不破雷蔵夢
三話『気づきへの第一歩』





 夕日の赤い光が、辺り一面を同じ色に染めていく。
 生徒達で騒がしい食堂や長屋や共用の風呂場とは違い、雷蔵が通い慣れたこの道にはいつもながら人影がない。おそらく学園内でも一・二を争うだろう静かな場所、図書室へと向かって、雷蔵との二人は赤に染まる廊下の上を並んで歩いていた。
「ごめんね雷蔵、用事があったのに後回しにしてもらって」
 雷蔵の隣で、がすまなさそうな顔をするのに、慌てて雷蔵は首を横に振る。
「ううん。本当に大丈夫だから、気にしないで」
 は雷蔵の言葉に少しだけまだ気にしている様子を見せて、けれど結局「うん、ありがとう」と小さく微笑んだ。その至近距離の微笑みに、雷蔵は今更ながらに二人きりなんだと実感して顔を赤くする。顔が赤いのが夕日の光で誤魔化せればいいけど、と思いながら。
 に『課題の参考になる資料が欲しいんだけど、もしよかったら一緒に図書室で探してもらってもいい?』とお願いされたのは、食堂で夕食を食べているときだった。からの、それも二人きりになれる頼みなんて、あまりに願ってもないことで夢かと思った。けれど夢ではなく現実で、こうして二人で並んで図書室に向かっている。
 本当は兵助との約束が入っていたのだが、悪いけど正直そんなのどうでもいい。とこうしていられるならどんな約束でも反故するだろうなと、雷蔵は隣に並ぶの存在に、今一度鼓動を早くする。
 けれどはそんな雷蔵の心中に気づかず、近づいてきた図書室をちらりと見て、のんびりと言った。
「図書委員は大変だよね。いつも本の整理で忙しいでしょう」
「そんなことないよ、もう結構慣れたしね。それに多分、どの委員会もみんなそれぞれ大変だと思うよ」
「それはそうかもね。上級生になると仕事も増えるし」
「うん。それにだって体育委員で大変だろうし、……いや、本当に大変だよね……?」
 いけいけどんどんな委員長を思い浮かべて雷蔵が苦笑すると、は「そうでもないよ」と笑う。
「あれはあれで結構楽しいよ。私、走ったりするほうが得意だから。でも図書委員も楽しそうだね」
 はただなんとなく口にしただけだろうけれど、最後の言葉に雷蔵の鼓動が跳ね上がる。もしと同じ委員会だったら、ほとんど毎日のように会えて、きっともっと会話が出来て──そう、たとえば一年生からずっと同じ委員会だったら、今よりずっと仲良くなれたかもしれない──そこまで考えてから、あまりに意味のないことに気づいて思考を閉じる。今まさにと二人きりなのがこんなに嬉しいのだから、それで充分だ。
 そうこうしているうちに、図書室前に着く。雷蔵が先に戸を開けて中に入ると、は小声で「失礼します」と声をかけて、雷蔵の後に続く。
 湿っぽい本の匂いが充満する図書室の中は、雷蔵にとっては慣れた静けさで満ちていた。いつも番をしている図書委員長がちらりと雷蔵の姿を見て、すぐに手元の貸し出しカードの整理に視線を戻す。図書室の中には、図書委員長と他に何人か常連の生徒達がいるだけだった。
「こっちだよ、
 委員長に注意されないように、雷蔵は微かに聞こえる程の小声でを先導する。は声に出さずにうんうんと頷いて、足音を立てないように雷蔵についていく。
「確か、毒薬についてだったよね」
「うん、出来れば幅広く載ってるのが欲しいんだけど、あるかな?」
「薬草については? たとえば毒にも薬にもなるものとか──」
 該当の棚の前で足を止めて、雷蔵とは先程と同じく小さく抑えた声で会話を交わす。の要望を聞いて何冊か候補の資料本を出しながら、雷蔵は胸中がほわんと温かいもので包まれるのを感じる。と二人で、並んで、自然に会話を交わせる。それだけのことがすごく幸せで仕方ない。ずっと前から大好きで、今ももちろん大好きで、むしろその想いはどんどん強くなっていて──
 はい、とに本を差し出したその瞬間、の指が雷蔵のそれと微かに触れた。びくりと固まる雷蔵と対照的に、はそんなこと気にもしていない様子で、受け取った本を嬉しそうに抱え込む。
 に悟られないようにと気を落ち着かせても、飛び上がった鼓動はなかなか静まってくれなかった。指が少し触れただけ、の体温がほんの少し感じられただけ。……たったそれだけなのに、こんなにも動揺してしまうほどに、のことが好きで仕方ない。
「雷蔵?」
「あ、ごめん。……それと、あと、これくらいかな。どう? これで足りそうかな」
「うん、もう充分なくらい。ありがとう雷蔵、この本全部借りてくるから、少し待っててくれる?」
 雷蔵が薦めた本を笑顔で抱え込んで、は図書委員長の元に向かう。ありがとうと言ってくれたの笑顔にまたほわんと幸せを感じながら、雷蔵はが戻るのを待つために図書室の戸まで足を進める。頼まれていたことはこれで終わったし、あとはもう別れるだけだろう。短い間しか一緒に居られなかったけれど、それでも雷蔵は嬉しかった。なにより自分が少しでもの役に立てたなら、それが一番嬉しい。
 が図書委員長から本を借り受けて、こちらに向かってくる。嬉しそうに微笑むに自分も微笑み返して、雷蔵は両腕で本を抱えているのために、図書室の戸を開いた。




「本当にありがとう、雷蔵。面倒なことに付き合わせちゃってごめんね」
「ううん、僕での役に立てたのなら良かったよ」
 連れ立って図書室を出て、はまず雷蔵に付き合ってくれた礼を言う。雷蔵はにこにこと微笑んで、首を横に振ってくれる。
「僕もいい勉強になったし、気にしないで」
 本当になんでもないことのように雷蔵が言うので、もつられるように笑みを浮かべる。
「雷蔵、本の探し方、すごく上手いよね。本当は私、先に一人で図書室に探しに行ったんだけど、量が多すぎてどれにしたらいいか分からなかったの」
「そ、そうかな。でも図書委員だからいつも本の整理してるし、分類も仕事の内だからね。これくらい出来て当たり前だよ」
 言いながらも、雷蔵はまんざらでもなさそうな嬉しそうな顔をしている。
 は雷蔵に選んでもらった文献三冊を胸に抱えて廊下を並んで歩きながら、上機嫌に見える雷蔵を見上げた。普通の人なら嫌がるかもしれないのに、雷蔵はの頼みを快諾してくれて、自分の予定を後回しにしてまで図書室についてきてくれた。本当に嫌な顔一つせず、始終むしろ楽しそうだった。
 ……少し不思議だ。前から思っていたけれど、雷蔵は本当に優しい。だけでなくどんな生徒にも柔らかく接するし、見返りを求めることもない。
 見返り。ふとその言葉に思い当たって、は気づく。
「そうだ雷蔵、私ね、明日の休みに同室の子と町に行くの。今日のお礼に……なるか分からないけど、お土産買ってくるね?」
「え」
 雷蔵が唖然とした声を上げた。のみならず足まで止まる。どうしたのだろうと訝りながら、も合わせて足を止めた。なぜか固まっている雷蔵に、は慌てて付け足す。
「そ、そんな大したものは買ってこれないと思うけど。えっと、お菓子とかどうかな。それとも、私の好みで選んだら迷惑かな」
「そんなことないよ!」
 突然に、雷蔵が大きな声での声を遮る。今度はこっちが唖然とするの前で、雷蔵はゆっくりと、言葉を続けた。
「その……が選んでくれるなら、なんでも嬉しいよ」
 声はだんだんと小さくなっていたけれど、最後までちゃんと聞こえた。良かった、迷惑じゃなかったんだ。はホッとする。
「うん、じゃあ雷蔵に喜んでもらえそうなもの、探してくるね」
 の言葉に、雷蔵は小さく「ありがとう」と言って、照れたように視線を逸らす。なんだか思った以上に喜んでくれているみたいで、は自分まで嬉しくなった。
 あ、と雷蔵が小さく声を上げる。どうしたのかとが首を傾げると、単に自分が足を止めていたことに気づいたらしかった。苦笑して歩き出す雷蔵に、も笑いながら共に歩き出す。
「雷蔵は明日どこか行かないの? 三郎とかと」
「うーん、約束はなにもしてないけど、試験も近いし二人で自習してるかな。……たまに三郎、ふらっといなくなるから分からないけどね」
「偉いなぁ、二人とも。私も勉強しなきゃ」
だって、今勉強のために準備してるだろ」
「そうだね、せっかく雷蔵に資料揃えてもらったんだから、頑張るね」
 会話を交わしながら、と雷蔵は図書室前の廊下を通り過ぎる。
 長屋へと帰るために地面へと下り、同時に一歩を踏み出した。

 ──その瞬間、の身体に強烈な違和感が走った。

 踏み出した足が、体重を支えられずにずぶりと地面に吸い込まれる。実習などで幾度も繰り返した既視感。これは落とし穴だ。気づいた次の瞬間に頭に過ぎったのは、このままでは雷蔵も巻き込まれるということだった。すぐ傍の雷蔵を突き飛ばそうとしたが、本を抱えているせいで間に合わない。雷蔵には悪いがいっそ蹴り飛ばして、と思ったその瞬間、それよりも早く、雷蔵がを引き寄せて抱き締めた。その行動を疑問に思う暇はなく、そのまま、勢いよく穴の中へと落ちた。



 血の気が引くような落下の後、一度大きく衝撃が走る。けれど、覚悟していた程の痛みはない。土の匂いと、湿った空気。突然に真っ暗になった視界では、すぐに状況を理解出来ない。
「……、大丈夫?」
 至近距離で、雷蔵の声がする。ゆっくりと視線を向けると、すぐ下に雷蔵の顔がある。折り重なるように落ちたせいで、はほとんど雷蔵の上に乗ってしまっている体勢だった。それを確認して、そしてそれが示すことに気づいて、唖然とした。衝撃があったのに痛みがなかった理由がようやく分かる。雷蔵は、を庇うために抱き締めて、自分が先に落ちたのだ。

 ──そんな。

 しばらく返事が出来ないでいると、「、どうしたの?」と心配そうな雷蔵の声が繰り返される。その声にハッとして、は抱えたままだった本を横へと押しやった。
「ご、ごめん雷蔵。怪我してない?」
 自由落下と自分の重みのせいで雷蔵が潰されていないかと心配で、はすぐ傍にある雷蔵の顔を覗き込む。おそらく初めてだろうとても近い距離に、恥ずかしさよりも申し訳ない思いが湧き起こる。の問いに、雷蔵はしばし自分の身体を探るようにしてから、「うん、大丈夫だよ」と微笑んだ。その微笑みに、の心の内が波立つ。なぜかずきりと胸が痛んだ。
 けれど今はそれに構っている暇はなく、は慌てて雷蔵の上から身を引こうとする。しかしあまり大きくない穴のせいで、なかなか身体を起こせない。そうこうしている間にも自分の重みが雷蔵に負担になっているのではと焦りが募り、しかも今自分が雷蔵とほとんど密着している状態なのだと改めて思い、急に気恥ずかしくなった。
「ごめん、ちょっと……もうちょっと待ってね」
「い、いいよ、ゆっくりでいいから、
 上手く行かずに焦っていると、慌てた様子で雷蔵が言う。けれどそう言う雷蔵も気にしているのか、少し顔が赤い。身を起こそうとする度に雷蔵の肩や腕に触れるので、ますます焦りは酷くなった。
 ようやくに雷蔵から身を引くことが出来て、はやっと身体の力を抜いた。が離れた後、雷蔵もゆっくりと身を起こす。
「雷蔵、本当に大丈夫? 怪我してない?」
 改めて尋ねると、雷蔵は今一度自分の手足を確認してから、頷く。
「……うん、大丈夫だから、心配しないで。それよりは? 怪我してない?」
 雷蔵の言葉にホッとして、も「うん、私も大丈夫」と答えた。実はそこで初めて自分の身体のことに気づいたのだが、そもそも雷蔵が庇ってくれたおかげで、打撲どころか擦り傷の一つさえもなかった。
 そうだ、私は庇われたのだ、とは改めて思い出す。途端にまた、よく分からない胸の痛みがずきりと走った。
「結構深いよね」
 突然ぽつりと雷蔵が言葉を漏らす。狭い穴の中、雷蔵が視線を上に向けている。もそれにならって、穴を見上げた。
「……そうだね、雷蔵より少し高いくらいかな」
「うん、横幅も結構あるし。……こんな穴、図書室に行くときはなかったのに」
 雷蔵が軽く呆れたように「喜八郎だろうなぁ」とため息を吐く。もそれに頷きながら、綾部喜八郎の無表情を思い浮かべる。忍者として罠を容易く仕掛けられるのは実力のうちだろうが、見境なくあちこちに掘られるのは少し迷惑だなと思う。自分だけならともかく、今回は悪くすれば雷蔵が怪我をしていたかもしれないのだし。
 そろそろ出よう、とは穴の中で立ち上がる。その隣で、気づいた雷蔵が腰を浮かせた。
、僕の肩使って」
「あ……ありがとう」
 その場に膝をついて、雷蔵がに人馬を促す。その気遣いに感謝して、は雷蔵の肩を足場にして穴の外に出た。
「掴まって、雷蔵」
 代わりにが伸ばした手を、雷蔵の手が掴む。お互いの手首を掴んで雷蔵を引き上げて、ようやく二人は狭い穴の中から外へと出た。
 はいこれ、と雷蔵が穴の中に置き去りにしてきた本を手渡してくれて、は慌てて本が汚れていないかを確認する。目立つ汚れがないことにがホッとするその隣で、雷蔵は興味深そうに自分が今までいた穴を見下ろしている。
「出てみるとやっぱり大きいね。あとで喜八郎に埋め直すように言っておかないと」
 雷蔵の半ば尊敬するような声に、も本を抱えながら頷いた。
「ここって通路だし、大穴空いてたら危ないもんね。喜八郎に、掘るならせめて目印つけておいて、って伝えておいて」
「そうだね、学園の中なんだし。少し叱っておくよ」
 雷蔵が苦笑して言った言葉に、は不思議に思う。叱るなんて言うけれど、雷蔵は本当にそんなことするんだろうか。普段からはとても想像も出来ない。
 だって雷蔵は、……誰にだって優しいのに。

 ──そう思った時、またズキリと胸が痛んだ。

 ……なに?
 先程から続く、自分でも不可解な胸の痛みに、さすがにも不審に思う。
 なぜだか分からないのに、酷く胸がざわつく。嫌なことも悲しいことも不安なことも、なにひとつなかったはずなのに。
「そろそろ帰ろうか、
「あ、……うん、そうだね」
 雷蔵の言葉に慌てて頷いて、は本を抱え直して雷蔵の隣へと並ぶ。もやもやと重いものを胸中に抱えながら、は雷蔵を見上げる。視線の合った雷蔵は、「どうしたの?」と尋ねながら、柔らかく笑ってくれた。

 ──胸が、痛い。

「ううん、なんでもないよ。あ、さっき落ちた時……ありがとう」
「ん? ……なんのこと?」
 庇ってくれたことを指して礼を言うと、雷蔵はきょとんと不思議そうな顔をした。きっと、気遣わなくていいという意味なのだろう。その雷蔵の優しさに嬉しくなって──同時に胸がまたざわりと騒いだ。
 けれど、それがなぜなのか分からない。
「雷蔵、どこか怪我してたら大変だし、もし痛んだらちゃんと医務室に行ってね?」
「うん、もね。心配してくれてありがとう」
 そんな会話を交わしながらも、はずっと、自分の中で生まれている意味の分からない痛みに首を傾げていた。
 胸が痛い。なのにその理由が分からない。
 分からないのに、痛い。
 







 なんだかの様子がおかしい──気がする。
 並んで話をしながら、雷蔵はの様子を怪訝に思う。
 いつも優しくて笑顔のが、今はなんだか酷く戸惑っているように見える。それは、あの穴に落ちてからだ。
 ……いや、おかしいもなにも、狭い穴の中で男とくっつくことになったら、そりゃ気まずいだろうけど。
 自分はが好きだから気にならない……というか正直に言って嬉しいのだけれど、にとって雷蔵は顔見知りの男子生徒でしかないのだから、嬉しいどころか恥ずかしいだろうし……もしかしたら単に嫌だったのかもしれない。
 に怪我がなくて本当に良かったけれど、咄嗟とはいえ庇うために抱き締めたのはやっぱりやり過ぎだったのかな、と雷蔵はしゅんと落ち込む。
 ──どうしよう。
 とはいえ、今更謝っても仕方ない。そもそも謝って済むことなのかも分からない。
「……雷蔵?」
 悩む視線を向けてしまっていたのか、が首を傾げている。慌てて、雷蔵は笑みを作った。
「ごめん、なんでもないよ」
「もしかしてどこか痛む? やっぱり雷蔵、医務室に行ったほうがよくない?」
「ん……大丈夫だよ、ほんとに」
 心配そうに、が雷蔵の顔を覗き込む。その瞳には、ただ純粋に雷蔵を気遣う色しか映っていない。先程見た戸惑った様子は感じられなくて、もしかするとただの勘違いだったのだろうかと雷蔵は思う。
 の黒い瞳の中に、自分の顔が映っている。それが分かるほどに、近い距離。心配そうに雷蔵を見上げると、そのを見下ろす自分と。

 ──嫌われたくない。

 ふいに、そう思った。
 嫌われたくない。それこそなにを犠牲にしてでも、にだけは嫌われたくない。
 好きだ。が、好きだ。









 
 胸が痛む。だけどどうして痛いのか分からなくて、はそれに酷く悩む。
 自分で自分のことが分からないなんて、今までほとんどなかったのに。
 私は私のはずなのに、どうして私のことが分からないんだろう。
 それが不安で、混乱して、落ち着かない。
 雷蔵と別れてからも、はずっと考えていた。
 どうして私は胸が痛いんだろう。どうして、どうして、どうして、と。



 自覚できない想いを胸に、ずっとずっと悩んでいた。




















 終

 →四話『贈り物』


 この話の前半部分をボツとして削ったので、よろしければおまけとしてどうぞ。
 三郎夢ヒロインが出張りますので、夢ヒロイン同士が絡むのが嫌いな方はご注意ください。こちらです(別窓)