『善法寺伊作』前編


 実習概要の説明が終わって緊張に満ちた教室に、放課後を告げる鐘の音が鳴り響いた。

 教室内の女子生徒達は静かに席を立って、それぞれの思う場所へと向かっていく。それをしばらく見送ってから、私もようやくに腰を上げた。
 黒板に書かれた、『期末試験実習概要』の文字を今一度眺めて、ほんの少し気が重くなる。気にしても仕方ないと諦めて私も教室を退室しようとしたとき、ぽん、と後ろから軽く肩を叩かれた。
「……山本先生?」
さん、少しだけいい?」
 山本先生は私の肩から手を離して、私に相対するように前に回る。
「はい、どうかなさいました?」
「あのね。さん、保健委員だったわよね」
「あ、はい、そうです」
 保健委員に所属している六年生は、私と伊作君だけだ。山本先生はちょっと申し訳なさそうな表情で、小さく「ごめんなさいね」と謝った。
「実はね、昼に新野先生からあなたにって伝言を頼まれたことがあるの。……新野先生は今日、急な二年生の実習に付き合って遅くまで帰ってらっしゃらないそうなんだけど、明日までに作らなくちゃいけない医務室の資料があるらしくて……これで分かる?」
「はい、分かります。たぶん在庫が少ない薬の一覧だと思います。明日薬売りさんがいらっしゃるはずなので」
「よかった、分かるのね。それでね、代わりにあなたにそれを頼みたいってことだったんだけど……どうかしら……?」
 少し躊躇するような山本先生の声に、私は慌てて頷いた。医務室の仕事を新野先生が出来ないなら、委員がするのは当然だから。
「分かりました、私がやります」
「……ほんとに? 新野先生も出来ればで構わないって仰ってたから、無理しなくていいのよ?」
「いいえ、本当に大丈夫です。もともと保健委員の仕事ですから」
 今回は試験が近いからと新野先生が引き受けてくださったけど、薬の管理は保健委員の仕事の内だから。
 それに、今日の医務室の番は伊作君と左近君だったはずだ。新野先生が二年生に付き合ってらっしゃるということは、左近君も遅くなる。つまり医務室の手も足りなくなるから、そういう意味でも新野先生は私に任せてくださったんだろうし。
 まだ少し気遣わしげな山本先生にそう説明すると、山本先生はほっとした様子になる。
「ありがとう、さん。伝えるのが遅くなってごめんなさいね。説明が終わってからと思っていたから」
「いえ。……それに今日は、もしかしたら怪我人が多いかもしれないですし。医務室にいたほうがいいかもしれません」
 内容が内容だから、今回の実習を理由に乱闘騒ぎがあるかもしれない。それを思って苦笑すると、山本先生はすぐに意味を悟って、私とは逆に少し楽しそうに微笑んだ。
「そうね、実習だからいろいろあるかもしれないわね。……なにかあったらよろしくね」
「はい、防ぐことは出来ませんけど、治療でしたら任せてください」
「お願いするわ、保健委員さん。……頑張ってね」
 最後に私の肩を軽く叩いて、それじゃあね、と山本先生は教室を出て行く。私は去っていく山本先生に一礼して、廊下に出てもう誰も残っていない教室の戸を閉めた。そのときもう一度黒板の文字に目を向けてしまって、さっきみたいに気が重くなる。
 医務室に行かなくちゃと歩き出してから、そうか今日は左近君がいないなら伊作君との二人番なのだと、今更に気づく。実習内容と伊作君の顔を思い浮かべて、なんだかもっと気が重くなった。
 たぶん伊作君は……いろんな人に迫られてるだろうから。












 いったい今日はなんなんだ。

 僕はただ医務室に向かっていただけなのに、どうしてこうも人にからまれなくちゃならないんだろう。
 一番初めは、同年の女子生徒だった。最終時限が長引いて委員会に遅刻しそうだったので、僕は少しでも近道をしようと裏庭を通っていた。こういうときの不運にありがちな、穴に落ちる失態を犯しませんようにと祈りながら走っていると、突然目の前に顔見知りの女子生徒が現れた。慌てて足を止めた瞬間、間髪入れずに眉間に手刀を叩き込まれそうになって、咄嗟にギリギリで避ける。足が滑って地面に崩れ落ちそうになるのを、助けるように女子生徒が僕の腕を掴んで支えて、にっこりと微笑んだ。
「やっほー、善法寺」
「……挨拶より先に謝罪をするべきじゃないかな」
「まぁそれはともかく、善法寺にお願いがあるの」
 あっさり流して、女子生徒はまたにっこりと微笑む。その笑顔に、すごく嫌な予感がする。くのたま達がこういう行動を取るときは、決まって僕達男子生徒で遊ぼうとしているか、なにかよからぬことを企んでいるかで、とにかくろくな目に合わない。
「急いでるから、用があるなら早くしてくれないか」
 だからちょっとつっけんどんな言い方をすると、女子生徒の目が愉しそうに細められた。
「そんなこと言っていいわけ? あのことばらすよ、善法寺」
「ばらす……? なにを」
に、あんたがを好きだってこと」
「な──!!!」
 あまりの言葉に声を上げると、女子生徒はニヤニヤと笑う。確かに僕は、同じ保健委員のが好きだ。大好きだ。そしてそれがどうやらいろんな人にバレているらしいということは知っていたけど、まさかこの女子にまで気づかれているとは思わなかった。まずい。
「そんな絶望的な顔しなくても、要求呑んでくれたらなにも言わないって」
 まるで今から玩具で遊ぶ幼児のような顔で、女子生徒は「ね?」と僕に迫る。あー、もう。のことを出されてしまったら、僕は無条件降伏と変わらないほどに為す術がない。我ながら情けないとは思うけど。
「……なにが望み?」
「そんな大層なことじゃないわよ。はい、口閉じてー」
「ん」
 言われた通りに口を閉じると、ぐいっと襟を引かれた。眉をひそめた瞬間、唇に掠めるような柔らかい感触。
「はい終わり、もういいよー」
 すぐに手を離して、女子生徒は僕から飛び退くように身を離す。そこでようやく今のが口付けだと理解して、脱力しそうになる。
「……なんの嫌がらせかな、これは」
 ため息を吐きながら問うと、女子生徒はにいっと微笑んだ。
「どうせ後で分かるよ。んじゃねー!」
 本当に用はそれだけだったらしく、そのままさっさと行ってしまった。
「……なんなんだ」
 本当に、なんなんだ。僕を好きなんていう展開はあるはずがないから、つまり僕がを好きだと知った上での悪ふざけだろう。
 はあ、ともう一度ため息を吐いてから、僕はようやく歩き出す。さっきの今でやる気が出なくて、遅刻しそうなのに急ぐ気になれない。
 別に軽い口付けごときで騒ぐような年じゃないしどうでもいいけど、それより僕はどこまでバレてるんだと心配になる。が自然に気づいてくれるならともかく、からかうようなことを言われてたら嫌だなあとどんよりと気分が沈むのを感じていると、
「善法寺先輩ーー!」
 後ろから声をかけられた。女子の声というだけでよし逃げようと足に力を込めたけど、地面を蹴る寸前でぎゅうっと腕を引かれた。仕方なしに、振り返る。
「……なにかな」
 僕の腕に縋り付いているのは、たまに顔を見る四年生の後輩だった。にこにこーとさっきの女子生徒と同じ微笑みで(もうほんと勘弁してくれ)僕を見上げてくる後輩に、また嫌な予感がする。
「忙しいんだけど……なんの用?」
 ていうか逃げたい。またを脅迫に出されたらどうしようかと思ってると、後輩は僕を掴んでいた両手を離して可愛らしく胸の前で組むと、甘えるように小首を傾げた。
「私ですね、善法寺先輩にお願いがあるんですよー! ていうか、えい」
 最後の言葉と共に、突然に膝裏に蹴りを入れられた。年下の後輩女子相手に情けないことに、ぐらりと身体が揺れかける。咄嗟に本気で反撃しそうになって、いやいや相手は年下の女の子だと思い直したのがまずかった。その躊躇を悟られたのか、そのまま本格的に足払いをかけられて、地面に引き倒される。
 その辺りで、諦めた。
「……なにが望みかな」
「はい、少しおとなしくしててくださいね! 申し訳ないとは思いますけどこれ試験ですので、ごめんなさい」
 にっこり微笑んで、後輩はぐいっと僕に覆い被さって唇を押しつけてきた。たった今同じことがあったなーと頭の隅で考えている間に、すぐにその感触は離れる。
「ありがとうございましたー!」
「……えっと、試験だって?」
 身を起こす後輩に続いて起き上がりながら問うと、はい、と後輩は大きく頷く。
「誰でもいいんで、男子生徒と口付けするのが実習なんです!」
 それで全部が分かった。後輩は素早く立ち上がると、「じゃ」と僕に一礼する。
「ご協力ありがとうございました、善法寺先輩!!」
 満面の笑みで言われて、なにも言えなくなる。わーい実習終わったー! と嬉しそうに去っていく後輩の姿にちょっと男の沽券とか考えて寂しくなりながら(僕はいったいなんだと思われてるんだろう)、その場から立ち上がる。
 なるほど実習試験だから二人ともあんな強引な手を使ったのかと納得してから、これはまずいなと顔をしかめた。僕は自分で言うのもなんだけど、この手の実習で標的にされやすいのを自覚している。このままだと際限なく同じことが繰り返されるに違いない。早く医務室に行こうと、慌てて歩きだした。
 と。その矢先にまた捕まった。正確には「善法寺先輩」と名を呼ばれて、目の前に駆け寄られた。よく顔を見る五年生のくのたまだ。じーと僕を見上げてくるその顔に、もうなんかどうでもよくなってきた。
「……君も実習かな?」
「え? なにがですか?」
 不思議そうに問い返されて、少し驚く。
「違うの?」
「……ああ、もう誰かにされましたか? 今四年生以上の女子生徒は実習中ですから、嫌だったら逃げたほうがいいですよ。みんな試験がかかってて殺気立ってますからね」
 思い当たった様子で苦笑するくのたまに、そういえばと思い出した。この子は五年生の学級委員長だ。よく見る子だと思ったら、たぶん保健委員の仕事とか委員長会議とかで顔を合わせてるからだろう。
「じゃあ、僕になんの用かな」
 まだ緊張は解かないままに、僕は改めてくのたまに向き直る。なんせ騙すことにかけては一級のくの一教室の生徒だ。委員長だからと油断出来ない。
 はい、とくのたまは軽く頷いて、懐から折り畳まれた一枚の紙を取り出して僕に差し出した。
「これ、学園長先生から保健委員にって言付かったものです。教職員の健康診断についてらしいんですけど」
「……ああ、うん。預かるよ。ありがとう」
 本当に用があったのかと拍子抜けしながら、僕は差し出された用紙を受け取った。緊張を解いたのが分かったのか、くのたまはちょっと困ったように笑う。
「善法寺先輩、お聞きになってるかどうか分かりませんけど、一応実習は人目のないところでやれっていう規定があるんです」
「ん? ……君たちの実習のこと?」
「はい。ですから、お逃げになるのでしたら人の多いところがいいですよ。失礼ですが、たぶん善法寺先輩はよく狙われると思いますから」
 その言葉に、疑ってちょっと悪かったなと思った。詫びのつもりも含めて、礼を言う。
「お気遣いありがとう。……いやほんとに。これからは気を付けるよ、僕はどうやら隙が多いらしいからね」
「ええ、その通りですね」
 言われた瞬間に頬を掴まれて、今日三度目の感触が唇に触れた。しまったと思ったときには、すでにくのたまは身を引いている。
「油断大敵です、善法寺先輩。自分以外は敵と思え、ですよ」
「……ご忠告ありがとう」
 とりあえずそれだけを口にすると、くのたまはにこっと微笑んで(ああ、あの二人と同じ笑顔だ)、それからすぐにどこかに消えて行った。

 ……さすがに、ちょっと落ち込みそうになった。

 くのたまが本気を出したらみんな一律に悪辣だということは、今までの学園生活で嫌というほど理解していたはずなのに。
 最初にのことを脅されたときはともかく、あとの二人は明らかに逃げられたはずだ。不運だとかヘタレだとかいろいろ言われてきたけど、今はもうなにを言われても反論出来ない。
 でも、これ以上思惑に乗ってたまるもんか。僕にだって多少なりとも意地がある。六年間この学園で学んだ実績だってある。
 だからとにかく今は医務室に向かおうと、僕は急いで走り出す。
 裏庭を抜け、生徒がたくさんいる通路に足を踏み入れる。人の気配にホッとしたその瞬間、
 ──目印を見落として蛸壺に落ちた。


 まあ、その後も散々だった。
 落ちた蛸壺から出た途端に鬼気迫る勢いで女子生徒に追いかけられたり(さすがに今回は逃げ切った)、他にもなんだかしつこく絡まれたりいろいろあって、ようやく医務室にたどり着いたときにはもう、僕は言い訳できないくらいに完全に遅刻だった。
 ただここに来るだけだったのに、なんだかものすごく疲れた気がする。今日の番は左近とだから、とりあえず医務室にいれば安全のはずだ。僕はようやくに少し気を抜いて、医務室の戸を開けた。
「ごめん左近、遅くなっ……、あれ?」
「あ、伊作君」
 遅くなったことを詫びようとした言葉を、途中で切った。左近がいるとばかり思っていたのに、医務室の中にいたのは一人だった。は薬の確認中だったのか、在庫表片手に薬箪笥に向かっている。
「……なんでが? 今日の当番は左近だったよね」
 言いながら後ろ手に戸を閉めて中に入ると、は「うん」と頷いて僕に向き直る。
「二年生と新野先生、今日実習でお戻りが遅いんだって。だから明日用の薬の在庫確認をして欲しいって頼まれたの」
「新野先生に?」
「うん、山本先生づてにね。それに、左近君が来れないなら誰かいたほうがいいと思って。……駄目だったかな」
「や……そんなこと全然ないけど……。でもは今日当番じゃないし、」
 それは僕がやるよと言いかけた言葉を、が遮る。
「伊作君はいつもの仕事があるし、よかったら私にさせて? ……伊作君の邪魔じゃなかったらだけど」
 もちろん邪魔なわけがない。むしろ僕としてはいつまでも居て欲しいんだけど……。
 は、優しい。さっきはくのたまは一律に悪辣だなんて断言したけど、に限ってはそう思ったことは一度もない。それは僕と同じで忍術学園の生徒という意味では褒められたことじゃないかもしれないけど、とにかくは人に頼まれたら嫌と思えない性格だから。手伝ってくれるのは嬉しいけど、無理をさせていたら申し訳ない。
「……あの、邪魔かな」
 僕が黙っていたせいで不安に思ったのか、再度問いかけるに、慌てて「ごめん」と謝った。
「そんなこと全然ないよ。……じゃあ、お願いしてもいいかな」
「うんっ」
 微笑んで、はまた薬箪笥に向かう。どの薬が足りないのか引き出しを覗いて点検していく姿をちょっとだけ眺めてから、僕も今日の仕事をしようと新野先生が使ってらっしゃる文机に足を向ける。
 そのときふと思い出して、さっき委員長のくのたまに渡された用紙を取り出す。教職員の健康診断に関することだと言っていたから、新野先生が分かるように医務室の日誌にでも挟んでおこうかと、折り畳まれた用紙を広げてみたら、
 ……見事に真っ白なただの紙だった。
 さすがだなともはや感心しそうになりながら、文机の上に置いた。捨てるのはもったいないから、薬の調合時にでも使おう。
「伊作君ごめん、ちょっといい? 聞きたいことがあるの」
「ん、なに?」
 僕に近づいてきたを振り向くと、薬の在庫表を掲げられた。は、えっとね、と薬名の一つを指して、
「この薬ね、原料になる葉を今度薬草園に新野先生が植えるって仰ってたと思うんだけど」
「ああ、数馬が面倒見るって言ってたよ。そうだね、じゃあその薬はたくさん仕入れなくても……どうしたの?」
 答えている途中で、がじっと僕を見つめているのに気づく。その視線を辿ると、さっき蛸壺に落ちたときに手の甲に出来た擦り傷だった。
「……それ、どうしたの?」
「あ、……いや」
 いつもの不運だよ、と答えようとしたとき、がこっちに手を伸ばしてきた。瞬時に身体が固まってしまった僕の頬、目の下あたりに、そっとの手が触れる。そのとき、ちり、と小さな痛みが走った。
「ここも擦り剥いてるよ。血は出てないけど、消毒しないと」
「ん……そっ、か」
 頬に触れているの指に動揺して、まともな答えが返せなかった。はじっと僕を見てから、手を戻す。の温もりが離れて、ホッとすると同時に惜しいとも思う。
「その傷、どうしたの?」
「いつものだよ。ここに来る前に急いでたら、蛸壺に落ちて」
 きっと苦笑してくれるだろうと思ったのに、は少し複雑そうな顔をした。
「ほんとに……?」
「え?」
「ほんとに蛸壺に落ちたときの傷?」
 問われている意味が分からなくて、しばし沈黙してしまう。それでもじっと僕の答えを待っているに、「うん」と頷いた。
「ほんとだよ。……どうして?」
 逆に問いかけると、はちょっと焦ったように首を横に振った。
「ごめん、なんでもないの……。その傷、私が処置してもいい?」
「い、いいよ! 自分でやるから! ほんとに! 気にしないで!」
 薬箱に手を伸ばそうとするに慌てて断ると、はきょとんとしてから、わかった、と薬の在庫確認に戻って行った。
 に聞こえないように、小さく息を吐く。ちょっと頬に触られただけであんなに動揺してしまうのに、これ以上になにかされたらすごく困る。
 とりあえず自分で言ったことだしと、がさっき手を伸ばしかけていた薬箱を自分で取って傷の処置を始める。砂を落として濡れ布巾で拭いて、消毒する。全然大した傷じゃないけど、保健委員の僕が傷を軽視してたら示しがつかない。もたぶんそういう意味で心配してくれたんだなと思いながら、最後に頬の傷を処置しようとして、はたと気づいた。
 見えない。
 いや自分の顔だから当たり前なんだけど、どうしようかとちょっと困る。まあ指先の感触で大体分かるしと思ったとき、視線を感じて振り返った。
「………………」
「………………」
 いつの間にか、が僕を窺うように視線を向けていた。もしかして今のを見られてたのかなと焦ったとき、がまた僕に近づいてくる。
「伊作君、見えないところだけやらせて欲しいんだけど、駄目かな?」
 いやそこが一番まずいんだけど、理由が理由だから即座に嫌だとは言えない。上手い断り方はないかと躊躇しているうちにの顔が曇ってきて、慌てて頷いた。
「お願い」
「うん、よかった。気になってたの」
 ほっとした様子で、が僕のすぐ前に座る。の顔が近すぎて、どこに視線を向けていいか分からない。
「伊作君、目閉じててくれる?」
 の言葉に、助かった、とすぐに目を閉じた。たぶん、なにかの拍子で消毒薬が目に入らないようにだろう。
 傷の砂を指で払ってから、少し冷たい濡れ布巾の感触が触れる。顔が赤くなってないといいけどと思いつつ、の指の感触に鼓動が高鳴った。
 ──あのことばらすよ? と、さっき言われた言葉が頭に巡る。
 僕はが好きだ。は優しくて、真面目で、いつも人への気遣いを忘れなくて、……可愛くて。僕はと六年間一緒の委員だからのことはよく知ってるつもりだけど、一番知りたいことだけはずっと分からないままで。告白するほどの勇気もないのに、このままは嫌だと思う複雑な胸中を、ずっとずっと抱えてきた。想い合える関係になれたらと何度願ったか分からないのに、その望みはたぶん薄くて。でも、のことが大好きで。
 の指が、躊躇いがちに傷の上を撫でる。大した傷じゃないのに、の手つきは優しい。今までにないくらいにの気配がすぐ近くにあって、もしもっと近くに来てくれたらすごく嬉しいのになとぼんやりと考えたとき、……ようやくに気がついた。
 くの一教室の実習試験。さっき僕が身を持って知ったこと。
『誰でもいいんで、男子生徒と口付けするのが実習なんです!』
 そう、はっきりと言っていた後輩の言葉。

 じゃあ、は?
 ──の実習は?








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