| 『田村三木ヱ門』前編 | |
「そんなわけで委員長、唇奪わせて頂きます」 文次郎が委員室に入ったその瞬間、突然の言葉と共に足払いをかけられて、畳の上に押し倒された。そのまま腹の上にどすん、と乗ってくる嫌な重み。咄嗟に突き飛ばそうとするより早く、首元に冷たい感触を押し付けられて、軽く呻いた。この慣れた感触は、おそらく苦無だ。 「……なに寝言こいてんだ貴様」 吐かれた言葉と行動に半眼になると、文次郎の上に乗っている(くのたま五年の会計委員)は、宣言通りにずいっと顔を近づけてくる。やれやれと、心底仕方なさそうな声音で。 「男の唇を奪えとの実習です、委員長。とりあえず通り魔にでも遭ったと思って諦めてください」 そのまま本気で迫ろうとするを、文次郎は慌ててその肩を掴んで押し戻す。 「ふざけんな、誰がお前なんかに! つかどんな実習だ、なに考えてんだお前らは!」 「あーもう、おとなしくしてくださいよ。年頃の女の子が頭下げて頼んでるんですよ、委員長の役得だと思って、さあ」 「誰がいつどこで頭下げて頼んでんだコラ! 大体お前相手でなにが役得だ、俺にだって好みはある!」 「女子に対してなんていう言い草ですか。それだから潮江先輩はモテないんですよ!」 「うるせえ! お前に迫られるくらいならモテなくて結構だ!」 「あのですね委員長、私も委員長とこんなことしたくないんですよ、いやマジで。でも実習ですから。単位かかってますから。嫌で仕方ないですけどそういうの気にしてられないですし、この際男ならなんでもいいやっていう勢いで」 「本人目の前にしてそこまで言うかこのやろ……! お前の実習など知ったことか、人の上から降りろ!」 「まあまあ委員長、落ち着いてください。礼におにぎりくらいなら握ってあげますよ」 「アホか、握り飯ごときと引き換えに俺の学園生活を破壊すんな!」 「は? なんで私と口付けしたら破壊なんですか。大丈夫ですよ、口付けしたところで、私が委員長に惚れることは万が一にもありません。安心して頂いて結構です」 「んなこた承知の上だ、俺だってお前となんぞ、たとえ同衾したところで惚れるなんてありえねぇ……!」 「はいはいその通りです。ですからちょっと蚊に刺されたと思って我慢してくださいよ。痛くないですから」 「最上級生なめんなよ……! 本気になったところで五年女子のお前に勝ち目なんぞないわ!」 口付けを迫るのとそれを拒む、というよりもほとんど戦闘態勢で、二人はお互いをギリギリと睨み合う。 正直なところ、文次郎は目の前の手のかかりすぎる後輩のことなど異性として全く意識していないし、もそうだと知っている。お互いが言ったとおり、口付けしたところでなにがどうなるわけでもないだろう、次の日にはさっぱり忘れている自信すらある。 しかしだ。だからといって、『はいそうですか好きにしろ』などと言える訳がない。なんせは気づいていないが、後輩の三木ヱ門がこの乱暴かつ粗暴かつ女らしくない奴を本気で好いているからだ。はっきり言って理解できん、と文次郎は顔をひきつらせる。 「人が仕方なしに好みの段階すら下げて委員長でいいかと思い込んだのに、酷くないですか」 「お前の言動のほうがよっぽど酷いだろうが! いいか、俺だってお前みたいな好みの対極にいる女は絶対にお断りだ! お前を殺してでも抵抗してやるから、そのつもりでかかってこいコラ!」 そこまで言うと、さすがにはムッとしたようだった。やれやれと、さほど残念そうでもない様子で身を軽く起こす。 「もー、分かりましたよ。面倒だからさっさと済ませたかったのに、そこまで言われて無理強いしたら、まるで私が潮江先輩とすごく口付けしたいみたいに聞こえるじゃないですか。とても不名誉です」 「こ、の、や、ろ……! 本当に口の減らない女だな!」 腹立ちのままに本気で押し倒して寝技でもかけてやろうかと思ったが、それをしたところで今の状態となにも変わらないのは目に見えている。しかもいつ誰が部屋に入ってくるか分からないのだから、圧倒的にこちらが不利だ。ますます腹が立つ。 「はいはい、すみませんすみません」 「明らかに謝ってないだろうが、お前は!」 目の前のの額に手を叩きつけ、そのまま力を込めて握り締める。は響く痛みにぎりっと顔をしかめながらも、苦無を握る力を強めて的確に文次郎の喉を圧迫する。お互いに痛みを与え与えられて、さあこの状態がいつまで続くか、というその時。 「失礼しま────」 突然に開いた委員室の戸の向こうで、男子生徒が唖然と身体の動きを止めた。 押し倒された委員長と、その上に跨る女子生徒。お互いにお互いの急所に手をかけたまま、反射的に戸に目を向ける。 「あ、三木」 「み、三木ヱ門」 今日は早いねー、と文次郎の上からのん気に声をかけるに、文次郎は猛烈に焦る。まずい。この体勢で誤解するなというほうが無理だ。実際のところお互いにとっては喧嘩と変わらないのだが、その理由がまぁもしかしたら艶事と言えるかもしれないものだけに、理不尽に三木ヱ門の誤解と嫉妬を受ける可能性が高い。それが非常に面倒で、文次郎は咄嗟にを思いきり突き飛ばす。 「わ、なんですか乱暴な」 「うるせー! お前の今までの行動とどっちが乱暴だ!」 「……先輩方」 ぽつり、と三木ヱ門が口を開く。醒めた目の三木ヱ門に、文次郎はやばい、と危機感を抱く。面倒なことになる前に誤解を解こうと思ったその時、はぁ、と三木ヱ門がため息を吐く。 「……また喧嘩してらしたんですか」 「違うよ三木、委員長が堅物で頑固だからよ」 「元はといえばお前が悪いだろうが、どう考えても!」 「またそんな、顔フケてるのに度量の小さいことを。潮江先輩は見た目と実年齢が釣り合ってなさすぎです」 「お前だって人のことは言えないだろうが、洗濯板」 「失礼な、洗濯板よりはありますよ! ていうか人の気にしてることを言うのは最低です! 無神経な!」 「ほほう、お前に神経がどうのこうのと言われるとは思わなかったな。恥を知れ、このアホくの一!」 「なんですか、喧嘩売ってんですか三禁野郎!」 「望むところだ、かかってこいーー!」 「お二人とも、いい加減にしましょうよ……」 また掴みかかろうとする二人に、三木ヱ門が呆れたように間に入る。さすがに後輩に言われてはばつが悪く、二人は仕方なしにお互いから距離をとる。 「覚えてろてめぇ、いつかお前とそいつがああなった暁には全部バラしてやるからな!」 「言ってる意味が分かりませんよ。日本語話してください、日本語」 「けっ。そのとき泣きを見ても俺は知らんからな!」 距離をとってもぎゃーすぎゃーす口汚く言い合っている二人を、三木ヱ門はやれやれという顔で交互に視線を向ける。そのすぐ後に下級生達が委員室に集まってきて、ようやく二人はおとなしくなった。 「こら団蔵、ちょっとここに来て正座しなさい。説教してあげる」 「え、な、なんですか先輩。また字ですか!? 字ですかー!?」 「い、委員長! あの、ここの古い帳簿、虫に食われてるんですけど……」 「寄越せ左門、あとで長次に押し付けてくる。他にもないか確かめろ」 「ええと……田村先輩、つまり中間決算と年度末決算はやり方が違うんですよね」 「そうだ、左吉。とりあえず自分でやってみろ、前年のを参考にしていいから」 今日は比較的仕事が少なかったため、それぞれ後輩達に仕事を教えたり帳簿の整理をしたりで時間が過ぎる。 そろそろ夕食の時刻だという頃になって、文次郎がたまにはいいだろうといつもより早く委員会を終わらせた。 「じゃあ僕達失礼しますね、先輩方お先ですー」 「ああ、ご苦労」 「みんなまたねー」 下級生達が嬉しそうに去ってから、も『さあ帰ろう、というか実習しよう』と立ち上がろうとする。その瞬間、文次郎が一冊の帳簿を投げて寄越した。 「ん? 潮江先輩、なんですかこれ」 「お前はそれをやってから帰れ。三年前の全会計費の報告書だ」 「は?」 「お前と前会計委員長が担当だっただろうが。虫食いが酷すぎて修復できそうにないからな、思い出して埋めろ」 「はいーーーーーー!?」 実習中だと分かっているくせに、嫌がらせにしか思えない文次郎の仕打ちに、は勢いよく帳簿を叩きつけて立ち上がる。今回の実習は『脅し・無理強い可』だからと余裕ぶっこいて、委員会を終わらせてからにしようと気を配っていたのに! 「なんですかこれどういう嫌がらせですか、なんの恨みがあるんですか!」 「委員長命令だ。おい三木ヱ門、を手伝ってやれ」 「あ、はい」 「ちょっと、なに勝手に三木まで巻き込んでるんですか、別に今日じゃなくてもいいでしょーが! 実習合格できなかったらどーしてくれるんですか!」 詰め寄って小声で抗議するに、文次郎はそんなもん知るかと言いたげに睨みつける。 「もう一度言うが、委員長命令だ。悔しければ虫を恨むんだな」 「いいえ、存分に潮江先輩を恨ませて頂きます。……相手が見つからなかったら、潮江先輩のとこに夜這いに行きますからね」 「仙蔵にでも迫れ、あいつなら来る者拒まんからな」 ほれ、とを押しのけて、文次郎はさっさと会計委員室を出て行く。後に残されたはその後姿を『ちっ、今すぐ殴って唇奪って池に放り込んでやりたい。あ、潮江先輩泳ぐの得意だった。じゃあ簀巻きにして放り込みたい』とギラギラした瞳で睨んでいたが、やがて諦めて、文机に戻ってきた。不思議そうな顔で見上げてくる三木ヱ門に、「ごめんね」と謝る。 「あれね、たぶん潮江先輩の私に対する嫌がらせなのよ」 「いえ……私は用事もないですし、構わないですけど」 「あーもう、三木なんでそんないい子なの。ありがとね!」 「っ! ちょ、先輩あんまりくっつかないでください!」 「あはは、ごめんごめん。んじゃさっさとやっちゃおうか。……三木、三年前の会計帳簿全部持ってきてくれる? 照らし合わせるから」 「はい、分かりました」 言われたとおりにすぐ立ち上がって帳簿の並ぶ棚へと行ってくれる三木ヱ門を、は『いい後輩だなあ』としみじみ思う。自分のとばっちりで居残りになったのに、それを迷惑がってる様子も全然ない。昔はあんなに小さかったのに、三木は本当にいい男に育ったねぇ、と一つしか年が変わらないのに保護者面していると、そのの視線に気づいたのか、三木ヱ門が振り返る。 「先輩? どうかされましたか?」 「ん、……なんでもない。ごめんね」 首を横に振ると、三木ヱ門はそうですか、とまた棚に向かう。その後姿をじっと見て、は今更にふと気づく。 ……ああそうか、実習の相手は三木でもいいんだ、と。 しかし少し気が進まない。潮江先輩くらい後腐れない相手ならともかく、三木ヱ門は後輩だし。たぶん自分のことを慕ってくれているし。先輩として、それを利用していいものか。いやいや待て待て、使えるものはなんでも使うのが忍者だ。後輩だからと渋っているのはむしろ私のほうでは? はぐるぐると考えながら、帳簿を抜き出している三木ヱ門の後姿をまだ眺め続ける。さっきも思ったけど、大きくなったなあ、と本当に思う。昔は自分より小さかったのに、今は明らかに三木ヱ門のほうが身長も高いし体格も良い。可愛い後輩であることは変わらないけれど、外見の変化は確実に年の経過を感じさせて、しみじみとする。 ……まあ、あれだ。 は、うん、と一人で頷くと、虫食い帳簿に手を伸ばしてようやくに開く。特に被害が酷いところをざっと確認しながら、最後にもう一度、三木ヱ門にちらりと視線を向けた。 もし私がしなくても、三木だって誰かに実習相手にされちゃうかもしれないし、口付けなんてどうせ恋人が出来たら誰でもするようになるんだし。 だから……私が先に一回もらっても、構わないよね? よし。機会があったらやっちゃおう。 はそう結論を出すと、まずは目の前の仕事を片付けようと気合を入れた。 →後編 |