に打てたら気持ちいいぞ」 「とりあえず端にでも寄せておくか……ていうか重いな投網!」 「なんか変なものがいっぱいですねぇ、用具倉庫って」 「変なものに見えるだけでどれもちゃんとした忍具なんだよ。……よし、この辺でいいか。じゃあ次は──」 ………………。 ………………。 ………………。 「……ねえねえ、喜三太」 「なーに、しんべヱ? おっきいナメクジさんでもいたー?」 「そうじゃなくてー……なんか先輩が変なんだけど」 「え? ……あ、ほんとだ、すごく変」 「どうしたお前ら、なにが変って……あ、ほんとだな。…………先輩? どうかしました?」 「どうかしましたー?」 「え? ……あ」 声をかけられて顔を上げると、いつのまにか作兵衛としんべヱと喜三太が目の前に来て、じーーっと私を覗き込んでいた。 「どうしたの、みんな」 「いえ……先輩、なんかすごくぼーっとしてらっしゃるから」 「先輩、眠いんですかー?」 「お腹空きましたー?」 「あ、ごめん。なんでもない……」 慌てて首を横に振ると、三人は顔を見合わせてから、「そうですかー」とそれ以上はなにも言わずに仕事に戻って行った。 それを見送ってから、私は手元に視線を下ろす。どのくらい手を止めていたのか、今日の私の仕事である手裏剣の手入れは、始めたときからほとんど進んでいない。上級生なのに示しがつかないところを見せちゃったなと、私は少し反省する。 私はこういう、黙々と作業をする仕事が好きだ。喋るのはあまり得意じゃないし、人をまとめる力もないし。だから用具委員の仕事は自分に合っていると思う……んだけど。それすら集中出来ないなんて、私も人並みには悩んでいるということなんだろう。 期末試験実習概要。男に口付けしてくること。 放課後になる前に山本先生に言い渡された試験内容。聞いたときは特になんとも思わなかったし、無理強い可なら委員会が終わった後でも大丈夫だろうと、こうして用具委員にも顔を出している。だから今は委員会の仕事に集中すればいいはずなんだけど。 「しんべヱ、喜三太。お前達も仕事が終わったんなら、一緒にやるか?」 「えー、なになに平太なにやってんのー?」 「あ、金槌で釘打つやつだー。これ絶対曲がるんだよねぇ」 「平太、二人に教えてやれ。しばらく練習してていいぞ。……なんだ作兵衛、呼んだか?」 「委員長ー! すみません、一人じゃ重くて持ち上がらないんですー!」 「ああ、今行く!」 足早に用具倉庫に向かう食満に目を向けてしまって、私は慌てて作業に戻る。また手を止めないようにと気をつけながら、そっと嘆息を漏らした。 私は男女の行為を恋仲以外の相手とすることに、さほど抵抗はない。それが試験ならばなおさらだ。確かに内容が内容だから難しいなとは思ったけど、頼んで駄目ならば申し訳ないけど無理強いするしかない。委員会が終わったら誰か適当な相手を探しに行こうと、そこまで考えていたのに。 委員会の集合場所に着いたときに、食満の顔を見て気づいてしまった。たぶんそれまでは、意図的に思い出さないようにしていたのに。 食満と私は同年で、長い間委員会で一緒だった。そんなに仲は悪くないと思うし、今までだって、互いになにかあれば頼んだり頼まれたりは当たり前だった。そしてなにより私はずっと食満のことが好きで、委員会に入ったのだって食満が誘ってくれたからだ。 だからもし食満が相手になってくれたら一番嬉しいんだけど……でも。 頼むだけならば出来るだろうけど、それで断られたら、さすがにすごく落ち込むと思う。その可能性があるなら、初めから口に出さないほうがいい。かと言って武闘派とまで噂されている食満に力任せに実行するのは物理的に無理な気がするし、脅せるような弱みも知らないし、そもそもそんなことをして嫌われたくもない。 ……つまり食満相手には出来ないという結論にしかならないのに、それでも私は同じことをずっと繰り返し考えている。 答えが出ているのに諦めきれないのは、やっぱり私が食満を好きだからで、……それと委員会活動が終わってしまえば、食満だって誰かの対象になるかもしれないと思うと、少し複雑だからだ。 厄介だなと思いながら、力を込めて手裏剣を磨く。 食満に恋をするのは私の勝手だけど、それに食満を巻き込むのは申し訳ない。食満に迷惑はかけたくないのに、食満が誰かとするのは嫌で、その二つに私の心は揺れてしまう。 ……いっそ、恋が一人で出来るものならいいのに。 そんな無茶なことを思いながら、とにかくまずは遅れている仕事を終わらせようと、私は手裏剣の手入れに集中し始めた。 「……がおかしい?」 「はい。ちょっとぼーっとしてらっしゃる感じで」 作兵衛に言われて、留三郎が用具倉庫の前で作業をしているに視線を向けると、しかしは普段通りにしか見えなかった。ただ黙々と、いつものように丁寧に手裏剣を磨いている。 「……そうか? いつも通りに見えるが」 「今はそうなんですけど、さっきはなんかずーーと手を止めてて……体調でもお悪いのかと」 ちらちらとを窺う作兵衛の顔には、純粋に心配そうな色しか浮かんでいない。作兵衛も留三郎ほどではないがとの付き合いはそこそこ長い。……その作兵衛がこう言うのだから、少し気を付けたほうがいいだろうと留三郎は頷いた。 「ああ、分かった。また様子がおかしかったら俺から聞いてみる」 「はい、お願いします委員長」 ちょっとホッとした顔になって、作兵衛は与えられていた自分の仕事、備品の在庫確認をするためにぱたぱたと倉庫の奥に向かっていく。留三郎は今一度に目を向けて、それからほんの少し顔をしかめた。 はあまり感情を表に出さない。それに我慢強く大抵のことでは音を上げないから、周囲が気づかぬうちに無茶をしていることがある。本当に体調が悪いなら医務室に押し込んでこなければと思いながら、の様子を窺いつつ仕事を続けた。 悩んでいても仕方ないということは分かっているけど、悩むなと言われても困ってしまう。 ようやく磨き終えた手裏剣を籠ごと持ち上げて、私はすぐ目の前の用具倉庫に向かう。さっきまで近くで金槌の練習をしていた下級生達の姿は見当たらなくて、倉庫の中に微かな食満の気配だけがした。空は少し日が落ちかけて赤みがかっていたけれど、仕事はまだたくさんあるはずだ。遅れた分を取り戻さなければと、少し急いで倉庫に入った。 手裏剣の並ぶ棚に籠ごと戻して、在庫表を軽く照合して、それから食満の姿を探して回った。私がぼうっとしている間にどれほど仕事が終わったのか分からない。次になにをやるべきか聞かなければと思ったのだ。 しばらくしてから、用具倉庫の奥で食満を見つけた。明日下級生達が授業で使う用具を確認しているらしい、食満の後ろ姿に声をかけた。 「食満」 「……ああ、。手裏剣の手入れ、終わったか」 「うん。次、なにすればいい?」 「……ちょっとこっちに来てくれるか」 軽く手招きされて、私は食満の元に向かう。忍具がずらりと並ぶ棚の前に座り込んでいる食満の元に着くと、食満は手で『座れ』と示す。促されるままに、食満の前に腰を下ろす。 「なに?」 食満は片手に持っていた在庫表をそこらに置くと、私に向き直ってじっと顔を覗き込んできた。きょとんとその食満を見返すと、食満は私の表情を探るように見て、それから少し身を引いた。 「どうしたの?」 「いや……、お前体調悪いのか」 「そんなことないよ」 なにか心配させるようなことをしただろうか。食満の言葉に慌てて首を横に振ると、食満は少し疑っているような視線で私を見て、それから無言で手を伸ばした。 「っ!」 ぺち、と軽く額に手を当てられて、私より少し温かい食満の手の感触に小さく震える。食満は、んー、と首を傾げて手を引いた。 「熱はなさそうだが」 「うん……ないよ。体調悪くないから」 動揺して跳ね上がった鼓動をなんとか静めようとしながら、私は頷く。どうして食満はそんなことを思ったんだろう。 「私、なにかおかしかった?」 「作兵衛がな、お前がぼーっとしていたと教えてくれたんだ。それから時々様子を見ていたが、確かにお前にしては手が遅かった」 思い当たって、思わず視線を逸らした。作兵衛が心配して食満に伝えてくれたということは、つまりそれほど私はぼーっとしていたんだろう。それも申し訳ないけど、なにより食満に見られていたというのが恥ずかしい。 「……あの、ごめんなさい。仕事遅くなっちゃって」 「違うだろ、そんなこと言ってるわけじゃない」 ちょっとむっとした様子で、食満が言う。私も食満はただ純粋に心配してくれているんだと分かっていたから、言い方を間違えたと今更に反省した。 「ごめん。本当に大丈夫だから」 「……お前、辛いとかあまり人に言わないだろ。だから注意はしていたつもりなんだが」 食満はそこで一度言葉を切って、それからやれやれと続けた。 「まさか後輩に先に気づかれるとはな」 その声音が少し不満そうで、食満がなにを言いたいのかよく分からず、私はちょっと戸惑った。 「あの……食満?」 「ん……ああ、悪い。なんでもない。……それでお前、本当に体調が悪いわけじゃないんだな」 「うん、大丈夫だから」 食満の言葉に頷くと、そうか、と食満は少し安堵した様子になった。それからどうしてかまた、私に探るような視線を向ける。 「じゃあお前、なにか気になることがあるんだろう」 「……え? なんでそれ」 思わず声を上げてから、後悔した。さっきみたいにそんなことないと、どうして即座に否定出来なかったのか。食満の目が細められるのと同時に、私は実習試験のことを思い出してちょっと焦る。食満本人にそんなことを言われたら、意識せざるを得ないから。 確かに、ぼーっとしている女がいたら、体調が悪いか気にかかることがあるかのどちらかだと疑うのが普通だろう。だから食満の言葉に深い意味がないことくらい分かってるのに。 「なんだ、なにがあった?」 「あ、……あの……」 しどろもどろと言葉になっていないただの音を漏らしながら、私は俯く。食満はその私をじっと見てから、嘆息混じりに口を開いた。 「……まあ、俺に言いたくないならいいけどな」 「………………」 食満の言葉に違うと言いそうになって、けれど間違っていないことに気づいて口を閉じた。言いたくないとか言いたいとかそういう次元の話じゃないんだけど、食満には言えないというのは確かだから。 どう説明すればいいのかと悩んでいると、食満は自分の言葉を思い出したのか、少し悔やむように目を伏せる。 「悪い。嫌な言い方したな」 「ち、違うの、ごめんなさい」 「お前が謝ることじゃないだろう。……別にいいんだ、お前が無理してないなら」 食満の声が優しいものに変わる。顔を上げると、食満は笑ってくれた。……きっと私が気にしないようにだ。そのことに気づいて、罪悪感が浮かんだ。 食満に拒絶されたくないから言いたくなくて、でも言わないことでも食満に気を使わせている。迷惑なんてかけたくないと思っているのに、私はどうしてもっと上手に言葉を紡げないんだろう。 「しつこく聞いて悪かった。……まあ、お前との付き合いも長いからな。もしなにか俺で手伝えることがあったら言ってくれ」 どうしてそんな風に言うの。 食満の言葉に、揺れてしまう。私は食満のことが好きだ。後輩の面倒見が良くて、いつだって自分が一番辛い仕事をして、よく周りを見ていて、すごく優しくて。 でも、それと私の実習を手伝ってくれるかどうかは全然別なのだと分かっているのに。 「食満」 思わず名前を呼んでいた。在庫確認に戻ろうとしていた食満は、改めて私に顔を向ける。 「……ん、なんだ?」 「聞くだけ、聞いてくれる?」 「なにを」 「私ね、今実習中なの」 告げた途端に、食満がああ、と納得したような顔になった。 「……そうか、期末試験か」 「うん。期末の実習試験で……今日中にやらなくちゃいけないことがあって」 「あー、悪い。なら言えることと言えないことがあるよな」 「違うの。言ってもいいの。でも」 そこまで言って少し躊躇って、それから、食満の顔を見上げた。食満の視線とぶつかって、それだけのことに少しだけ動揺する。私は食満に拒絶されたくないけど、食満に嘘を吐くのも嫌だ。我侭ばかりの自分に苛立ちを覚えながら、ゆっくりと口を開く。 「……さっき食満が言ったこと、気にしなくていいから。だから聞いてくれる?」 「俺の言ったこと?」 手伝えることがあればと言ってくれたことだけど、それを口にする余裕はなかった。私はそのまま、今日一番言いたかった、でも一番言いたくなかったことを告げた。 「期末試験の実習内容ね、四年生以上の男子生徒に、口付けしてくることなの」 「…………」 少し訝しげな顔をする食満に向かって、私は最後まで言った。 「あのね、食満」 一拍置いて、ようやくに。 「食満にお願いしたら……迷惑かな」 ──なんて答えようかと迷ったわけじゃない。 ただ即答したら逆に引かれるんじゃないかと思って、数瞬だけ間を持った。 また厄介な実習だなと少し呆れつつも、いつもなら多少のことでは動じないが気にかけていた意味がようやく分かる。さすがにそれは、口にするのも躊躇って当然だ。 口付け、な。 客観的な目で見ても、学園でに一番近い男子生徒はたぶん俺だろう。もちろん好いた惚れたという種類のものではなく、純粋によく共にいるという意味合いでだ。だからが俺に頼むのは理解出来る。……そして、それ以上の意味などないだろうということも。 が少し不安そうに見上げてくるのに気づいて、反射的に手を伸ばそうとして寸前で堪えた。出来る限り何気ない風を装って、その瞳を見下ろす。 ……本当は。それがもし試験でないのなら、純粋に喜べたのだろうが。 「実習なんだろう? 俺は別に構わないぞ」 言った瞬間に、の目が僅かに見開かれた。 「……いいの」 すごく簡単な返事に、喜ぶとか驚く前にむしろ呆気に取られてしまった。食満は僅かに眉を寄せて、少し困ったような顔をする。 「いや……お前もさっさと済ませたほうが楽なんだろう」 「うん、それはそうなんだけど……」 なんだかすごく拍子抜けしてしまった。断られるのも凄く嫌だったけど、こんな風に当たり前みたいに切り返されるとも思わなかった。……そっか。きっと食満はもうたくさん経験してるんだ。だからこんなに軽いんだ。 「その実習内容、さっき言ったので全部か」 「……そう。私からするだけ」 でも本当にいいのかと問おうとすると、食満はちらりと格子窓を見上げて、それからやっぱりいつもと変わらない様子で私に言った。 「あいつらは他の倉庫の整理を任せてるからな。お前がいいなら今でもいいぞ」 なんだろう。私の望んでいたことなのに、少しだけ寂しいような気がする。……でも絶対に嫌だと拒絶されるよりは、まだ嬉しい。食満が私をなんとも思っていなくても、私は食満に触れたい。それが恋仲としてじゃなくても。 「……うん。ありがとう」 腰を下ろしたまま、食満のすぐ前まで近づく。食満が私の肩に軽く手を回して引き寄せてくれる間に、私は頭の中から躊躇と羞恥を叩きだした。食満がこんなに冷静なんだから、私だけが恥じるのはおかしい。そんな風に見せたら、食満だってきっとやりづらくなる。 「目、閉じたほうがいいか」 「ううん……すぐ終わるから」 すごく近いところに、食満の気配がする。身体に触れてくれている食満の腕を意識しないようにと努めて、私は食満の頬に手を伸ばした。さっき私の額に触れてくれたときに思ったのと同じ、私よりも少しだけ温かい肌。ゆっくり膝を伸ばして、鼻梁の整った食満の顔をすぐ傍に感じながら、その唇に自分のそれを軽く押しつけた。 食満の瞳がすごく近い。黒いそれに呑み込まれたとき、食満の腕が私の肩から背に下りて、ぐっと引き寄せられた。まるで恋仲、想い合ってるみたいに、少し強い力で抱き締められる。身体全部が食満に包み込まれる感覚に、一瞬酔いそうになる。……食満は、優しいね。きっと誰にでもそうなんだろうけど。 色の授業は、座学でなら受けていた。接吻の仕方も。 私の唇に触れている、私のものではない男の人の唇。自分からも身を寄せて、角度を変えて啄むように唇に触れる。ゆっくりと、激しくない動きで、でも積極的に。拒絶されるかなと思いながら食満の唇の表面に軽く舌で触れると、食満はすぐに口を開いて私の舌に自分のそれを絡めてくれた。深い口付けでなければ駄目だなんて先生は言わなかったけど、……たぶん機会は今だけだから。 最初は舌先から、それから少しずつ深く。相手の歯列をゆっくりなぞり天井に触れて、自分の舌で撫でるように相手のそれを舐めて、舌を絡められたら自分からも小さく吸う。嗜虐心を感じられるよう、ほんの少し躊躇った動きで。……座学で教えられた口付けの作法。 それを考えていないと、頭が真っ白になりそうだった。 食満の体温も、匂いも、口付けの合間に漏れる呼吸も、身体を抱き締めてくれるその腕も、舌の味も、時折掠める鼻先の感触も、……どれか一つでもこれが現実だと意識してしまったら、私はきっともう戻れない。 戻れない? 今更だ。本当は分かってるくせに。 ──私はとっくに、食満のぜんぶに酔ってるのに。 すごく近い食満の気配に、ずっと包まれていたいと思う。あまり慣れぬ行為でも、食満とだと思えば満ち足りる。一度限りだと分かっているのに、焦がれて仕方ない。食満が好き。すごく。 私を抱き締めてくれている食満の腕が、ゆっくりと解かれて私の頭に触れた。頭巾をかぶっていないせいで食満の指がはっきり分かる。離されるのかと思って、私は反射的に食満の身体に縋り付いた。いやだ、やめないで、と懇願しそうになって、 気づけば、その場に押し倒されていた。 打ったはずの背と頭は、食満が支えてくれたのか痛みを感じなかった。 身体に食満の重みがかかる。密着しているけど、苦しいほどじゃない。きっと私に全部の体重がかからないようにしてくれてる。体勢が違うせいか、口の奥まで食満の舌が入り込んで、さっきより深く絡み合う。食満の黒くて綺麗な目が、私を射すくめてる。その中にある揺らぎの熱を知って、ああ食満は反応してくれたのかとぼんやりと思う。もう私は頭がぼうっとしていて、さっきみたいにまともに考えることが出来ない。 全身に感じる食満の体温も、奪われるみたいな強い勢いの口付けも、いつの間にかその大きな手で握り込まれて繋がれた手も、今は私に向けられている。それが信じられないくらい幸せで、呼吸の苦しさも慣れぬ行為の戸惑いも全部がどこかに消えてしまう。 食満の瞳は欲に濡れているのに、ちゃんと私の反応を見てくれている。私はきっと、食満の望むものを差し出せていない。だからその分、出来る限り食満の動きに答えようとした。たとえ今だけだったとしても、私を求めてくれるなら嬉しいから。 だからあと少しでいい。……私だけを見ていて欲しかった。 先に解かれたのは舌。互いにまだ唇を重ねたまま口の中に残ったものを飲み込んで、最後に柔く吸い合って、それからゆっくり離れた。それが惜しいと思うのは、私が食満を好きだからか、それとも欲に浮かされたせいなのか。 食満が身を起こして、私も食満に腕を引かれて起き上がる。 「悪い」 そのとき耳元で微かに囁かれた食満の声は、まださっきの余韻を残しているように艶色だった。口付けのせいか少し涙の滲んだ目を拭ってから、私は食満を見た。 食満は私から視線を逸らしていて、困ったような、今までに見たことのない顔をしていた。少しだけ意外に思う。食満は頼んだときにすごく淡々としていたから、動揺なんかしないと思っていたのに。 「……ううん、ありがとう」 望んだものを与えられた幸せと、もう与えられない寂しさとを感じながら、私は熱を持った頬に軽く触れる。自分の身体が自分のじゃないみたいな感覚で、すごく敏感になっていた。 食満に迷惑をかけたくない。余計な気を遣わせたくない。 出来るかぎり冷静にと努めながら、私はゆっくりとその場から立ち上がった。 「ごめんね、ちょっと顔洗ってくる」 「……ああ」 立ち上がったは、いつもとあまり変わらない様子に見えた。その顔をまともに見てしまうと、今なんとか鎮めようとしている昂ぶりがまた増す気がして、ただ生返事のようなものしか返せない。 「あの……後日先生から確認があると思うから、それだけお願いしてもいい?」 「分かった」 「うん、ありがとう」 は軽く微笑むと、そのまま落ち着いた様子で用具倉庫を出て行った。それを確認した瞬間、どっと身体から力が抜ける。唇を手の甲で拭うと、自分の腕が微かに震えているのを知る。 「くそ、盛った」 これが実習だと十分理解していたから、それ以上を押し付けるのは負担になるだろうと抑えようとした。平静であるようにと努めようともした。けれど口付けの最中、色術の一つなのか縋るような仕草に煽られた。想いを寄せられていると、求められていると錯覚させるような所作。……に触れられるのは今だけかもしれないと思った瞬間に、他の全てのことが頭から消えた。 他の女ならば、なんとも思わなかったのかもしれない。そう思い込むことが出来たなら、あれほど我を失うこともなかったはずだ。けれど委員会活動やその他のときにふと偶然に触れた手や肩の温もりと匂いの記憶が、そのすり替えを拒絶した。今一番近くにいるのは間違いなくで、きっと奪えるのは今だけなのだと。 くそ、ともう一度吐き捨てる。身体から熱が引かないことと合わせて、が行為の後いつもとあまり変わらない様子だったことに、焦りを覚える。仕草だけではそう思わなかったのに、本当はよほど慣れているのか。それとも俺など本当に実習相手というだけの存在でしかないのかと。 想いを伝えてもいないくせに、嫉妬心が浮かんでくる。さっきの行為をいっそ忘れろと頭から叩き出そうとしても、上手く行かない。 せめてが戻る前にはこの熱を消さなければとため息を吐いたとき、用具倉庫に近づいてくる気配と足音に気づいて、慌てて立ち上がった。 「たっだいまーでーす!」 「衣料品倉庫、ふかふかで楽しかったですーー!」 「……遊んでたわけじゃないですー……ちゃんとお仕事しましたー……」 戻ってきた一年生達に、落ち着けと自身に言い聞かせて向き直る。 「ご苦労だったな。終わったか?」 「はいっ。ちゃんと枚数数えて、二年生の先生にお渡ししてきましたー!」 「ああ、ありがとな」 一年生達の幼い笑顔と声に、さきほどまでの昂ぶりが落ち着いてきた。少しほっとして差し出された衣料品倉庫の在庫表を確認していると、「けーませんぱーい」と喜三太がぎゅっと片足にしがみついてきた。 「なんだ、喜三太?」 「あのですねー、さっき先輩がまっかっかーの顔で走って行きましたけど、知ってますかー?」 「……は?」 思わず声を上げると、喜三太は隣のしんべヱと顔を見合わせながら、言葉を続けた。 「どうしたんですかーって声かけたんですけど、『ごめんすぐ戻るから!』ってどっか走って行っちゃってー」 「まっかっかだったね」 「……ねー。暑かったのかなぁー……?」 いつのまにかもう一本の足にしがみついていた平太が、小首を傾げて同意する。ぼくもー、としんべヱが手にすがり付いてくるのを好きにさせながら、怪訝に思う。 ……真っ赤? まさかと思ったそのとき、道具箱を抱えた作兵衛が、どこか複雑そうな顔で戻ってきた。 「あ、富松せんぱーい」 「……おかえりなさーい」 「こーら、なにやってんだお前ら」 作兵衛は道具箱を棚に戻すと、散れ散れ、と俺にしがみついていた一年生達を引き剥がす。それすら楽しいのか、一年生達はわぁーと騒ぎながら倉庫から走り出て行く。 「悪いな作兵衛、一人で修理を押し付けて。……上手く行かなかったか」 さっきの複雑そうな顔を指してそう言うと、作兵衛は「いえ」と否定する。 「修理は問題なく出来たんですけど……あのですね委員長」 作兵衛はどこかこちらを責めるような、じとーとした瞳で俺を見上げる。その視線に嫌な予感がした途端、作兵衛がやれやれと言った。 「先輩がなんか真っ赤な顔して走って行きましたけど……なにしたんですか」 「なにもしてねぇよ!」 「……ナニですか」 「してねぇっ!」 いや、ほんとはしたんだが。下級生達からが真っ赤だった真っ赤だったと繰り返されて、もう一度まさかと思う。はあのとき、本当にいつも通りにしか見えなかったのだが。俺なんかよりよほど落ち着いて見えて── 「……悪いと思ってるなら早く謝ったほうがいいですよ、委員長」 呆れたように言って去って行く作兵衛の言葉に、もしかしたら作兵衛が言う通りかもしれないなと思いつつ、一つため息を吐く。 はあまり感情を表に出さない。だから昔から心の機微が分かりにくい。その分俺はあいつが今どう感じているのかと、気にかけていたつもりなのだが。……実習とはいえ、やはりやりすぎたのかもしれない。 今は、駄目だ。だから委員会が終わったあとにでも、謝罪なりなんなりしようかと悩みながら、さっきの仕事に戻ろうとして。 「え? 食満先輩が先輩になにかしたんですかー?」 外から聞こえてきた下級生達の声に、足早に用具倉庫を出た。 「先輩が変だったのって、食満先輩のせいなんだ……」 「……委員長ひどいー、先輩が可哀想……」 「な? だからお前らも、先輩に謝るように食満先輩に言ってやるんだぞ」 『はーい!』 「それから、先輩が戻ってきたら食満先輩がなにをしたのか詳しく聞いて……」 とりあえず、これ以上騒ぎを大きくされてはたまらない。 わくわくした声音で一年生達に語っている作兵衛を、後ろから無言で張り倒した。 終 |