| 『中在家長次』 | |
実習内容を聞いたとき、私の頭に一番に浮かんだのは、やっぱり長次の顔だった。 これがたとえば抱きつくとか額に口付けるとかならまだ他の相手も考えるんだけど、さすがに唇にしてこいというのは少し抵抗がある。 そこへ行くと、長次は私の幼なじみだ。家がすぐ近くで生まれたときから知っているし、今まで本当にずっと一緒に生きてきた。今はさすがにやらなくなったけど、二人でお風呂に入ったり一緒の布団で寝たりもしょっちゅうだったから、そういう意味で、長次は私にとって一番身近にいる異性なのだ。だから他の男子よりも抵抗がないし、頼みやすい。 長次は今日、委員会の担当の日じゃないはずだ。だから図書室じゃなくて自室にいるかなと思って、忍たま長屋に忍び込む。途中、同じ考えなのか天井裏できょろきょろしている後輩のくのたまに会って、目で挨拶する。お互いがんばろー。矢羽根を飛ばすと、はい、と軽い頷きと共に笑顔が返って来た。 長次の部屋にたどり着いて、そっと天板を外す。こっそりと覗き込んだら、好都合なことに部屋の中には長次一人しかいなかった。 「……か」 さすがと言うべきか、長次は即座に私の気配に気づいて、読んでいたらしい本から顔を上げた。私は、すとん、と下に降りる。足裏に、畳の柔い感触。 「ごめん長次、今暇かな?」 「…………」 長次は、無言で私に向き直る。肯定の意だと受け取って、私は長次の元に向かう。 「どうした」 栞を挟んで、長次が開いていた本を閉じる。「うん」と私は長次の前に正座する。いつも通り静かな気配の幼なじみを見上げて、口を開いた。 「あのね、口付けしてもいい?」 ばさ、と音がして、長次の手から本が滑り落ちる。長次は落ちたその本を無表情で拾い上げて、文机の上に置いた。 「……今、なんて言った」 「あ、ごめん。驚いたよね。ちゃんと説明するから」 じっと促すように私を見る長次に、「えっとね」と私は配られた実習概要の用紙を思い出す。 「期末試験の実習が、色の試験でね。誰でもいいから男子生徒に口付けしてこいって言われて」 「…………」 「それで、騙しても脅しても無理矢理でもいいってことなんだけど。……あのね」 「…………そうか」 長次はどこか呆れたようにため息を吐く。その仕草に、ちょっと不安になった。 「えっと、駄目かな。一度だけでいいから。一瞬で終わるし」 私の言いたいことは分かってるはずだ。長次はちらりと私に目をやってから、小さく呟く。 「……好きにしろ」 「ほんと? よかった!」 ほっとして、私は微笑む。これでもう、実習は終わったも同然だ。 「ありがとう。長次に断られたら、次は誰に頼んでいいか分からなかったの」 まあ、その時はたぶん頼むというより、不意をついて無理矢理実行するだろうけど。 では早速、と長次に近づく。足同士が触れそうな近くまで。 「」 「あ、大丈夫。私からしなきゃ駄目だから」 私を引き寄せようとする長次に慌てて首を横に振ると、長次はすぐに手を戻した。 目の前に改めて正座して、私よりも大分大きい幼なじみを見上げる。うーん、口付けするためには今のままじゃ無理だ。もっと寄らないと。 「……いい?」 「ああ」 膝を伸ばして、長次と視線を合わせる。うん、このくらいで大丈夫なはず。 片手を長次の肩に、もう片方の手を胡座を組んでいる長次の足に添える。このまま唇を重ねたら、それで終わりだ。 よし、と気合いを入れて、長次に顔を寄せようとした。 ────う。 近い長次の視線に、突然に緊張が走る。長次は私になにもしていないのに、触れているのは私なのに、こんな至近距離で覗き込まれるのだって全然珍しいことじゃないのに、……それでもどうしてか、身体が強張る。 固まった私を、長次はただ静かに見つめてる。その黒くて感情の読み取りにくい瞳が、ほんの一瞬ゆらりと揺らめいた気がして、私はぴくりと小さく震えた。 「ごめん長次、目閉じてくれる?」 「……ああ」 長次はあっさり私の言うことを聞いて、瞼を下ろしてくれる。それでちょっとだけほっとして、改めて長次の顔に視線を向けた。 傷だらけの長次の頬。首、鎖骨、耳元、鼻筋、下ろされた瞼。すごく知ってるはずなのに、こうして見ているとまるで他人みたいに思えてくる。長次の視線がなくなったのに、私の身体はまだ上手く動いてくれない。緊張に鼓動が走り始める。おかしい。なんで、長次に対して恥ずかしいなんて思うんだろう。 こんなに好条件で成せないなんて、ありえない。長次は好きにしろと許してくれたし、こうしてなにも言わずに私がするのを待ってくれているのに。 長次の肩に置いていた手を、そのまま長次の頬へと伸ばす。かさついた男の肌。幾重にも重なった傷跡の感触が、指先に伝わってくる。ゆっくり、顔を近づける。人がすぐ傍にいるときに感じる特有の、温かな空気が鼻先を掠めた。 唇と、唇。指の先ほどの距離だけを残して、私は目を閉じる。このまま顔を押し出せば、それで終わるはずだった。 昔から慣れていた長次の気配と匂いと体温が、私のすごく近いところにある。それはいつもならすごく安心するはずなのに、私はどうして、こんなに緊張してるんだろう。 長次。 意を決して、すぐ傍の温もりに強く唇を押しつけた。 「痛っ!」 途端に響いた小さな痛みに驚いて、私は咄嗟に身を引いた。勢いをつけすぎたせいか、それとも見ないで行動したせいか、口付けは出来たものの歯同士がぶつかってしまったらしい。慣れぬ鈍い痛みに、慌てて長次を見上げる。 「ご、ごめん長次、痛かった?」 「……いや」 長次は小さく否定すると、「」と私の腕を引く。 「な、なに」 まだ緊張にどくどくしてる鼓動を感じながら、私はまた近くなった長次の気配に顔を赤くする。長次は私がしたみたいに私の頬を掴んで、顔を寄せる。 「口付けは、こうするんだ」 言葉と共に、優しく唇を塞がれた。 目を見開く。痛くない、すごく柔らかくて温かい感触。 重なったままの唇から、頬に当てられた手から、長次の熱が伝わってくる。知らない感覚に、身体に柔く痺れが走った。 その触れ合いは、たぶん一瞬だったと思う。長次はすぐに腕を離して、私から身を引く。 途端に身体から力が抜けて、その場にへたりこんだ。かあっと顔に血が集まっていく。 「……ちょ、長次……?」 「………………」 唖然と見上げると、長次は私と違って、何事もなかったかのような顔をしてる。すごく落ち着いた様子。 ずるい。 それが悔しくて、思わず口走っていた。 「長次の助平」 口にしてから、さすがにこれはまずいと思った。だって自分から頼んだくせに。 でも、今心臓がどくどくしてるのも、顔が赤いのも、全部長次のせいなのだ。そう思うと、即座にごめんなさいと言えなくなる。 長次は私の言葉にほんの僅かに目を見開いて、それからすぐにいつもの顔に戻った。そして、ぽつりと。 「……ああ、そうだな」 それだけ言って、私から軽く視線を逸らす。 否定、しないんだ。そのことに少し驚いて、さっきの口付けで混乱してた頭がちょっと落ち着いた。長次はそういうことにすごく淡白そうというか、興味がないみたいに見えるのに。 それが意外で長次を見つめていたら、長次は眉をひそめて私に視線を戻した。見られているのが嫌だったのかもしれない。 「なんだ、」 「ううん……。ごめんね長次、怒った?」 酷いことを言ってしまったと、今更ながらに思った。長次は私の実習を手伝ってくれただけなのに。 「……いや」 「怒ってない?」 「ああ」 その顔を見て、本当に怒った様子がないことを察してほっとした。安堵した勢いで、そのまま長次の腕にしがみついた。 「ありがと、長次!」 「…………おい、離れろ」 「やだ」 「…………あのな」 長次はしばらく私を引き剥がそうとしていたけど、やがて諦めて好きにさせてくれた。うん、もうさっきみたいに緊張しない。恥ずかしくもない。たぶん、口付けだってことで意識しすぎていたんだと思う。それが嬉しくて少しの間長次を堪能してから、私は満足して立ち上がる。 「じゃあ、私帰るね、長次!」 「……ああ」 「またね! 手伝ってくれてほんとにありがと!」 長次に微笑んで礼を言ってから、私は素早く天井裏に戻った。天板を戻すときに小さな舌打ちが聞こえた気がしたけど、まさか長次のはずがないし、空耳かと思って気にしなかった。 ……毎度毎度、人騒がせな実習を。 の姿が消えてから、小さく舌打ちを漏らす。 手軽なのだろうが、男子生徒を標的にするところがくの一教室の悪辣なところだ。自分のところに来るうちはまだいいが、そうでなくなったら気が気ではない。 ……それでも役得は役得だろうから、今回に関してはまあいいかと思う気持ちもないでもないが。 ──助平、な。 が真っ赤な顔で言っていたのを思い出して、内心だけで少し笑う。 あいつにそんなことを言われたのは、初めてだった。 ※※※ それにしても、なんであんなに緊張したのかな。 天井裏を移動しているときに、私は今一度それを不思議に思う。だって長次なのに。確かに今はそうでもないけど、昔はもっとべたべたしてたのに。 ううんと悩んでいるとき、すごく嫌な考えが頭に浮かんだ。もしかして私は、自分で気づいてないだけで、すごく男が苦手なんだろうか。長次であれだ、もし他の男だったら拒絶のあまり反射的に張り倒すくらいのことはしてるのかもしれない。 それは、ちょっと困る。 私は色の実技講習は受けてないけど、忍務には身体を重ねることや、そこまでは行かなくても仕事仲間と夫婦のフリをするくらいのことはあるだろう。いや、今この学園にいる間だって、そんな実習があったとしても全然おかしくない。 どーしよ。今まで全然気づかなかったせいで、かなり不安に思う。可愛い下級生ならともかく、もういい年なのに男が駄目なんて、情けない。その悩みに気を取られていたせいで、天井裏から長屋の廊下に降りるときに、気配の確認をしていなかった。 飛び降りた瞬間に、後ろから「……か」と声をかけられて、目を向ける。 「あ、仙蔵」 「なにをしてるんだ、男子寮で」 「ん」 基本的には忍び込んでいるのを見つかったらまずいんだけど、仙蔵はそうでもない。もともと六年にもなるとお互いの長屋を行き来するのが普通だし、特に仙蔵なんか、私よりも女子寮の見取りを知ってるんじゃないかと思うくらいだし。 「長次のとこに行ってた」 「ああ、お前達仲が良いからな」 素直に答えると、案の定仙蔵はこちらを責めようともしなかった。じゃあなと自分の部屋に帰っていくのだろう仙蔵に、ふと気づいて私は声をかける。 「ねえ、仙蔵」 「なんだ?」 振り向く仙蔵に、足を進める。そのまま仙蔵の顎を掴んで引き寄せ、その唇に自分のそれを押し付けた。 三秒数えて、身を離す。 「……なんだ、一体」 さすがというかなんというか、仙蔵は全く意に介していないように、ただきょとんとする。私も、今の口付けになんにも感覚がなかったことにきょとんとする。 「……なんでだろ」 「なにがだ」 「いや。ちょっといろいろ気になって」 「……なんでもいいが、私はもう行くぞ」 「うん、ごめん仙蔵」 今度こそ踵を返して去っていく仙蔵に謝ってから、私は軽く首を傾げる。 長次との口付けはやけに緊張したのに、仙蔵とは驚くくらい普通で、なんとも思わなかった。 おかしいな。長次は私の幼なじみで、一番そういうことに抵抗がないと思っていたからこそ、長次に頼みに行ったのに。これだと、仙蔵のほうがずっと簡単だったということになってしまう。 でもこれで、私は男が苦手じゃないということが分かった。というかよくよく考えれば、やっぱり別に苦手じゃない。昔も今も、私はどちらかというと男子達と交流があるほうだし。 ……じゃあ、なんでだろ? 「長次、入るぞ」 その言葉と共に、仙蔵は住人の返事も待たずに戸を開ける。 長次は読んでいる本から視線すら上げずに、ただぽつりと呟く。 「……なんだ」 「先日借りた資料本を返しに来た。遅くなってすまなかった」 「……ああ」 長次は相変わらず本に視線を落としたまま、差し出された資料を受け取り、隣に置く。その様子をじっと見てから、仙蔵は長次の前に座り込む。 「……なにか用か」 ようやく顔を上げて視線を合わせる長次に、仙蔵はちらりと部屋の中を見回す。 「が来ていただろう?」 「……ああ。会ったのか」 「長屋の廊下でな。……お前たち、なにかあったのか」 ぱたん、と長次が本が閉じる。人の話を聞く気になったらしい。 「…………どういう意味だ」 「いや、大したことではないが。……通りすがりに、に不意打ちに口付けされた」 そう口にした瞬間、長次の気配が明らかに冷たくなった。お、と仙蔵は少し楽しそうな顔になる。 「……どういう意味だ」 同じ問いを繰り返し、長次は仙蔵に向ける目をゆっくりと細める。 「そのままの意味だ。理由は私も知らんが、『なんでだろう』とか『ちょっといろいろ気になって』とかぶつぶつ言ってたが」 「…………」 はあ、と長次は酷く面倒くさそうにため息を吐く。 「仙蔵」 「なんだ」 「今度迫られるか、他の男に迫っているのを見たら、殴っていいから止めてくれ」 ほう、と仙蔵は長次の顔を愉しげに見やる。 「幼なじみの貞操を気にするとは、過保護な男だな」 「違う。俺が気に入らんだけだ」 「で、私のことは許すのか」 「……正直言うと殴りたいが、別にお前のせいではないからな」 「立派な自制心だ」 からかう色で笑いながら、仙蔵は腰を上げる。部屋を出ようと戸を開けたところで、振り返る。 「そんなに大切ならば、さっさと告白でも求婚でもして閉じ込めておけばいいだろう、過保護な幼なじみ殿」 その言葉を最後に、ぱたん、と戸が閉められる。 再び一人になった部屋の中。 長次は仙蔵の去った戸を忌々しげに睨んで、吐き捨てた。 「……それが出来れば苦労していない」 終 |