田村三木ヱ門夢
三話『体調不良』





「失礼します」
「帰っていいぞ」

 会計委員室の戸を開けた途端、そんなことを言われた。は戸に手をかけたまま、中にいる会計委員長にどんよりとした視線を向ける。委員室にはすでに下級生達が揃っていて、の姿を見て絶句してお互いの顔を見合わせている。
「……なんですか、仕事に来た委員に対して帰れとか」
「自分の顔色見てみろ、バカタレ」
 吐き捨てる委員長に、は小さく首を傾げる。
「悪いですか」
「それで自覚がないなら本気でただのアホだ」
 はしばし沈黙してから、軽くため息を吐いた。正直に言うと……恐ろしく体調が悪いのは確かだった。
「ど、どうしたんですか先輩、顔真っ白ですよ」
「体調崩してるんですか……?」
 恐る恐ると聞いてくる下級生達に、はどう返事をしたものかと考えて、結局無言で通した。会計委員長、文次郎は左門に向けてを顎で指す。
「おい左門、こいつを医務室に押し込んでこい。体調管理も出来ん委員など置いていても意味がない」
「ただ単に血が足りないだけです……が、確かに今は雄という雄を見たくない気分なので帰らせて頂きます」
「お、おす……」
 へと駆け寄ってきた左門が、その言葉に顔をひきつらせて動きを止める。はなんとか微笑みのようなものを作って、いいから、と左門に戻るように促す。
「大丈夫、大したことないから。……じゃあ委員長、申し訳ないですけど早退します」
「そーしろ。無理そうなら明日も来なくていいぞ。二日続けてお前の顔を見なくて済むなら僥倖だ」
「元気になったら覚えててください……では」
先輩、お一人で大丈夫ですか?」
「お大事にしてくださいね」
 慌てて声をかけてくれる委員達に手を振って、は開けたばかりの戸を閉めた。踵を返して歩き出した途端にくらりと目眩がして、慌ててそこらの柱に手をつく。
「……あー……」
 血が足りない、つまりただの月のものだが、今回はなぜかむちゃくちゃに重かった。いつもだって軽いわけではないのだが、ここまで酷いのは初めてだ。痛みは激しいわ出血は多いわ、ついでに顔色が激悪らしく、朝から何度医務室に連れ込まれそうになったか分からない。
「……行ってもしょうがないしね」
 痛め止めの薬湯なら飲んでいる。あと出来ることと言えば安静にすることくらいだが、今委員会は忙しい時期だし上級生の立場として顔を出してみたら……帰れと言われた。
 口は悪くとも、委員長の配慮が有り難いことは確かだった。早く部屋に戻って横になろう。それだけを目標に、足を進める。
 ずるずると壁を伝うように歩いていたが、とうとう歩くどころか立っているのすら辛くて、その場に崩れるように座り込んだ。
 ──まずい。
 委員会を休んでいいと言われて気が抜けたせいか、先程よりもどっと痛みが増した気がする。視界がとても暗い。墨のような靄がかかった視界を見ていると、さらに目眩が酷くなりそうだった。
 少し休めば回復するだろう。壁に背を預けて、はゆっくり目を閉じる。もともと暗かった視界が闇に閉ざされて、ほんの少し楽になる。貧血のせいで寒さを感じる腕を、手のひらで軽く撫でさする。少し経てばマシになる。少し経てば。そう己に繰り返して、深呼吸を繰り返す。
「てか……ずるい」
 胸の中に、ふつふつと怒りが湧いてくる。女だからどうの男だからどうのとあまり言いたくないが、それでも男はこの痛みが無いのだと思うと、なんて不公平なんだと腹が立ってくる。普段『お前のどこが女だ』とか委員長に言われている身としては、『なら代われ!』と毒を吐きたくもなる。
「…………」
 怒ったら、少し回復した。怒りは生きる力になるというのは本当なんだなと実感しつつ、は目を開けて立ち上がろうとして、呆気なくその場にまた崩れ落ちる。駄目だ。気力があっても身体がついていかない。
 視界はまだ薄暗い。慌てて目を閉じたが、喉元に軽い嘔吐感が競り上がり、げんなりと堪えた。いっそ吐いてしまったらすっきりするだろうか。しかし、それでは血が増えるのが遅くなる。これ以上酷い状態にならないためにも、無理に詰め込んだ食事を吐いてしまうのは避けたかった。堪えるしかない。
 目眩さえマシになれば、また歩ける。けれどそうしている間にも、身体からゆっくりと血の気が引いて行くのが分かる。長期戦になりそうだなと、は回復を待つための覚悟を決めた。片膝を立てて、そこに額を押しつける。冷や汗に身震いしながら、時が流れるのを待ち続けた。

先輩……!?」

 突然にかけられた声に、はゆるゆると顔を上げる。焦点が合ったとき、一番始めに視界に入ったのは、見知った後輩の顔だった。三木ヱ門。三木ヱ門はおそらく、文次郎に頼まれて帳簿を取りに行っていたのだろう。何冊もそれを抱えて、慌てた様子での元に駆け寄ってくる。
「……ああ、三木」
 反射的に名を呼ぶと、三木ヱ門はの前に膝をついて帳簿を下ろすと、焦りを帯びた表情での顔を覗き込む。
「か、顔色すごく悪いですよ。待ってください、今医務室に──」
 言いながらの腕を取って抱えようとする三木ヱ門に、は「いいの」と遮る。
「……いいって、でも」
 驚く三木ヱ門に、は首を横に振る。
「いいの。……原因は分かってるし、対処もしたの。だから……おとなしくしてれば、マシになるの」
「でも……先輩、すごく辛そうです。……どうなさったんですか?」
 掴んだままのの手を、三木ヱ門がぎゅっと握る。血が足りていないせいか、その腕の温かさが気持ちいい。はすぐ傍にいる三木ヱ門に向けて微笑もうとして、出来ずに仕方なしに諦めた。
 言えば、三木は納得するだろうか。は自分の手を掴んでいる三木ヱ門の腕を、落ち着かせるようにもう片方の手でやんわりと撫でた。
「……三木、ほんとに大丈夫なの。あのね」
 単に月のものなのだと口にしようとして、なぜか軽い抵抗があった。けれど頭がぼんやりしていて理由が分からなかったので、抵抗を無視して続ける。
「ただね……血が足りないだけなの。月のもの」
 告げると、三木ヱ門は一度反応に迷うように固まった。それを見て、ああだから言うのが嫌だったんだとようやく抵抗の意味が分かる。男の子に言ったところで、困ることは予想出来たことなのに。
「……ごめんね、三木」
 謝ると、三木ヱ門はハッと顔を上げて、慌てた様子でに身を乗り出す。先程と同じように、の手を少し強く握りながら。
「す、すみません。私こそ……その、配慮が足りなくて」
 そこまで言って、三木ヱ門は恥じるように俯いてしまう。はすぐ傍にある三木ヱ門の顔をじっと眺めてから、ゆっくりと握られたままの三木ヱ門の手を離した。
先輩……」
「ね。だから放っておいたら楽になるの。……三木はもう戻って。潮江先輩からのお使いの途中でしょう? 早く戻らないと叱られるから」
 気をきかせたつもりだったのに、三木ヱ門はなぜか、傷ついたような顔をした。
「私がここにいたら、余計辛いですか」
 固い三木ヱ門の声に、は不思議に思う。そんなことはないけど。
「違うけど……でも、三木は委員会に行かなきゃ駄目だよ」
「いいです」
「……なに言ってんの?」
 思わぬ言葉に、軽く笑えた。途端ずきりと下腹に痛みが走って、顔をしかめる。「先輩」と心配そうな三木ヱ門の声。は痛みを押して、出来る限り元気そうに声を出す。
「ね、三木。大丈夫だから、戻って。私今日委員会休んじゃったから、仕事がたくさんあると思うし」
「…………」
 の言葉に、三木ヱ門は押し黙った。戸惑っている三木ヱ門に、は胸中で微笑む。
 三木ヱ門が自分のことを心配してくれているのは分かっているし、それは嬉しい。けれど、迷惑をかけたいわけじゃないのだ。
「……ね。お願い三木。私一人で戻れるから……だ、から」
 くらりと視界がぶれて、それ以上続けられなくなった。目眩が酷い。少し無理に喋っていたからだろうか。
先輩」
 の様子に気づいたのか、三木ヱ門が焦ったように名を呼ぶ。大丈夫だ。そう告げようとして、……出来なかった。
「──っ!」
 下腹から、奧へと抉るように痛みが走った。咄嗟に腹を庇うように身体を折る。脳内を揺さぶられたかのように一度ぐわんと頭痛が響く。まずい。全身から冷や汗が滲み、ぞくりと震える。
先輩!」
 身体を引かれて、温かいものに触れる。血の気が引き鳥肌が立つ身体には、その温かさが心地良かった。二度三度と響く痛みに、温もりに縋るようにして耐えた。
「…………」
 ようやくに痛みの波が引いて、はきつく閉じていた瞼を開いた。まだ靄のかかった視界で、自分が三木ヱ門にしがみついていることに気づく。肩に三木ヱ門の腕が回されていて、縋った温もりは三木のものだったんだと今更ながらに理解した。
「……ご、ごめん、三木」
 大丈夫だと言ったくせに、情けない。三木も呆れてるかもしれない。が三木ヱ門から離れようとすると、逆に強く抱き寄せられた。頭を三木ヱ門の肩口に押しつけられたと思うと、そのまま有無を言わさぬ勢いで膝下に腕を伸ばされて、一気に抱え上げられる。急に自分の身体が持ち上げられたことに驚いて、は一瞬痛みを忘れた。
「み、三木?」
 が声をかけても三木ヱ門は返事をせずに、を抱えやすいようにと深く肩に腕を回す。慌てて、は三木ヱ門の、どこか少し怒ったような顔を見上げる。
「あの、下ろしてくれていいよ」
「絶対嫌です」
 三木ヱ門の声があまりに鋭くて、は一瞬ぽかんとした。視界はまだ薄暗いが、近い三木ヱ門の横顔はやはりどこか怒ったみたいに強張っていて、は少し戸惑う。
「いや、あのね三木、迷惑かけて申し訳ないんだけど、でも私大丈夫だから……」
先輩の『大丈夫』は信じません」
 きっぱりと言われて、は言葉に詰まる。さっきの今だ、全然言い返せない。それに、三木ヱ門は今までほとんどの言うことを否定することはなかったから、そのことにも少し驚いた。
 どうしようかとが悩んでいると、三木ヱ門の気配が少し緩んだ。先程より柔らかい声で、三木ヱ門はを見下ろす。
先輩、医務室に行かなくていいのなら、せめて部屋まで送らせてください。……心配ですから」
 最後の言葉に、少し心が揺れかける。けれど用事がある後輩を自分の都合で振り回すことには、やはりまだ抵抗があった。
「でも三木、委員会は」
「構いません。……先輩、私は」
 の言葉を遮って、三木ヱ門は強い口調で言い切る。
「委員会よりも先輩のほうが大事です」
「…………」
 あまりの言葉に、さすがには唖然とする。三木ヱ門は照れた様子もなく、じっとを見下ろしている。なんだか少し可笑しくなって、は体の力を抜いた。……嬉しい。
「三木、ほんとにいいの?」
「はい。このまま先輩を置いて戻るほうが、よっぽど気になりますから」
「……そっか」
 はゆっくり息を吐くと、三木ヱ門の身体に自分の重みを預けた。抱えやすいように、三木ヱ門に身を寄せる。
先輩……」
「ごめん、お願い。……ほんと言うと、立つのも辛いの」
 が目を閉じると、三木ヱ門がほんの僅かに身を強ばらせた。その後、優しい手つきで身体を抱え直される。……温かい。他人の体温が、普段では考えられないほど心地良かった。
先輩、歩きますから」
 そっと言ってから、三木ヱ門が歩き出す。のことを気にしてだろう、身体を揺らさぬようにと配慮した、ゆっくりとした足取りだった。
 引いていたの血の気が、伝わる三木ヱ門の体温と共にほんの少しずつ戻ってくる。じんわりと解けるように楽になる。
 正直、先ほどのまま一人でいても、無事に長屋まで帰れたかどうか怪しい。三木ヱ門の申し出は、心配してくれたことも含めて嬉しかった。
「……三木、ありがとう」
「いえ……私が心配だっただけですから」
 目を閉じたまま礼を言うと、三木ヱ門が少し照れたように言う。身を預けているので、三木ヱ門の身体の様子が見るよりもよく伝わってくる。温かい体温、三木ヱ門の匂い、そして自分の身体に伝わる三木ヱ門の鼓動。その全部に、ほっとした。
「……私、三木が後輩で良かったよ。ごめんね、頼りない先輩で」
先輩」
 詫びると、三木ヱ門が軽く息を呑んだ。それから、を抱える腕の力がぎゅっと強くなる。どうしたのかとがゆっくりと目を開くと、すぐ傍の三木ヱ門の視線とぶつかった。
「……、先輩」
「ん……? なに、三木」
 惑うようにを見つめる三木ヱ門を、もじっと見つめる。三木ヱ門の身体が強ばる。どこか意を決したように、顔を少し赤く染めた三木ヱ門が──
「……三木? どうしたの」
 再度問いかけると、三木ヱ門は急にから視線を逸らした。
「いえ、今はいいです……すみません」
「そう……」
 三木ヱ門の様子を怪訝に思いながらも、はまた目を閉じた。さっきよりはマシになったが、それでも腹痛とそれに伴う貧血はまだ酷いものだった。息を吐いて力を抜くと、三木ヱ門の腕が身体を支えてくれる。安心する。
 人一人抱えるのは辛いだろうに、三木ヱ門の腕はしっかりしている。ああ、いつの間にかこんなに大きくなったんだなと、は少し寂しく思う。昔は自分よりも小さくて、可愛くて、頼りなくて、守ってあげなくちゃいけないと思うほどの子どもだったのに。
 男の子なんだから、当たり前なんだけど。
 ……男の子。それを今一度認識して、はしみじみと思う。
 三木が男の子でよかった。だって女だったら、こんな痛い思いをしなくちゃいけないんだから。だから……三木が男の子でよかった。
 ぼうっとする頭で、はそのことをとても嬉しく思う。三木は男で私は女で。……それが、嬉しい。
先輩、辛いですか。医務室に寄りましょうか」
「ううん……平気」
 三木ヱ門はを気遣ってくれる。支えてくれる男の腕に、はまた少し寂しさを覚える。男の子の三木は、いつかこういうことを当たり前にする相手が見つかるのだろう。きっと可愛い女の子で、華奢でか弱い女らしい子で。
 ──ちょっと寂しい。
 いくら後輩が可愛いからって、仲良くする女の子にまで嫉妬してたらかなり重症だな、とは少し冷静に思う。なんだか、年頃の娘を持つ父親みたいだ。後輩離れしないとなー、などと悶々と考えていたら、ふいに三木ヱ門がの肩を軽く叩いた。
先輩、もう着きますよ」
「ん……」
 目を開けると、すでに女子寮の長屋が目前に近づいてきていた。地面に下りるときの段差にも気づかなかったのは、それだけ三木ヱ門がを気遣ってくれていたからなのだろう。
「どうしますか、先輩。お部屋まで上が……れないですよね。誰か呼んできます」
「ううん。少しくらいなら歩けるから、ここでいいよ」
 の言葉に、三木ヱ門はしばし迷うように顔をしかめる。と、その時ぱたぱたと二人に足音が近づいてきた。
「あ、やっぱり! どうしたの、もしかして倒れたの!?」
「……あ」
 同室の友達だった。通りがかったらしい友達は、足早にと三木ヱ門に駆け寄ってくる。授業中にが月のもののせいで調子が悪かったことを知っている友達は、すぐにそうと察したらしい。
「うん。貧血が酷くて、委員会早退してきちゃった。……三木ごめん、下ろしてくれる?」
 の言葉に、三木ヱ門は抱えていたをそっと地面に立たせた。軽く肩を抱いて支えながら、の友達に目を向ける。
「すみません、先輩を部屋までお願いしてもいいですか?」
「うん、もちろん。、あんた昼間から死人みたいな顔してたのに、部屋でおとなしくしてなかったの? 自分の体調考えなよ」
 呆れたように言いながら、友達がに手を伸ばす。三木ヱ門の腕が離れて、今度は友達が身体を支えてくれる。今まであった三木ヱ門の気配が急に遠ざかって、少しだけ惜しい気がした。
、少しなら歩ける? 抱えてもいいけど」
「……大丈夫」
 友達に頷いて、は三木ヱ門に目を向ける。三木ヱ門はまだ少し心配そうな顔で、を見ている。
「三木……ごめんね、送ってくれてありがとう」
「いいえ」
 が礼を言うと、三木ヱ門は軽く微笑んで首を横に振った。
「お大事にしてくださいね、先輩」
「うん……。あの、潮江先輩になにか言われたら、私に無理矢理送れって脅されたって言って」
「……それは嫌です」
 の言葉を柔く否定して、三木ヱ門は「それじゃ、失礼します」ととその友達に向けて頭を下げ、背を向けて会計委員室へ戻って行った。
「嫌だって言われた」
 さっきもだったし、もしかして反抗期だろうかと隣の友達を見上げると、友達は可笑しそうに笑っていた。
「いい後輩じゃない、
「……うん」
 いい後輩、なんだけど。なんか、もやもやする。なんでだろう、体調が悪いからだろうか。
 友達に支えてもらいながら、もういない三木ヱ門の去った方向に視線を向けて、は小さくため息を吐いた。















 先輩は、強い。
 大抵のことは一人で出来る人だし、よほどのことがない限り、他人に泣きつくこともしない人だ。今だってそうだ、多分私が無理に送ろうとしていなければ、先輩は一人でなんとかしていたはずだ。すごく苦しくても、誰にも助けを求めずに。
 それが寂しい。どうせなら、その全てに私も巻き込んで欲しい。
 私にだけはあの人の弱みを見せて欲しいと思うのは、きっと私が先輩の『特別』になりたいからなのだろう。


 ──先輩が、好きだから。


 足早に戻って、廊下に放り出していた帳簿を抱え上げて、会計委員室に急ぐ。
 先輩がたとえ望んでいなくとも、私はあの人のためになにかがしたい。けれど多分出来ることは少なくて、役に立つことはあまりなくて、だからせめて、出来ることだけは全力でしたい。


「すみません潮江先輩、遅れました!」


 せめて。
 先輩が明日委員会に来なくてもいいように、今日中に出来るだけ仕事を終わらせるくらいのことは、全力で。




















 終

 →四話『多分ここが始まり』前編


ボツの超短文ですがオマケです。よろしければ……。コチラです(別窓)