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はじめに
2020/01/01 (水)
リハビリ用の場所です。
表記がなければ全部固定ヒロインです。

■一応名前変換機能付きです。上のフォームから登録していただければ、自動変換されます。登録しなければデフォ名『』(←登録されていれば登録の名前が出ます)になります。
※お手数ですがページごとに名前登録をし直す必要があります
■お題と名前変換のスクリプトは『Abandon』様/『拍手用名前変換配布所』様にお借りしています。

 
2016/02/07 (日)
凍結にともない、今まで細々書いて完成しなかったものの一部をこっそり置いていきます。連載作品の未完が多いです。いっぱいありますがほとんど下書きかプロットで雑なのと、話しがポンポン飛びますが、それでもよろしければ。
最初の四本の超短文だけは一応完成品です。




 澪は意外と足音が大きい。
 授業中や、意図して他人を尾行しているときなどは本格的に足音も気配も消せる技術を持っているのに、普段意識していないところではむしろ一挙一動が雑だ。ごみをごみ箱に捨てるときは必ず少し離れて勢い良く投球するし、休みの日には畳の上に寝転んで読書をしつつ、目の前の文机に片方の足を載せて、そのままぐびぐびと竹筒に入った水を飲んだりしている。
 それでいて外見はわりとおとなしく見えるので、その食い違いに騙される人間は多い。口がきけないというのもかなり大きな理由の一つだろう。
 その歩く詐欺の澪の足音に気づき、勘右衛門は廊下で足を止めて振り返る。委員会長屋と続く渡り廊下には、二人の他にあまり人影はない。
「お、澪じゃん」
『かんちゃん』
 無表情のまま片手を軽く振る澪は、勘右衛門の元へと大股に足を運んで辿り着く。
「澪も委員会の用事?」
『こもんのせんせいにもってけいわれた』
 左手に提げたわりと大きめの風呂敷包みを掲げてみせる澪から自然に受け取って、「あー、中身帳簿か」と頷いて勘右衛門は再び歩き出す。同じく歩き出す澪と並んで委員会室に向かいながら、「そういえばさ」と口を開いた。
「澪、明日の休みどっか行く?」
『ていしゅつぶつたまってるから、それやる』
「あはは、そろそろ引き延ばせなくなった?」
 むっつりと半目でため息を吐く澪に、可笑しそうに勘右衛門は笑う。すべてにおいて楽な道を選択する澪は、本気を出せば出来るのにぎりぎりまでその力を使わない、典型的な面倒くさがり屋だ。提出課題や宿題は期限まで出来る限り溜め込み、一気に片付けるのだ。
「俺からしてみれば、こつこつと毎日やっておいたほうが、最終的にはいいと思うんだけどねー」
『それができるならさいしょからしてる』
「いやー、澪の場合は出来るくせにしないんでしょ」
 勘右衛門の言葉に、澪は無言で返事をしない。つまり図星なのだ。
「あ、ここだよね。置いていい?」
『ありがと』
 澪の委員会室に到着し、勘右衛門が代わりに持っていた澪の荷物を中に入れる。澪が風呂敷を解いて中身の帳簿を出し、棚に納めた。
「これでいいの?」
『うん。かんちゃんは?』
「俺も書類取りに行くだけだよ。今日暇だから、部屋でまとめとこうかと思ってさ」
『そう』
 澪と勘右衛門は委員室から出て、今度は学級委員長委員会の委員室へと向かう。同じ長屋なのですぐ近くだ。
「今日は珍しく木下先生が課題なしにしてくれてさ、わりと時間あるんだよね。兵助も、明日休みで丁度良いからって夕方になったら外出するらしいし」
『くくちのことだからまたとうふか』
「そー。明日の休みも合わせて使って、良質の大豆を仕入れてくるんだってさ。学園祭で売る豆腐用の大豆を吟味するんだって言ってたな。……あ、澪ちょっと待ってて」
 話しているうちに学級委員長委員会の委員室に辿り着き、勘右衛門はさっさと中に入って文机の上から書類らしき紙束を取り上げてすぐ廊下に戻ってきた。
「兵助が言うには、往復一日くらいかかる遠い大豆畑らしくて、なかなか行けないらしいんだよね。だから前の晩から出るって、さっき外出届をもらいに行ってたよ」
 先ほどの続きを言いながら委員室の戸を閉めて、「だからさ、澪」と勘右衛門は澪を振り向く。
「明日の課題手伝うから、今晩俺の部屋に来ない?」
 にっこりと笑いかけられて、澪はぱちくりと目を瞬かせる。数秒して、指を動かした。
『いったら、なんかいいことある?』
「そうだなあ、課題手伝うってのは勿論だけど、この間委員会で配られた飴まだ残ってるから澪にあげるよー。学園長先生が買ったやつだから高級品だよ。どう?」
『もうひとこえ』
「よし、じゃあ俺の腕枕もつけちゃおう。なんなら寝物語と子守歌もおまけでしちゃおうかなー」
『かんちゃんといっしょにねるの? ふしだらやなー』
「いやいや俺達恋人同士でしょ、たまにはいちゃいちゃしてもいいじゃない?」
 ふふふー、と楽しそうに笑う勘右衛門に、澪は右に左に、左に右に、考えるように視線を動かす。
『たまったかだい』
「うんうん、手伝う」
『おたかいあめ』
「うんうん、全部あげる」
『かんちゃんのうでかたいから、うでまくらはいらない』
「あれー、腕枕すると女の人は喜ぶって聞いたのになー」
『ねものがたりとこもりうたも、うるさいからいらない』
「そうだよね、うるさくすると近所の部屋から苦情出るしねー。静かにしてるのがいいよね」
『それなら』
 なにを言いかけて、澪の指がふいにそこで動きを止めた。そのままちらりと勘右衛門を見る澪に、勘右衛門は澪の言葉を繰り返す。
「それなら?」
 勘右衛門が澪に顔を寄せる。耳元で、そっと二人にしか聞こえないような声で囁く。
「……それなら、俺に澪を抱かせてくれる?」
 ぴくり、と澪の指先が震える。相変わらずにこにこと笑いながら澪の声である右手に自分の手を繋ぐ勘右衛門を、相変わらずの無表情で澪はじっと見上げる。勘右衛門にだけに伝わるように、繋いだ指で言葉を紡ぐ。それが色よい返事だったのか、
「やったね! じゃあ待ってるから見つからないようにねー!」
『かだいたくさんもってく』
「うんうん、分かった! すぐこれ終わらせて準備しとくから! 澪また後で!」
 ひゃっほーっと上機嫌に澪に背を向けて、勘右衛門は忙しそうに男子寮へと走って行く。
 残された澪はじっとその後ろ姿が消えるまで見届け、またわりと大きな足音をたてながら自分の部屋へと歩き出す。
『ごはんたべて、おふろはいって、かんちゃんのへやにかだいもってく』
 独り言を指で呟きながら、澪は小さく微笑む。若干その足取りも軽い。勘右衛門や長く付き合っている同級の女子が見たら、「すごく機嫌いいな」と驚かせるほどに。あまり素直に他人への愛情を示したがらない澪にしては珍しく、楽しみにしている様子だった。




 それなのに。
『ほんまふざけてるわこいつ』
 どが、と澪の足が目の前の勘右衛門を蹴飛ばす。そこそこの衝撃だったはずなのだが、布団に仰向けになって熟睡中の勘右衛門は少し顔をしかめただけでまたぐうぐうと眠りに落ちて行った。
 もう夜も更けた男子長屋。言われた通りにしこたま課題を持って勘右衛門と兵助の部屋に訪れた澪を待っていたのは、ぐうぐう寝こける幼なじみの姿だ。澪が来ることを忘れていたわけではないらしく、部屋はきちんと片付けられ、勘右衛門の文机の上には澪にあげると話していた飴が入っているのだろう包み紙も置いてある。わりと貴重品である油で火も灯されているし、茶の用意などもしてあった。おそらく澪が来る準備をして布団を敷いて、待ってる間に寝てしまったのだろう。まあそうだろう、それはまあ分からないでもない。だが、
『おきないってどういうこと』
 どが、どが、と澪の足がまた勘右衛門を蹴飛ばす。少女の身でありさらに多少手加減しているとはいえ、澪もくの一教室に在籍する生徒だ。わりときつめに蹴っ飛ばしているのだが、同じく忍者のたまごで身体を鍛えている勘右衛門には、多少の刺激にしかならないらしい。一瞬は顔をしかめるものの、覚醒にはいたらない。
『つかにんじゃなのにじゅくすいしてどうするん』
 例えば今この瞬間に緊急の実習が入ったらどうするのか。仮にも五年生、ちょっと爆睡していました、では言い訳にもならない。
『だいたい、よんだのそっちやろ』
 どがっっっと今度は夜の闇に響き渡るほど強く蹴っ飛ばしたが、勘右衛門はまたしても「うーん……」と一つ声を上げただけで起きようとしない。ぴくり、と普段無表情気味の澪の頬が引きつる。もともと決して太くはない忍耐の糸が切れそうなのだ。
『おれにだかせてくれる、とかいったのはだれや。おんなごころもてあそぶあそびにんめ』
 いら、いら、いら、と澪の気配が憤怒の色に染まっていく。やがてぴきーん、と忍耐の糸が切れ、澪は憤怒の気配そのままに一つ頷いて、もう一歩勘右衛門に近付いた。
『ちんちんけったる』
 金的して起きない男はなかなかおるまい。しかも本気で蹴ってやる。これで飛び起きるか、もしくは悶絶して気絶するかだ。そうと決まればきちんと角度を確認して一回で決めてやる、と澪は勘右衛門にさらに近づき、閉じている勘右衛門の足を動かそうと手を伸ばした。
 そのとき、
「んー……? あれ、澪じゃん」
『ん』
 ようやくに目が覚めたのが、今まで蹴りたい放題しても熟睡したままだった勘右衛門が、ふわー、と欠伸混じりに目を開けた。その目が澪をとらえ、澪の指が怒鳴る前に、その手を掴んで自分のほうへと引いた。
『わ』
「なになになにー、澪夜這いにきてくれたの? あれ、じゃなくて澪が来てくれることになってたんだっけ? あれは夢だっけ? わかんないけどまあいいや、澪おいでおいで」
 未だ意識がはっきりしていないのか曖昧な口調で、勘右衛門は澪を引き倒して無理矢理に隣に寝かせる。
『ふざけんな、よくないわあほか』
「あーごめん澪、暗くてよく見えない、こっちこっちもっとくっついて、手繋ごうよ」
 じたばた暴れる澪を抱き込んで、勘右衛門は自分の指と澪の指を繋ぐ。
『きんたまつぶすぞこら』
「あれ、愛の言葉が聞こえると思ったんだけどなあ、ガラ悪いよ澪」
『だれのせいや、ぼこぼこにさせろ』
「んー、なんかすでにあちこち痛いんだけど、澪俺になんかした? 愛しすぎて暴力振る性癖?」
『ごまかすのもいいかげんにしろ、あやまるのがさきや』
「うんごめん、完全に寝てた」
 あっさりと認めて、勘右衛門はぎゅっと澪を抱き締める。おそらく暴れられないためだろう。澪の苛々は増すが、さすがに男の力に正攻法では敵わない。
『はなせ、おんなのてき』
「わくわくで準備しすぎて、布団敷き終えたところで緊張の糸が切れちゃってさー。最近忙しくて寝不足だったから」
『いいわけむよう、おんなのてきめ』
「ごめんよ澪ー、今日頑張るから許して」
『しるか、いつでもがんばれ』
「うんまあいつも頑張ってるけどさ」
 抱き締めていた腕の力を緩め、勘右衛門が澪と目を合わせて笑う。薄い光量の中お互いの顔がやっと視認できるほどの至近距離、じっとりと未だ怒りを湛えている澪に、断りなしに唇を重ねる。
 ぴくり、と勘右衛門と繋がれている澪の指が震える。
『こら、ごまかすな』
 唇を重ねたまま、澪の指の言葉を受けて、澪よりはずっとぎこちなく、勘右衛門の指も動く。
『ごまかされてくれない? あいしてるよ』
『おわったらあらためておこる』
『うん、いいよ。いくらでもおこられてあげる。ごめんね』
『ねたふりなんかしないで、はじめからすなおにあやまったらいいのに』
『うん、ごめんね』
 重ねた唇、繋がれた指はそのままに、もう片方の勘右衛門の手が枕元に伸び、灯りを消す。訪れた本当の闇の中、重ねた唇が少しずつ深いものになる。
『かんちゃんのばか』
『うん、たのしみにしててくれたのにごめん。でもあいしてるよ』
『たのしみになんかしてない』
『あいしてる』
 愛してる、愛してる、愛してる、と勘右衛門の指がゆっくりと同じ言葉を紡ぐ。
 静かな男子長屋、灯りもない、月明かりも届かない暗い部屋。勘右衛門の言葉を受けながら、澪は目を閉じた。



『あいしてる』
『あいしてるよ』


 終







『おかしちょーだい』
 突然勘右衛門の前に現われた澪は、スケッチブックに殴り書いた文字をぐいぐいと見せつけてきた。その汚い字を五秒ほど見つめてから、ようやく合点が行って「あー」と勘右衛門は声を上げる。
 澪が下げている紙袋には、これまで奪ってきたらしい菓子がたくさん入っていた。今まさに澪の頬がリスのように膨らんでいるのも、戦利品の一部を食べているからだろう。どうやらあちこちで強奪しているらしい。
「えーと。一応イタズラかお菓子か選べるんじゃなかったっけ?」
『イタズラがいいの? ならごきたいにそえて』
「すみません嘘ですやめてください」
 澪の指が紡ぐ言葉に、即座に謝った。放課後の食堂は、まだわりと生徒達で賑わっている。学生とはとにかく腹が空くもので、帰宅して晩飯を食べるまで待ちきれず、腹の虫を抑えるために帰宅前にも間食をしていく生徒達が多いからだ。
 まさに今雷蔵と二人、丼物を食べていた勘右衛門は、突然現われた強盗幼なじみに気づかれぬよう、心の中だけでため息を吐く。
『らいぞうもくれる?』
「呼ばれてるよ雷蔵」
「ん? 澪ちゃん、お菓子欲しいの? んーと、キットカットでもいいかな? さっき後輩にもらったんだ」
『くれるものならなんでもいい』
「いいってさ、雷蔵」
「じゃあ、はい」
 にこにこと雷蔵が差し出すキットカット(抹茶味)を、澪は嬉しそうに受け取って紙袋に入れる。ありがとう、と珍しく丁寧に雷蔵に口の形だけで感謝の言葉を告げると、一転、今度は黒い微笑みを浮かべて勘右衛門に向き直る。
『はい、つぎかんちゃんのばん。おかしちょーだい』
「え、えーと……その、俺ちょっと今日は持ち合わせがあんまり……」
『まいとしのことなのに、わすれたなんていわせない』
「いやー、毎年のことって言われてもさー。先週部活の道具買い換えたらこずかいがピンチで……あ、ほら、今度澪が好きなパイの実のファミリーパック買ってあげるからさ! だから今日は……ってちょっと、待って澪なにしてんの!?」
 勘右衛門の悲鳴もどこ吹く風、勘右衛門の言い訳を聞いてもいなかった澪は、堂々と勘右衛門の鞄を探り出した。ティッシュ、ハンカチ、持ち帰りの教科書、ノート、筆記具などをぽいぽい取り出す。げ、と勘右衛門が顔を青くさせたのと、澪がニタリと笑って鞄の奥からなにかを取り出したのは同時だった。
「あああああああああああああ見つかったああああああああ!」
『……ふふ、なにか様子がおかしいと思ったら、これはコンビニ限定、ただいま品切れ続きで入荷待ちが相次いでる極旨ショコラプリンじゃないですか……。私のためにありがとう』
「ち、違う! 俺が食べようと思って、コンビニバイトのやつに搬入時間を聞いて一時間前から待機して……あああー澪やめてえええ、せめて一口いいいいいい」
『あばよ勘ちゃん、ナイストリート!』
 勘右衛門の絶叫も何処吹く風、澪は愛おしそうな笑顔で極旨ショコラプリンを紙袋に大切に仕舞うと、ぱっと踵を返して食堂を出て行った。
「ぎゃああああああああああ俺のプリンーーーーー!」
『ふははははははははははは』
 澪の後ろ姿に叫ぶ勘右衛門に、澪は指文字で哄笑して去っていく。その姿が校舎に消えていったのを確認すると、「さて」と勘右衛門は急に平静に戻り、箸を取り上げて再び丼を食べ始める。あまりの変わり身の早さに、隣の雷蔵が苦笑する。
「勘ちゃんの愛情表現は時々よくわからないよね。もともと澪ちゃんのために買ったんでしょ? 普通にあげたらいいのに」
「うーん、でもさ、澪は嫌がる人間から無理矢理奪うほうが好きだからさ。盛り上げとこうと思って」
「あはは、それだけ聞くと澪ちゃんすごく嫌な子だよね」
「まあ否定もしないけどねー。あいつヤなやつだからね!」
「でもきっと澪ちゃんもそれ分かっててやってると思うよ? 毎年のことなんでしょ?」
「いや、あいつは俺のものならなんでも自分のだと思ってるんだよ」
「二人とも素直じゃないなあ、もっと…………、あ」
 笑っていた雷蔵の顔が、突然にぴきんと固まった。さあ、と青ざめていく雷蔵の様子に、勘右衛門も不思議に思って雷蔵の視線の先に顔を向け、そして、……さあ、と同じく血の気が引いていく。
 二人の視線の先には、澪ではない、もっと恐ろしいものがいた。二人の一つ年上の先輩が、にい、と笑って二人を見ている。もはや獲物を見る目つきだ。
 恐ろしくて動けないでいる後輩二人に、その恐ろしいものはずかずかと後ろに回り、がっしりと二人の肩に手を置いた。そして、真ん中から二人の顔を交互に覗き込む。
「……いいもん食ってんな二人とも。ハロウィンだし、イタズラされたくなかったら私に寄越せ、な?」
 七松小平太。飢えた野獣のトリックオアトリートに、勘右衛門と雷蔵は即座に自分の丼を差し出した。
『どうぞ』
「ありがとな! いやー、私腹減っててさ! 牛丼と親子丼交互に食うのってわりとうまいな!!!! ハロウィン最高だなーーーーーーー!」
 ハロウィンという日を『イタズラか食い物か』と問えばなにをしても全て許される日だと勘違いしている野獣に間食を奪われ、勘右衛門と雷蔵は今度は堂々と深い溜め息を吐いた。

 
 おわる






 目が覚めた瞬間、自分が泣いていることに気づいた。闇の中まだ慣れない目から、瞬きを繰り返すたびにぼろぼろと涙が零れていく。潰されそうな不安の中、震える手で掴んだのは、隣に眠るひとの体温。まだおぼろげな視界の中、その温もりに引き寄せられるようにして身を寄せた。
「……先輩?」
 すがりついて静かに泣いていたら、戸惑った声が落ちてきた。確認するような手つきで私の頬を撫でて、涙に気づくと抱き寄せてくれた。その身体で私の全部包み込むように。温かさが一層広がって、私は安堵にまた泣いた。
「どうしたんですか」
「わ、かんない……こ、こわい」
 嫌な夢を見ていたのか、それとも違う理由なのか、自分でもよく分からない。ただ全身を巡る黒い感情に支配されてしまいそうで、そうなりたくなくて、作兵衛の身体にすがりつく。
「……大丈夫ですよ」
 そっと頭を撫でながら、耳元で声をかけてくれる。優しい声音。
「さ、く……」
「大丈夫です。俺がいますよ」
 落ち着かせるように繰り返してくれる、その言葉に少しずつ不安が消えていく。身体の震えと冷や汗も、ゆっくりと引いた。

 なにが怖いのか分からないけれど、私は時折夜中に飛び起きる。特に作が一緒にいるときに多い。初め驚いていた作も、最近は慣れてくれて優しく対処してくれるようになった。
 作は怒っていないのだろうか。こんな面倒くさい女。嫌にならないのだろうか。

「先輩って泣き虫ですよね」
 私の目尻を拭いながら、作が笑う。闇に慣れた目は、そのからかうような瞳もよく見えた。
「……ちがうよ」
「泣き虫ですよ。俺と夜一緒にいるときは何度も泣いてますよ、先輩。……意味は違うけど」
「作が無茶するからでしょう!」
「先輩が可愛いからです」
 悪びれなくぎゅうっと私を抱き締めてくれる腕は、二つ下とは思えない頼りがいのある強い力。ようやくに不安が消えて、まともにものが考えられるようになる。
「作は、私が嫌にならない?」
「先輩はときどきわけのわからないことを言いますね」
「だって」
「俺、言いましたよね。先輩の変なところ含めて好きですって」
「変って」
「俺にすがりついて泣いてくれるのなんて嬉しいじゃないですか。よっぽど普段のぼーーーーっとしてるところのほうが不安になりますよ」
「……そう?」
「はい」




 本当は俺こそ先輩に嫌がられないかと不安になる。
 先輩はよく泣く。俺の隣で。それはとても嬉しいけど、止められない自分に腹が立つ。
 なにが不安なのか。本当は俺とこうしたくないんじゃないかって。

「作」
「はい」
「作のこと好きだよ」
「…………ちょっと悔しいけど俺のほうがずっと好きです」
「そんなことないよ」
「ありますよ」

 ねえ先輩。俺の側にいてください。泣いていい。変でいいから。

「どっか行ったりしないでください」

 そうなったら俺が泣く番だから。










「なぁ、なんであいつら逃げ出すんだろうな。そんなにあの飼育小屋居心地悪いのかな」

 はーーーーー、と虫かごと網を持ったまま、八がしょんぼり肩を落とす。

「きっと隙間があったら出て行きたくなっちゃうんだよ。八のせいじゃないよ」
「でもなぁ、これでもう何回目……え、何十回目? 何百回目? とかそういう単位だぞ。正直疲れた」
「はーち……大丈夫だよ」

 いつもは何に対しても明るいのに、八は今日はげんなりとため息を吐いている。
 三日くらい前から脱走続きで東奔西走しているから、仕方ないだろうけど。

「八はいつも頑張ってて偉いと思うよ?」
「あー……優しくされたら逃げたくなる」
「逃げてもいいよって言ってあげられなくてごめんね」
「…………あ、ちょっと待った。今もしかして俺すげえかっこわるい?」

 がばっと顔を上げて、八は私の顔を見る。私は首を横に振ったけど、八は「うあーー」と頭を抱えて苦悩した。

「いやかっこわるいってすごいかっこわるいって、上級生なのに委員の仕事から逃げたいとか愚痴って、しかも好きな奴の前で!! しかも慰められてた! …………ごめん」
「かっこ悪くないってば、八」
「ちくしょーごめんな……俺さ、お前の前では絶対すげえいい男になるって決めてたんだ」

 真顔で言われて、私は目を見開いた。……今の八が一番かっこいいけど。

「……八はかっこいいし、男前だよ?」
「だってさ、お前は俺のことを選んでくれたわけだろ? なら絶対後悔させねー、お前にとって俺が一番いい男になるって決めたんだ」
「…………」

 恥ずかしいことを真顔で次々口に出されて、こっちのほうが真っ赤になった。

「だから八はかっこいいよ」
「慰めはさらに落ち込む……あーごめんなこんなんで。でも努力するから。俺、ぜってーお前に惚れられるようにするから!」
「私は八にもう惚れてるよ」

 困って言うと、八はちょっと照れた顔をした。でも信じてないんだろう。笑って流そうとする。
 八は私が好きだと言ってくれて、いろいろあって私は八が好きになって、だからこうして一緒にいるのに。

「ねえ八。私は八のことが好きよ?」
「ん……」
「八はかっこいいけど、私の前で嘘をつかれるのはもっと嫌だよ。弱音も吐いて欲しいし愚痴って欲しいし、辛いときは一緒にいたいよ」
「……かっこ悪くてもか」
「八は、私が八にそうしたら、可愛くないって思う?」

 ちょっと卑怯かなと思ったけど、そう言ってしまう。八は眉をひそめて、言われたことが分からん、という顔をする。

「はあ? お前はなにしててもすげー可愛いだろ、なに言ってんだ」
「……そこまで言ってくれると思わなかった」
「よし、俺もっとかっこよくなるからな! だからそのときは!」

 私の言葉をやっぱりちゃんと聞かないで、八は照れくさそうに笑ってなにかを言いかける。先回りして、私は頷いた。幸せだな、と思いながら。

「うん。そのときは、八のお嫁さんにしてね?」


 終








「あの……私、し、しばらく、その、二人のお部屋には行けないと思うの」
「……ふうん?」
 兵ちゃんの視線から逃れたくて、私はつい俯きがちになってしまう。けれど兵ちゃんは特になんとも思わなかったのか、軽く小首を傾げた。
「なに、難しい実習でもあるの?」
「あ、うん、それもあるし、最近、外出時に帰りが遅い子が増えてね。それで、規約はちゃんと守るようにって委員長委員会の子が……」
 それは嘘じゃないから、兵ちゃんも不審には思わないと思う。今まで暗黙の了解で私が男子寮に行くのも誰もが見逃してくれたけど、本当は異性の寮に行くことすら禁止なのだから。
「だから、えと、三ちゃんにもそう伝えてくれる、かな」
「……あ、そう」
 相変わらず俯きがちに、ちらちら見上げる私を、兵ちゃんは表情を変えずに小さく嘆息した。否、とも応、ともつかない返事。だけどとりあえず、明確な拒否ではなかったと思う。
「つ、次、移動授業だから、またね」
「………………」
「じゃあね、兵ちゃん」
 なにか、兵ちゃんが言おうとしたように微かに唇が動いた気がした。けれど結局兵ちゃんはなにも言わず、私も特に追求はせず、踵を返して兵ちゃんに背を向けた。
「ちょっと澪」
 その途端、肩に置かれた手に突然に振り向かされた。目前に兵ちゃんの顔があって、驚いて声も出せなかった。兵ちゃんは相変わらずいつもの顔で、じっと私を見た。
「な、なに……?」
 その視線がすべて見透かしている気がして、私は腕の中の筆記用具をぎゅっと抱き締める。昔から兵ちゃんは聡い。口は悪いけど行動は親切だし、特に身内にとても優しい。だから、……気づかれて、しまうかな、と。
「……兵ちゃん、なに?」
「…………僕が気づかないとでも思ったの?」
「え?」
 ぽつりと呟かれた声が聞こえず聞き返したけど、兵ちゃんはすっと手を引いた。そしてもう私を見もせず、兵ちゃんが私に背を向けて去っていく。私がさっきそうしようとしたように。
 ぼうっと、その背中が去っていくのを見つめる。怒っちゃったのだろうか。やっぱり私の嘘に気づいてしまったのだろうか。だって兵ちゃん、賢いから。私よりずっと賢いから。

 でも本当のことは言えない。だってあの子と約束した。……絶対に言わない、と。

「…………」

 心がもやもやする。もやもやするけど、これしか方法はなかったんだ。そう自分に言い聞かせて、私は改めて踵を返す。兵ちゃんが去って行ったのと反対方向、女子寮へと歩き出した。





 後から考えてみれば、すべての始まりはその夜だった。
 
 もうすぐ新入生歓迎会なんだ、とキラキラした瞳で澪が設計図と道具箱を抱えて、僕達の部屋にやってきた。
 長く続いていた学期末の試験が落ち着き、久方ぶりに明日は休みで、生徒達は誰もが浮かれていた。外出届を取って夕方から町に遊びに行く者、実家に戻る者、ひたすら自室でごろごろする者、友達同士誘い合って自主練する者、溜まり溜まった洗濯と掃除に精を出す者、趣味に没頭する者と、休日前夜の過ごし方は様々だけど、僕と三治郎、そして澪の過ごし方はほとんど決まっている。ひたすらにカラクリを作って過ごすのだ。
 僕と三治郎の部屋は学園内でも自他ともに認めるカラクリ部屋で、その中も外もカラクリの試作品でいっぱいだ。休前日には同じくカラクリが好きな澪も加えて夜中や時には朝までカラクリを作るのが、僕達のここ何年も続いてる習慣だった。
 そのときの澪はいつもと変わりなかった。前に富松先輩に作ってもらった製図机の上に設計図を広げ、今度入る新入生を生かさず殺さず怪我をさせず、しかしくの一教室の恐怖を植え付けるカラクリ案を次々に僕に披露していた。僕も僕で後輩達を痛めつけるのは心が痛むけれどまあこれも通過儀礼だから、と、澪の出した案をここはこうしたほうが恐怖心が増す、と助言していた。
 そう、そこまでは特にいつもと変わりがなかった。
 おかしかったのは三治郎だ。
「兵ちゃん、この間釣り天井に改良を加えてみたって言ってたじゃない? それ詳しく教えてもらえないかな?」
 設計図に細かな改良点を書き込みながら、澪が僕の顔を見上げる。憎からず思う相手に近い距離にいられるのは正直嬉しいような複雑のような感じだけど、まあ、役得には違いないし、僕は表情を装うのが上手かった。
「うーん、でもあれ本格的な対忍者用だったから新入生には危なすぎるよ。ああ、でも先丸めとけば大丈夫かもね」
「設計図見せてもらってもいい? 参考にさせてもらいたんだけど」
「いいけど、どこにあるか分かんないよ。ねぇちょっと三治郎、押し入れの設計図入れにさー……。おーい、三治郎?」
 いつもなら一緒に設計図を覗き込んでいるはずの三治郎が、今日は少し離れた場所でぼんやりと空中を眺めていた。声をかけた僕にも気づいていないようだ。
 澪は不思議そうに首を傾げ、僕は一つため息を吐いた。今日は、ではない。三治郎がおかしいのはここ十日ほどずっとだった。澪が来ているから多少はましになるかと思いきや、全然そんなことはなかったみたいだ。
「……おい、三治郎。三治郎ってば」
 普段なら確実に聞こえるだろう呼びかけにも、三治郎はぽけーと空中を見上げている。壁に背を預け、手は一応カラクリ用の工具を握っているけれど、僕が知る限りその手は半刻ほどまったく動いていなかった。
「……三ちゃんどうかしたの? 来たときからぼーっとしてたけど」
 さすがにあからさまに変な三治郎の様子に、澪が僕に顔を近づけて小声で耳打ちする。内心少し動揺していたけど、平静を装って小声で返した。
「最近ずっとあの調子でさ。全然反応しないんだよね」
「なにか悩み事でもあるの?」
 心配そうな視線を三治郎に向ける澪に、僕はもう一度大きくため息を吐いて立ち上がる。三治郎の前まで足を運んで、確実に視界に入るように上から見下ろした。
「ねえ、三治郎ってば」
「…………あ、兵太夫。どうかした?」
 そこまでするとさすがに気づいたらしく、三治郎はぽけーっと僕を見上げてくる。
「あのさ、設計図入れのことなんだけど」
「三ちゃん、どうかしたの? 体調でも悪いの?」
 僕が喋るのを遮って、いつの間にか隣に来ていた澪が三治郎の顔を覗き込んでいた。三治郎はじっと僕と澪に視線を向けると「ねえ二人とも」とぽつりと言った。なんだか夢を見ているような瞳で。
「人生ってさ、難しいよね…………」
 なんだか感慨深そうに言うと、それきりまた口を閉じてしまう。
 澪はぱちぱちと目を瞬かせると、ゆっくり僕を振り向いた。そして、首を傾げる。
「……三ちゃん、本当にどうかしたの……?」
「あーうん。……なんかさ」

 恋してるんだってさ。

 僕の言葉に、澪がまんまるに目を見開いた。



「僕ね、今まで女の子は可愛いとしか思ってなかったんだよね」
 聞いてもいないのに三治郎が話し出したのは、僕と澪が一通り設計図の改良を終え、一休みにお茶を飲もうと机を片付けていたときだった。それまで約一刻ほど、ずっと空中を見上げるだけだった三治郎が、のそのそとやってきて僕達の前に正座して、いきなり発した言葉がそれだ。
 僕は何度も聞いた話しだったので無視しようかと思ったけれど、澪は興味津々だった。手土産に持ってきた手製のかりんとう(くの一教室の実習で作ったらしい)とお茶を三治郎にも勧め、身を乗り出して話の続きを待っている。
 相変わらず三治郎は夢をみているようなぼんやりした瞳で、ぽつりぽつりと話し出した。
「女の子ってみんな誰も同じくらい可愛いしさ、そりゃ性格は多少違うけど、僕達男とは違って触ったら柔らかいし温かいし、僕、女の子はみんな好きだったんだよね」
「うんうん」
 三治郎のただの女たらし発言にも、澪は素直に相槌を打っている。
「でもね、この間気づいちゃったんだ。今までもずっと仲良くしてた女の子なんだけど、なんだかこの間会ったときに、ほんとに特別なことはなかったのに、ふいに『僕この子大好きだな』って思ったんだよね」
「うんうんうんうん!?」
 目を輝かせて、澪がますます身を乗り出して相づちを打っている。僕は机に肘をつきながら、ぽりぽりとかりんとうを食べていた。
「今までも仲良くしてた子で、普通に話したり二人で出掛けたりしてたのに、なんだかそれから、一緒にいるとなんにも上手く出来なくなったんだ。話しかけることすら、どきどきして」
「わあ、恋草子みたい!」
 そりゃ僕や澪相手でもへにょへにょなんだから当たり前でしょ、と思ったけれど、澪はきゃあっと悲鳴のような歓声を上げた。女子って自分に関係なくてもコイバナ好きだよね。
「それでもうどうしていいか分からなくて、なんにも手につかなくてさ。僕、その子に恋してると思うんだけど、たぶん僕恋って初めてなんだよね。こんな気持ちどうしていいか分からないんだ」
「三ちゃん初恋なの!? わあわあ、素敵だねー!」
 ぱちんと両手を叩き合わせ、澪が嬉しそうに頬を赤く染めている。別に恋なんて素敵じゃないけどね、と言う言葉はさすがにかりんとうと共に飲み込んだ。
「ねえ、澪ちゃんは恋ってしたことある?」
 びくっとついその三治郎の問いに反応してしまったけれど、すぐに三治郎は続けて問いを変えた。
「僕、どうしたらいいと思う?」
「告白したらいいと思うよ!」
 ぐっと二つ握り拳をつくり、澪は即座に答えた。澪は一度目の質問は耳にも入っていなかったようだ。
 ま、そんなもんだよね。
 正直控え目に言っても、僕が澪を憎からず思うようになってから、三年以上は経っている。三治郎とは年季が違うんだよ、年季がさ。
「告白……告白するの……?」
「今までも仲良かったんでしょ!? だったら大丈夫だよ! 三ちゃんがその子に、大好きです恋仲になってくださいって言ったら、きっと相手も頷いてくれるよ」
 びくう、と三治郎が反応した。今までぼんやりしていたのとは一変した、しゃっきりした顔だった。
「でででででも澪ちゃん、もしその子に断わられたら」
「そのときはそのときだよ! それとも三ちゃん、断わられる気がしてるの?」
「い、いや、その、分からないよ。き、嫌われてないかなってのは思うけど、でも、もしかしたら好きなひといるかもしれないし……」
「だから、それは聞いてみないと分からないよ! 三ちゃんその子のこと好きなんでしょ?」
「え、う、うん……。もう最近いろいろ考えすぎてさ、もしその子が望むなら、実家捨てて婿養子になってもいいかなって思ってるくらい好き」
「いくらなんでも飛躍しすぎだよね。告白してから考えろって感じだよね」
 僕のツッコミを聞いてくれるひとは、この場には誰もいなかった。まったく、ここ最近の三治郎の面倒くささは半端なかった。恋だ愛だといきなり言いだし、兵ちゃん僕恋しすぎて死ぬとか、絶対死なないことを訴えてくるわ、一番厄介だったのは『兵ちゃんだって澪ちゃん好きでしょ!相談に乗ってよ!』とか言われることだ。心の底から面倒くさい。
「三ちゃんの気持ちも分かるよ! もし断わられるくらいだったら、お友達のままのほうがいいかなって思うよね」
「そう、そうなんだよね……! 僕が告白したことで気まずくなって、話したり出掛けたり出来なくなったら、そのほうがすごく辛いんだよ……!」
「ああ、三ちゃん恋してるんだね……切ないね……!」
「切ないよ澪ちゃん! 今までからかってごめんね兵太夫、恋って辛いんだね!」
「うるさいよ!」
「兵ちゃん、誰かに恋してるの?」
「このかりんとうまあまあだね、澪」
「ほんと!? 褒めてくれるなんて珍しいね、嬉しいなー。ハッ、三ちゃん!? そういえばお相手は!? 誰が好きなの!?」
「ちょっ、やめてよ澪ちゃん、好きとか言われるともう胸がどきどきして仕方ないんだよ! 恥ずかしいから!」
「えー、教えてよ三ちゃん! 私もお手伝い出来るかもしれないし! ね!?」
「えー! でもほんと考えただけで心臓ばくぱくしてしょうがなくて……! 恋って辛いんだね!」
 女子会か。
 とりあえず矛先が変わったのでほっとしつつ、僕は相変わらず会話には入らずにかりんとうをぽりぽり食べていた(嘘じゃなくてわりて美味しかった)
 まるっきり蚊帳の外の僕を置いて、二人はきゃっきゃと盛り上がっている。正直言うと、僕は特別三治郎の恋路には興味はない。神妙な顔で相談してきたならともかく、ことあるごとに澪を持ち出して来るのが気に食わないし、最初は少し力になってやろうかと思っていたけどものすごくうざいし、なにより本当のことを言ってしまうと、三治郎の想い人は三治郎のことが好きなのだ。ほうっておけば勝手にくっつくのにあーだこーだ悩みまくって、これほどつまらない他人の恋路もない。
「でもね澪ちゃん、僕本当に怖いんだ。あの子と恋仲になれたら幸せだよ。でも、そうじゃなかったら、もし僕以外に好きなひとがいたら、僕はどうしていいか分からないんだ。きっと、すごく辛いから」
「そうだね、三ちゃんの気持ち、分かるよ。好きなひとには、自分を好きになって欲しいよね」
 ああ、そうだね。
 少し真面目な二人の声音に、僕も口には出さずに同意する。
 好きなひとには、自分を好きになって欲しい。当たり前だ。当たり前だけど、たぶんそれは難しいことなんだろう。

 ──三ちゃんも兵ちゃんも、大好きだよ

 口の中のかりんとうが、甘く沁みる。
 認めるのは少し癪だけど、僕は澪が好きだ。自覚して長い。三治郎も呆れるほどだった。そしてそれが澪に届いていないことも、たぶんは組なら誰でも知っているだろう。
 このままでいいと思ったことは一度もない。出来るならもっと傍にいて、恋仲らしいことがしたい。けれど澪に恋をして長すぎた僕は、その恋心を隠す術も上手くなった。少し仲の良い男女という位置付けでしかない。

 本当は僕だって分かっている。

 澪に男としての意識なんて欠片もされていない。嫌われてはいないだろう。親愛の情はあるはずだ。けれどそれだけ、それ以上じゃない。
 時折こうして澪は僕と三治郎の部屋にやってくる。通りすがりに会話を交わせる。たまには、手を触れることも出来る。それで満足かと言われたら、そんなことは決してないと言えるのに。

「……もし告白して、嫌われたらどうしよう。……澪ちゃん、僕ね、それが怖いんだよ」

 でも三治郎、お前は告白すれば叶うんだから、とっととそうしてしまえばいいよ。
 叶わない僕と違ってさ。

 腹が立つから決して口にはしない言葉を、僕はやっぱりかりんとうと共に飲み込んだ。その甘さと、少しの苦さと一緒に。








 いい加減文次郎が鬱陶しい、と仙蔵は思う。
 夕食も終わった自由時間。普段ならばとっととギンギンに自主練に向かっているか会計委員室でギンギンに帳簿をつけているか、はたまた自室でギンギンに帳簿をつけている同部屋の生徒が、今自室で文机に向かって頬杖をついたきりただじっとしているのだ。読書してるわけでもない、瞑想しているわけでもない、精神統一しているわけでもないのは、たまにため息を吐いたり頭をかきむしったりしていることから明らかだ。
 普段全ての事柄を『ギンギン』と『鍛錬』で済ませるこの男には珍しく、どうもなにかを悩んでいるらしい。
 悩んでいるだけならばたまにはまともなことに頭を使えばいいと放っておくところだが、それも一刻も過ぎると見ているこっちが苛々してくる。あーだのうーだのため息だの、いい加減火薬の調合をしている仙蔵も堪忍袋の緒が切れそうだ。
 うるさいいい加減にしろそんなに悩みたいならいつも慣れている通りに池の中でやれ、とキレて文次郎を外に叩き出そうとしたその少し前に、文次郎が急にがばりと顔を上げた。やっと終わったかとやれやれと仙蔵が安堵しかけた瞬間、くるりと仙蔵を振り向く。そして唐突に、開口一番。
「仙蔵。俺はそんなに軽い男か?」
「……あ?」
「あー、だから、その、だな。女と見ては声をかけて遊んですぐに捨てて責任も取らないような、そんな男に見えるかと聞いてるんだ」
「………………はあ?」
思わず間の抜けた声を出したが、文次郎は真剣な顔つきだ。一度、二度瞬きをして、仙蔵は頷く。
「……そうだな。確かにお前は、忍者の三禁だと思いつつ欲に抗えず仕方なしに商売女を買ったはいいが、一年後にその商売女に『あなたの子を妊娠した、責任とって夫婦にしてほしい』と言われて即座に承諾するほどには軽い男だな。ああ、確かにお前は軽い」
「…………そうか。俺はやはり軽い男なのか」
「冗談も通じんのか貴様は。私の言った言葉を聞いていないだろう」
 どうやら相当参っているらしい。
「……や、その、な。……その」
「貴様が口ごもっていても欠片も愛らしくないからな、とっとと言え隈」
「その、女子生徒と見れば手を出すような軽い軟派な男に見えるか、と……」
「少し不憫に思ってきたからな、正直に答えてやろう。貴様ほど固くて融通の利かん男など私は知らん。学年一頭の固い男だろうよ」
「……そうか」
「で、誰の責任をとるんだ?」
 話の流れからそういうことなのだろう。しかし文次郎は、途端に会話を締めようとした。
「…………いや、もういい。それならいいんだ。俺は軽い男なんぞ大嫌いなんだが、そんな男だったのかと反省していたところだ」
「なるほど。確かにお前は軽い男だからな」
「どっちだ!」
「私は知らん。お前がそう悩んでいるのが証拠だろうが、軽い男」
「う……う…………そ、そうか……」
 適当に言った仙蔵の言葉に反論すらもないらしい。これは相当に重症だ。
 はあ、と大きな大きなため息が聞こえる。普段の姿を知っている身としては大変気色悪く、見るに堪えない。
 なんだか知らんが面白いことにはなりそうにないな、と仙蔵は眉をひそめ、とりあえず自分が部屋を出て行くことにした。




「…………」
「澪、どうしたの? 枕抱っこして寝っ転がって」
 ごろごろごろごろ部屋の端から端まで転がって、壁にぶつかってようやく止まる。くるり、と澪は自分を呼んだ同室の友達を振り返り、枕を抱き締めたままにへらっと笑う。
「……幸せを噛みしめているのよ」
「そうなの?」
「そうなの。幸せなの」
 ごろりごろりと転がる澪を、友達は不思議そうな目で追う。わー、きゃー、と澪は一人で小さな奇声を上げ、ますますごろんごろんと転がり続ける。
 なるほど幸せでいっぱいなのだろうと友達は思い、そっと立ち上がって部屋を出る。ぱたんと部屋の戸がしまり、ますますごろごろと幸せを噛みしめながら、澪はふいにぴたりと止まってゆっくりと息を吐く。ぼんやりと、どこでもないところに視線を向けながら。

「……私はこれで幸せなの」

 ぽつりと呟いて、またごろんごろんと転がり始めた。




 なぜこんなにも苛々するのだろうか。
 腹の底からどうしようもなく慟哭が生まれては消え、消えては生まれていく。
 なにがこんなにも納得出来ないのか。どうして忘れてしまえないのか。




 仙蔵が部屋に戻ると、文次郎は未だにうんうんと悩んでいた。
「まーだうじうじしているのか、この木偶の坊が」
「……うるせえよ」
 反論の声も甚だ小さい。このまま放っておくのも鬱陶しいばかりだ。いい加減我慢ならなくなって、仙蔵はぴしゃりと文次郎に言った。
「阿呆のように悩んでいないでとっととなんとかしたらどうだ。貴様が時間をどう使おうが勝手だが、私の時間まで食いつぶされるのは我慢ならん」
「は? お前には迷惑かけてねぇだろうが」
「そうまで言うなら池で悩んでこい! 私が同室だということを忘れるな!」
 はあ、と嘆息する。文次郎は相変わらず憔悴しきった様子だ。一応授業にもきちんと出ているし委員会もこなしているらしいが、このままではいつか限界が来るだろう。
「凄まじく遺憾だが、このままでは私の安寧な学生生活は望めない。凄まじく遺憾だが、とっととなにに悩んでいるか吐け。たちどころに一刀両断してやる」
「お前は上から目線というより神目線だなもう」
「どうなんだ。池で悩むか私に言うかどちらかにしろ鬱陶しい」
 うるさいお前なんぞにどうして俺の悩みを言わなくちゃならないんだと反論が来るかと思ったが、意外にも文次郎ははたと黙り込んだ。むむむ、となにかとなにかを天秤にかけるように、眉をひそめて熟考している。
 なるほどこれは相当重症だ。相当面倒かもしれない、と仙蔵は半分ヤケになって腹をくくった。
「その……ええとな……」
 相変わらず歯切れ悪く、それでもぼそりぼそりと文次郎が言うことをつなぎ合わせてみると、大体こういうことになった。
 女の名前は言えないが、とにかくこの間とある女と寝たらしい。ほとんど成り行きのようなものであったのは確かだが、別れ際に女が『大したことじゃないから忘れろ』と言ったらしい。
 それだけだ。
「なんだそれは、楽でいいではないか。責任を取れとか無理矢理だったと後から言う女よりよほどよい」
「そうじゃねえよ。だからだな、成り行きだろうがなんだろうが、はなから俺が軽い男で責任を止るつもりもくそもないと思われてるってことじゃねーか。俺はそんな男じゃねえよ」
「……先ほども言ったが別にかまわんだろう。その様子では吹聴する風でもないし、お前はなにをそう悩んでいるんだ。それともなんだ、三禁を犯したことを悔いているのか」
「あ? ……いや、そういうわけでもないが」
 色に溺れたわけじゃねえしなどとぶつぶつ言っていたが、まあそれはそれで思い当たるふしがないわけでもないのだろう。どっちにしてもやはり面白いことではなかった、と仙蔵は嘆息する。
 つまりだ、と仙蔵は見抜く。つまりこの木偶の坊はその女に未練があって、それきりにしたくないのだ。しかしそれをまったく理解していないから、とにかく別の理由で悩んでみているのだろう。
「……阿呆が」
「あ!? いきなりなんだ貴様!」
「阿呆だから阿呆だと言ったんだ。気色悪さが五倍にもなった。責任をとれ」
「てめえが話せと言ったんだろうが!」
 それはそうだが、ここまで気色悪いとは想像していない。仙蔵はしばし考え、それからちらちらと仙蔵を覗っている(つまり一応助言を期待しているのだ)文次郎に、ずい、と人差し指を突き出した。
「……つまり文次郎、いいか。貴様は女心を理解していないのだ」
「……俺が理解できるわけがないだろうが」
「至極もっともだしお前が女心を理解していたら逆に気色悪いがつまりそういうことだ。お前は圧倒的に女心に理解がない」
「むう」
 そんなことねぇよ理解しまくりだ、とは言えまい。
「つまり……それならその、どうすればいい」
 よっぽどその女に未練があるのだろう、そんなことまで文次郎は聞いてきた。仙蔵は一つ頷くと、即答した。
「恋愛草子だ」
「……は?」
「草子でも絵巻でもなんでもいい。とにかく女子が好きな恋愛物語を読みまくれ。これで少しは違うはずだ。お前がいうその女子の考えていることも分かるだろう」
 真剣な顔で言ってやると、文次郎はむむむと眉をひそめて考え込んだ。
「……あの女がそんなもん読んでいるとは思えんが」
「その女子が読んでいようがいまいが、女心を男が理解するにあたって一番手っ取り早いものがそれだ。別に信じなくともかまわんが、女装の授業で習っただろう。基本的に男の脳と女は違うのだ。理解しようとするとどちらかが歩み寄らねばならない、とな」
 無駄に真面目な男だから、一応その授業も覚えているだろう。事実文次郎はむうと押し黙る。
 そして、
「……分かった。行ってくる」
 苦虫を噛み潰したような顔で、文次郎はとことん仕方なさげに立ち上がる。足取りは重いが一度も止めることなく振り返ることなく、文次郎はい組の部屋を出て図書室へと向かっていった。
 その様子を無言で見送っていた仙蔵は、文次郎の気配が消えてからぽそりと呟いた。まさか今起こったことは現実だろうか、と自分の目を疑いながら。
「正気かあいつ」




 非常に機嫌が悪そうな文次郎が現われたのは、利用者も少なくなり、そろそろ図書室を閉めようか、と図書委員達が動き出した頃だった。文次郎は無言でずんずんと図書室内を進み、図書委員の下級生や利用者が怯えるのも構わずに、もの凄い形相で図書室の奥、長次の元へと向かう。
 じ、と文次郎に目で「なんだ」と問う長次に、文次郎は真剣な瞳で一言。
「恋草子と恋絵巻を全部貸してくれ」
「…………すまない。もう一度言ってくれ」
「この図書室内にある恋草子と恋絵巻を全て貸してくれと言ったんだ」
 真顔で相対しているのは長次だけで、隣の雷蔵は目が飛び出さんばかりに見開いて固まっているし、きり丸はあんぐりと口を開けている。
「……どんな内容がいい」
「なんでもいい。女子どもが喜びそうなもの全て貸してくれ。返却期限には必ず返す」
「…………」
 長次は立ち上がると、本を何十冊も取ってきた。雷蔵に小さく指示し、雷蔵も慌てて書庫へと向かっていく。
「今の在庫と、新しく入ったものだ。……返却期限は守れ」
「分かっている。恩に着る」
 苛立った様子ながらきちんと礼をして、文次郎はしっかりと本を抱えて図書室を出て行く。まだ唖然とその姿を見送る雷蔵ときり丸が、「……なにかの実習でしょうか」「あ、ああ、そうだね。きっと実習課題とかだろうね」と、なんとか今見た事態に納得の行く理由をつけようとしている二人の隣で、そうでないことを知っている長次はぽつりと呟いた。仙蔵と同じ抑揚、同じ言葉を。
「……正気かあいつ」






 ごっそりなくなっている。
 恋愛小説の棚だけ、ごっそり。そこだけただ今整理中です、と言うように。
「……ねえ中在家、恋草子の」
「貸し出し中だ」
 みなまで言わぬまでも、長次はぽつりと答える。虫食い文書の作業から目を離さずに。
「あの、新刊も」
「貸し出し中だ」
「……予約は出来る?」
 無言で予約用紙を手渡されたので、題名と名前を書いて返すと、こくりと長次が頷く。戻ってきたら伝える、と目で言い、また作業に戻った。
 元々中在家はとても寡黙で必要なこと以外は話さない。そもそも澪とは同年とはいえ図書室でしか顔を合わせないし、仲の良いも悪いもない、ただの顔見知りだ。だから長次が素っ気ない態度なのは当たり前なのだが。
 が。
 それでもどこか不可解を感じ、澪は無言で踵を返す。長次がなんとなく、「なにも聞くな」と言っているように思えたからだ。たぶんなにか訳ありなのだろう。学園長先生あたりがなにか無茶を言ったのか、滝夜叉丸あたりが「私以外を美と崇める書物など必要ありません」とか言ってずっと借り受ける算段でも持っているのか、とりあえずなにかはあったのだろう。
「……楽しみにしてたのな」
 今回の新刊は、すれ違っていた恋人同士が周囲の助けも借りてお互いの本当の愛に気づき、今まで以上に強い絆で結ばれる話しだ。
 すごく読みたかったのに。
 ぽつりと呟き、澪はとぼとぼと自室に戻って行った。






 どこが好きなのか、と問われたらいくらでも挙げることが出来たと思う。
 けれど、どうして好きなのか、と問われたら答えに迷う。
 そうしてたぶん考えた末にこう言うだろう。面白みもない当たり前の答え。
 好きだから、好きなのだ。と。

 そしてその願いが叶わないことを知っている。だから私は、このままでいい。
 ずっと、このままで。思い出を抱いたままで。

 



「そうじゃない。違う」
「……なにが違うのよ」

 違うんだ、が。
 本当に違うんだが、なにが違うのかと言えない。
 女を抱いた経験がなかったわけじゃない。相手は大抵商売女か一度きりだったけれど、その分欲を解消するための身体の重ね方もよく知っている。
 けれど名を呼ぶ声も、ねだる声も、必死にしがみつく身体も、これ以上ないというほどに酔ったのはなぜか。
 女に対して、悦ばせたいと初めて思った。
 言葉に出来ない衝動の熱をよく覚えている。

 けれど、それの理由が分からない。
 俺がこいつを好いていたということがあれば別だろう。
 そう思ったことは一度もない。俺は確かにこいつが嫌いじゃなくて、でも少し苦手で、それでもやはり嫌いではなかった。
 傍にいられると調子が狂う。

 ああ、俺は、こいつが可愛いと思ったんだ。
 可愛くて、どうせなら全部俺のものであればいいと思ったんだ。

「──忘れてって言ったでしょう。迷惑なのよ。なにを今更」

 冷たい瞳だった。さすがにここまで敵対心を持たれたのは初めてかもしれないなと、ぼんやりと思う。
 仲が良くはなかった。別に仲が悪いわけではなかった。そこそこの接点しかないと、この間まではそう思っていたのだが。
「少しでいいから聞いてくれ。これでも一晩考えたんだ」
「謝ったら怒るから」
「ん?」
「責任、とか言いだしたら、殴るから」
「……言わねぇよ、たぶん」
「たぶんって、なによ」
 お前が望むなら使ってもいい。そう、仙蔵のように素直に伝えることが出来れば、良かったのかもしれないが。




「……私がいつからあなたのことを好きになったのか、分かる?」
「……いや、分からん」
「一年生」
「は?」
「そう、きっと一目惚れだった。それからずっと好きだった。今までずっと、今もずっと。文次郎に見てもらえるように頑張って綺麗になろうとした。成績も良いように努力した。文次郎ならそのほうが好きだと思って、くの一になろうとも決めたの」
 ……なに言ってんだ、こいつ。なんの冗談だ。
 そうとしか、思えなかったのに。
「そう聞いたら興味を持ってくれるかなって、喜んでくれるかなって思って、房術の授業も受けたの。……でも無駄になっちゃった。全部」

「忘れてくれれば良かったのに。くれた思い出だけでよかった。私はこのまま卒業して、あなたにはもう会わなくて、それで終わりだったのに」




 ──俺は、本当は分からないんだ。

「分からねぇけど、このままだと後悔する気がするんだ」
「……文次郎が、惜しいと思ってるのは、ただの性欲でしょ」
「そういう言葉で決めつけんなよ。……いや、ちゃんと言えねぇ俺が悪いんだな」

 あなたが大好きだったのと、その言葉がもし嘘だったとしたら。
 それならそれで、こいつが傷ついているわけじゃないのだから、別に俺はそれでも構わない。けれど嘘じゃないのなら。

「好きだとか、愛してるとか、そんな言葉ではまだ言ってやれない。でもな、俺はきっとお前に傍にいてほしいんだ」
「…………ど、して」
「俺はな、お前が可愛いんだ」
「え?」
 ふいに、きょとんと瞳が丸くなる。冷たい色しか映していなかった、その瞳が。
「俺はな、お前が可愛いと思ったんだ。お前が傍にいてくれたら、愉しいじゃねえかって、そう思ったんだ」






 ──夢で幾度見ただろうか。手酷く拒絶される夢。
 その度にああこれが現実なのだと。決して望みを持ってはいけないのだと、そう信じて疑わなかった。

「……なあ、そんな泣くなよ。俺が泣かせたみたいだろ」
「あ、あなたに泣かされたの……!」
「……ああ、まあ、そうなるのか。すまんな、上手く言えなくて」

 求めていた温かな大きな手が、ぎこちなく頭に触れた。まるで子どもにそうするように、そっと撫でられる。

「私、ずっと意地張ってきたの。文次郎に好かれるために、そういう風に演じてきたの」

 そのほうがあなたに見てもらえると、そう思っていたから。

「希望だけでも生きていける。……私のことを知ってからで良い。……好きになって」



 私を、好きになってください。





 




 目覚めはかなり悪かった。
 夢を見ていた記憶などないのに、酷く心持ちが重い。大体明け方あたりまで起きていた覚えがあるから、寝入ったのは本当に半刻ほどだったのだろう。
 睡眠不足や運動過多の疲れなんかじゃない、頭と心のどちらもがどんよりと沈み込んでいて、そのせいで指一本動かすのも億劫だった。
 同室の友達は、いつの間にか起きて外に出掛けて行ったらしい。よくよく考えれば今日は休日だから、それも当然だろう。
「おーい八左ヱ門、生きてるかー?」
 突然にとんとんと板戸を叩く音が響き、返事をする前に戸が開いた。ずかずかと、戸の向こうから馴染みの顔触れが俺の部屋に入ってくる。
「なんだ、お前まだ寝てんのか」
「八左ヱ門、大丈夫? 昨日食欲ないって言ってたから心配したんだよ」
「はっちゃん、腹でも壊したの?」
「猪は無理だったから兎肉で豆乳鍋にしたんだ。美味かったぞ」
 布団に突っ伏している俺の周りを包囲するように、四人が腰を下ろす。




「……汚しちゃってごめんなさい」
 差し出されたのは真っ白の手拭いだった。どう見ても使い古した俺のものじゃない。ほとんど使っていないか、新しく買ってきたものだ。
「洗っても、嫌だと思ったから……。前にお祭りでもらったの、まだ使ってないから良かったら……」
「あれは、返さなくていいって言っただろ」
 自分で思った以上に、冷たい声だった。びくり、と澪の身体が震える。強張ったままの顔に、ああそうじゃないんだ、と胸が痛くなった。そうじゃない。手拭いなんてどうでもいい。ただ、今の澪を見ると、
「ごめんなさい。わ、私になんか会いたくなかったよね。でも、ちゃんと、ごめんなさいって、顔を見て、言いたかったから、私」
 ただ、今の澪を見ると。
 ……七松先輩に抱かれてた姿と、七松先輩に傷つけられていた姿が、どうしても浮かんできてしまうから。
「いらないんなら、もらうよ。ほんとに気にしなくていいけど、俺生物委員会ですぐ汚れるしな」
 今度はもう少しまともに声が出た。澪がおそるおそる目線を上げ、俺が言葉通りに受け取ると、少しほっとした顔になった。
 なんだか、するりと言葉が出た。
「俺さ、お前が好きなんだ」
「……え?」
「気づいてなかったか? ずっとお前のこと好きだった。今も好きだ。卒業したら俺と夫婦にならないか?」
「……なに冗談言ってるの?」
「冗談じゃないぞ。俺、お前に嘘ついたことないと思うけど」
 それで信じてもらえたのか。大きく、澪の瞳が見開かれる。今更俺の告白もなにも、通じないことは分かっている。だから淡々と断わられるかと思ったけれど、意外にも澪は数秒黙り込んだ後、かあっと顔を赤くした。そしてまた長い長い時間結果、俺に向かってゆっくり頭を下げた。
「ごめんなさい……」
 うん、そうだよな。分かってる。俺がいくら好きだなんて言っても、澪には届かないだろう。







「澪のことが好きじゃないなら、やめてください……あいつを傷つけるだけじゃないですか!」
「あのなぁ、竹谷。それ澪が言ったのか?」
「違います! ただ俺があいつのことが心配で──」
「なら口出すな。私はあいつに無理強いしてるわけじゃないし、可愛がってるつもりだ。お前になにか言われる筋合いはない」
「……ならせめて、責任も取れないのに孕ませるようなことはやめてください! 傷つくのは澪なんです! 七松先輩にだってそれくらいの分別は」
「もし澪が孕んだら」
 七松先輩はじいっと、冷たい目で俺を見下ろす。そして、きっぱりと。

「私は澪と夫婦になる」

 唖然とした。なに言ってんだ、この人は。
 ほんの一瞬七松先輩は澪を想ってるのかと思ったが、次に気づいて怒りが湧き起こる。なに言ってんだ。
「先輩は他の女の人とも遊んでるじゃないですか! 澪と夫婦になる気持ちがあるなら、どうして女遊びなんか」
「私はな、竹谷」
 冷たい瞳。
「私が抱いた女の人の誰が孕んでも、その人と夫婦になる」



 ……は?



「……いみが、わかりません。もし同時に孕んだらどうする気ですか」
「全員私が面倒見る。どうだ? これで分かったか? ……分かったらもう口出しするな」

 わかる、かよ。
 なんなんだあんたは。なに考えてるんだ、全然分かんねーよ。全員愛してると言いたいのか? 違うんだろ!?

「なんっで!」

 なんで、ただ自分のことを愛してくれる人にそれを返すことすらしてやらないんだ!!
 返せないなら突き放せよ! 変に期待させるからあいつがますます傷つくんだ!

 殴りかかった手を思い切り振り払われ、腹に一発蹴りを入れられた。
 この人に勝てると思ってるわけじゃない。けれど悔しくてしょうがない。どうしてあんたはあいつのことをみてやれないんだ! あんなに傷ついてるのに!

「ならお前が奪ってやれ。私は、私を好きじゃない女の人とは付き合わない」
「ああ」

 ──そうしてやるよ

「なら奪ってやるよ! あんたなんかに渡さない! 澪は俺の手で幸せにしてやるよ!」

 七松先輩は冷たく微笑むと、「出来るならな」と冷たく吐いて去って行った。







「七松先輩はね、好きな人がいるんだよ」
「は? ……女遊びしてるのにか」
「そう。よく寝てるときにね、私とその人の名前言い間違えるの。七松先輩は気づいてないみたいだけど」
「……誰だよ」
「…………くの一教室の先輩だよ。七松先輩と仲の良い人」
「……あのさ。お前に言うのは悪いかもしれないけどな。……じゃあなんで先輩は、その人と恋仲にならないんだ」
「分からないんだけど……私ずっと七松先輩見てたから、気づいたことがあったの」

 七松先輩はね。
 絶対にあの先輩の後ろに回らない。

「……なんだそれは」
「七松先輩ってね、結構誰にでも抱きつくの知ってる?」
「あー……そうだな。男でも後ろから無意味に首絞めてきたりするな」
「そう。きっとそれが先輩の親愛表現なんだろうね。でもね、違うの。あの先輩にはね……必要以上に触らない。なんでだろうね?」

 なんでだろうねと言いつつも、澪は寂しそうに微笑んでいた。ぽつりと。

 ……きっと、好きだからだよね。






 

「先輩」
 呼びかけて振り返る先輩は、一度驚いた顔をしてから、それからちょっと無理に笑ってみせた。
 私が七松先輩と寝ていることを、きっとこの傷つきやすい先輩は知ってる。

 きもち、わるくなってきた。

 私を支える先輩の手が温かい。私にはないもの。七松先輩がきっと欲しかったもの。
 それは私にはないものなのに、私にもすごく温かくて優しく思えた。それが少しも悔しくないことが悔しくて、私はどうすればいいか分からなくなる。

「ねえ? 大丈夫?」

 気遣わしげな先輩の声。ああ、私はあなたが優しい人だと知っている。傷つきやすくて、でも優しい人だと知っている。
 心地良い。先輩の手を、私も欲しいと思ってしまう。
 先輩はきっと嫌だと思う。先輩が向けられるべき七松先輩の欲の少しを私は自ら奪ってる。

「ねぇ? ……ねえ」

 やめてください。優しくなんてしないでください。罵ってくだされば私は。私は。

 あなたが好きなんです。

「先輩」

 先輩を呼ぶ。すごく心配そうな顔をしてる先輩は、まるで泣きそうに見えた。違うんです、先輩。先輩がそんな顔する必要ないんです。私が悪いんです。でも私、好きなんです、七松先輩のことが。
 どうしたらいいか分からないんです。

「私……先輩のことが好きですよ」

 ごめんなさい。

 私は嫌な女だ。七松先輩が好きで、七松先輩が愛しているこの先輩も好きで、
 それから、

 私を愛してくれると言ってくれる、

 竹谷のことも好きだと

 好きになりたいと

 思い始めてる。





 なんて醜くて、浅ましいのだろう。






 



「お前さ、好きなやついるだろ」
「……え?」
「私、好きなやつがいる女の人は抱かないんだ」
「……なな、まつせんぱい?」

「もうやめよう」

 私はもしかしたら。
 その言葉をずっと待っていたのかもしれない。

「七松先輩、私、あなたのことが大好きでした」
「……私は、お前が一番可愛かったよ」

 七松先輩は、嘘を吐かない。お前が好きだった、なんて嘘は言わない。
 でもその言葉はとても嬉しくて、私は微笑んだ。

「七松先輩が好きでした」

 繰り返して。

「私は、今でもお前が一番可愛いよ」

 七松先輩は、一度も謝らなかった。それが私は嬉しかった。七松先輩に恋したことは決して間違ったことじゃなかった。私は七松先輩が好きだった。でも今は違う、それだけのことで。

「七松先輩、ありがとうございました」

「澪。私はお前の幸せを祈ってるよ」

「……私も、あなたの幸せを祈ってます、七松先輩」

「ああ。……ありがとう」


 その言葉が最後だった。
 私と七松先輩はそれだけを最後に、口付けも手を繋ぐこともせずに、後輩と先輩の関係に戻った。


 どうかあなたは幸せに。
 どうか。

 あの優しくて傷つきやすい先輩と、幸せになってください。











「先輩。お話があるんですけど、いいですか」
「ん……うん、構わないけど……」
 振り向いた先には、一つ年下の後輩がいた。生物委員の、竹谷だ。あまり接点はないから、普段からそんなに話したことはないはずだ。
 どこか固い雰囲気の竹谷に連れられて、私は人通りの少ないところまで足を運ぶ。くるりと私を振り返る竹谷の顔は強張っていて、これが告白だとか告白の媒介だとかそんな甘っちょろいものじゃないことは容易に想像できた。
「……一つお聞きしたいことがあるんですけど」
「うん……?」
「先輩は、七松先輩と仲が良いって」
「ん……そうだね。仲が悪くはないけど、」
「恋仲じゃないんですか?」
 問われた言葉に、一瞬身を強ばらせた。それは決して事実だからじゃなくて、……事実だった、ことだからだ。
「違うよ」
「本当にですか?」
「……うん。本当に違う。こへが女遊びしてるの、あなたも知ってるでしょう」
 大抵の上級生なら知ってるだろう。こへのそれは有名だから。
「不躾で申し訳ないと思うんですけど、先輩」
「……なにかな」
 よく分からないけど、たぶん竹谷はこへの女関係について聞きたいんだろう。こへなにかしたのかな、と私は私には関係ないはずなのにちょっと胸が痛んだ。
「失礼を承知でお聞きします。先輩は、七松先輩と寝たりするんですか」
 目を見開く。唖然とした次に来た感情は、自分でも驚くほどに怒りに満ちたものだった。咄嗟に手を振り上げようとしてしまうのを、ぎりぎりで堪える。
「……ごめん」
 私から殺気が漏れたことを察したのだろう、竹谷はそれでも動かなかった。たぶん自分で言ったとおり失礼だと思ったから、だ。殴られるならそうさせようと思ったのだろう。
 ……そこまで失礼なことだと分かっていて、なぜあえてそれを聞くのだろ。
「殴って頂いて結構です。ですから教えてくれませんか」
「……寝て、ない」
「本当に?」
「私はこへと寝たことなんて一度もない!」

 自分でも驚くほどの叫びに、竹谷は軽く目を見開いた。そして、眉をひそめる。

「ないんですか……?」
「ない……一度もないよ。ああ、口付けならしたことある、三年生のときに遊びで。でも寝るとか、したことない」

 竹谷は戸惑う顔になったあと、ゆっくりと諦めたような顔になった。

「七松先輩も、大事なものは抱かないんですか」
「……あなたがなにを聞きたくてどういう結論にしたいかわからないけど。……こへは、私のことが大事なわけじゃないよ」
 それだけは本当だ。私はこへの枷なのだ。
「あの女遊びの激しい小平太が、なんで仲の良い私に手を出さないのかって不思議なんでしょう? あれはね、こへの罪悪感なの。私が好きだとか大事だとか寝たいだとかそういうんじゃないの」
「……まさか」
「……まさか、なに」
「…………いいえ」
「なにを聞きたいのかは、知らないけど。だからその点については安心してくれればいい。私はこへとは関係ない。特に男女の意味ではね」
「……そうですか」
「だから聞かれても無駄だよ、こへと関係のある女の人なんて私は知らないし、それをどうこうすることも出来ないの。こへ、が、好きにしてるだけ。私は知らない。……なんにも出来ない」
 そこまで言わなくても良かったのに、私は吐いてしまう。どうにか、したいのか。本当は。
「……すみませんでした」
「……もういいなら、かえって」
「ですが一言だけ言わせてください。……七松先輩と関係した女子に聞いたんですけど」
「……聞きたくない」
「聞いてください。……七松先輩は情事のとき、よくあなたの名前を呼ぶらしいですよ」

 ……は?

「澪、って。呼び間違えるそうです」
「なに言って……」
「七松先輩は、あなたに興味がないんでしょうか」

 竹谷は冷たい瞳でそれだけ言って、踵を返して去っていく。その肩を引っ掴んで今のはどういうことかと問いただしたい気分になりながら、私は脱力感と共にその場に崩れ落ちた。

 なに、言ってるの。私にはなんともできないの。
 こへは私と関係ない。こへは私を好きでもなんでもないんだから。

 私を惑わせてなにが楽しいの……?
 あと少しで卒業だから。
 あと少しで卒業だから!
 ……だからどうか邪魔しないで。






「……澪先輩……?」
「ん、な……」
 なに、と振り向いたとき、言葉に一瞬詰まった。
 そこにいたのは後輩の……こへと関係を持ってる子だった。それで戸惑ってしまったけど、私にはこの子に対してやましいことはなにもないし、この子もないはずだ。そもそも私はこの子のことが好きだったし、複雑な胸中ではあったけど出来る限り笑ってみせた。
「どうしたの? 私になにか用?」
「あの……これなんですけど。今先生が澪先輩にお渡しして欲しいって……」
 差し出された書類を受け取る。
「うん、ありがとう」
「……いえ」
 それではと一礼して帰ろうとするその子に、私は眉をひそめた。顔色が、すごく悪い気がする。
「ねえ」
「っ、は、はい」
「顔色悪いみたいだけど、大丈夫?」
 腕を引いて顔を覗き込む。かたかたと震える肌は青ざめていて、貧血を起こしているようだった。
「大丈夫? 医務室ついていこうか?」
「だい、じょうぶ、です」
「……ま、まって、ふらついてるじゃない、無理したら──」
 こうなったら無理矢理に抱き上げてしまおうかと思った瞬間、ぱしんと手を振り払われた。
 あ、と手を引っ込める。余計なことだったかもしれない。
 けれど後輩は自分の行動に驚いたように目を見開いて、小さく首を横に振った。
「ご、ごめんなさい澪先輩」
「ううん……ごめんね。でもお願いだから医務室に」
「だいじょうぶです、から」
「でも」
 手を出したらまた嫌がるだろうか。私だからだろうか。この子はこへのことが好きなんだろうか。どうしようとぐるぐる迷っていると、後輩はじっとその私を見て、悲しげに一度笑った。
「澪先輩」
「な、なに? 私じゃ嫌なら他の人呼んでこようか? 先生とか」
「澪先輩」
 もう一度私の名を呼んで、後輩は、

「私、あなたのことが好きです」

 言った瞬間崩れ落ちて咳き込んだ。
「っ!? ねぇ、大丈夫!?」
 げほ、と一度咳き込んだその瞬間、特有の匂いに驚いた。後輩の口の端からだらだらと零れ落ちるのは、胃液。
 胃の中になにも入ってないのか吐瀉物は出なかったけれど、苦しげにせきこんで、腹を押さえて、後輩は身体を震わせる。
 無理だ。手ぬぐいを出して簡単に口元を抑えてやりながら、抱え上げる。その瞬間、微かに声が響いて、それから後輩の身体から力が抜けた。

「ごめんなさい、澪先輩」

 最後に聞いた言葉は、泣き声だった。





 長次はいつもと同じ、淡々とした様子だった。読んでいた本からちらりと顔を上げ、僅かに頷いた。
「……ああ。知っている」
「ほんとに? 小平太の女遊びに理由なんてあるの?」
「ある。……聞きたいか」
「え、……う、うん。聞きたいけど、でも私が聞いても……」
「赤子が出来たら諦められるから、だそうだ」

 ──え?

「本人がそう言っていた。……私が知っているのはそれだけだ」












「……もうすぐ卒業だね。そうしたらこへは私に縛られなくてすむよ」
 いつでも自由に、誰かを愛せるよ。なんの我慢もしなくていいよ。
「いままでごめんね。わたしね、こへのことが好きだったよ」
 私があなたを好きだったから。だからあなたは私の傍にいてくれた。そうでしょう?
「もういいよ。もういいから…………、ん? どうしたの?」
 小平太がじっと押し黙っている。ゆっくりとその視線が私を捉える。なんだかさっきまでのものじゃない、驚いたような顔だった。
「……澪。私、さ」
「なに?」
「しあわせになれないとおもってた」
「……なに? こへ、どうしたの」
「澪をたくさん傷つけた。いろんな女の人を傷つけた。……だから私の願いなんか、きっと叶わないと思ってたんだ」
 泣きそうな顔をしているこへがなんだか可哀想で、私は身を寄せる。慰めてあげたかった。
「こへが幸せになりたいなら、私が幸せになれる道を全部こへにあげる。大丈夫、こへはきっと幸せになれるよ」
 口で言うのは簡単だと罵られるかと思った。けれど本音だった。こへが幸せになれるなら、私は不幸せでも構わない。
「私の幸せは」

 こへの腕が、私の背に回される。力が強くて一瞬息が出来なくて、なにか言おうとしたとき、気がついた。
 こへは、泣いてた。

「私の幸せは」

 耳元で、声がする。こへの声が。

「お前と一緒にいることなんだ」

「私の幸せは、澪と一緒じゃないとだめなんだ」

「澪、たのむから」

「澪が幸せになれるかはわからないけど」

「私はお前がいないと幸せになれない」



「ずっと一緒にいてくれないか」







 ようやく夏の暑さが少し落ち着き、昼間は涼しく、夜は肌寒さを感じるようになった。
 季節が変われば流行病も変わるため、医務室に常備する薬や道具の種類もそれに合わせて変更する必要がある。夏なら日射病と夏風邪、冬ならしもやけ対策と冬風邪、長期実習の前には外傷用の傷薬や包帯の補充などなど。
「干してたの取り入れてきましたーっ。昨日煮沸消毒した当て布、全部綺麗に乾いてましたよ!」
「ふわふわのほかほかですー……」
「ありがとう、乱太郎と伏木蔵。ここに置いてくれるかい? 消毒前のものと混ざらないようにね」
「はいっ、分かりました!」
「二人とも、置いたらこっちを手伝ってくれ。思ったより量が多くてさ」
「はーい、三反田先輩……」
 放課後の保健委員会。今日の医務室は、あちこちからたくさんの衣擦れの音が聞こえてくる。学園内外から集めてきた、不要な衣類の山だ。
「たまむすび……ちょきんっちょきんっと」
「あ、糸も長いものは再利用するから、短く切らずに綺麗に抜いておけよ」
「糸もタダじゃないですからねえ」
「ちょっと埃っぽいですね。僕、戸と窓を開けてきます」
 今日保健委員会の下級生達がかかりきりになっているのは、古布を切って包帯に替える作業だ。学園生徒達から集めた古い着物の糸を抜いて解き、同じ大きさに切って包帯にする。包帯は血なんかで汚れてしまうと煮沸しないと使えないし毎日替える必要があるから、何枚あっても充分ということはない。
「ちょきんちょきんって切り揃えたら、ふんどしほーたいのかんせー」
「あの、伊作先輩、褌包帯って衛生的にどうなんですか……?」
「ん? 加熱殺菌すれば特に問題ないと思うよ。肌に触れていればどこにでも菌は出るものだしね。褌でも手拭いでも着物でも、汚れ具合に大差はないよ」
「じゃあ、問題なのは精神衛生上ってことですね……」
「まぁ、そういうことかな」
 苦笑して答えると、質問した左近をはじめ下級生達はちょっと嫌そうな表情ながら、とりあえず納得したように頷く。みんなの気持ちもよく分かるけれど、褌包帯もまた大切な備品だ。保健委員である以上慣れてもらうしかない。
 みんなが作業に戻ったのを確認して、僕も薬研で薬草をすり潰す作業に戻る。今日の薬草は臭いがきつくて、鼻の奥に少し沁みた。
「澪さん、備品と薬の在庫はいかがですか?」
「……あ、なんとかなりそうです、新野先生。足りなさそうなものは、今急遽伊作君が作ってくれていますし」
「それならよかったです。どうせ、と言っては失礼ですが、秋休みで残るのは上級生ばかりですからね。怪我対策以外のものはあまり必要ないでしょう。風邪も引かないような生徒達ばかりですから」
 にこにこと笑顔で新野先生が仰ることは確かに正しくて、身体を鍛えに鍛えている上級生(特に男子)達は、滅多なことでは病に罹って倒れることはない。……僕を除いて、だけど。
 だから今必要なのは、外傷を治すために使うものばかりだ。今僕が作っているのも、効きは抜群だけど臭いと沁みが酷い、生徒達には不人気な塗り薬だ。下級生達ならともかく、上級生相手ならばこれで充分だ。
「点検が済んだら、薬箪笥の鍵は善法寺君に預けておいてください。予備のものは吉野先生に」
「分かりました、お渡ししておきます」
 澪が頷いたのを確認して、新野先生は少し慌てた様子で行李の上の職員用記帳を取り上げる。
「では私はそろそろ教員会議に行ってきますから、なにかありましたら職員室にお願いします。お手伝い出来なくて申し訳ないですが」
「いえ、とんでもないです。新野先生、ありがとうございました」
「伊作君も、明日からどうぞよろしくお願いします。私もなるべく早く学園に戻るようにしますから」
「はい、任せてください」
「新野先生、また秋休み明けに……」
「秋休み明けにー!」
 下級生達がひらひらと手を振るのに穏やかな仕草で同じように手を振り返し、新野先生はぱたぱたと心持ち急いだ様子で医務室を出て行かれた。
 二学期の真ん中。明日から秋休みに入るから、今日を境に忍術学園は人気が少なくなる。その間は勿論委員会も行えないから、今日のように全員集まることはしばらくない。
「委員長、これ全部を今日中に片付けるのは難しそうですが……」
「ああ、もちろん。残りは休み中に暇を見て僕がやっておくから、今日は出来るところまででいいよ。汚れの酷いものは別に選り分けておいてくれたら、そっちは早めに洗濯するからね」
「はい、分かりました」
「善法寺先輩は、おうちにお戻りにならないんですか?」
「まあ、上級生は実家が農家じゃなければ大抵残るからね」
 医務室の包帯が足りないから不要な布を寄付してくれないか、と生徒達に頼んだのは一月ほど前だ。今回は実家が染め物屋の二郭伊助が売れ残りや染色に失敗した着物をたくさん提供してくれたおかげで、思った以上の量の古布が集めることができた。
「しばらくは布に困らないね」
「当て布も少なくなってましたからね、よかったですー」
「大事に使って長く保たせましょうね!」
「布は買うと高いですからねえ」
 ほっと安心した様子で、下級生達は自分事のように喜んで作業してくれている。申し訳ないとも思うけど、委員達が委員会の仕事に真剣に取り組んでくれているのは、僕もとても嬉しいことだ。
 幸せな気分で薬草をすり潰していると、薬箪笥の整理が終わったらしい澪が、下級生達が格闘している布の山の前に膝をつく。そして、手近の古布を一枚手に取った。
「私も手伝うね。これを切ったらいいのかな?」
「あっ!」
「だ、駄目です、澪先輩!」
 僕が声を上げた途端、澪のすぐ隣にいた左近も慌てた様子で澪の手から布を取り上げた。きょとんとしている澪に、左近がぶんぶんと首を横に振る。
「これ、男の人の褌ですから! 澪先輩は違うものをお願いします!」
「はい、こっちです!」
 流れるような動きで、数馬が手拭いや着物の古布を集めて澪に押しつける。やっとなにを言われたのか理解したらしく、澪は古布を受け取りながら照れたように苦笑した。
「気にしてくれなくても構わないのに。慣れてるし大丈夫だよ」
「いえ、女性に褌を触らせるなんて駄目ですよ! 誰が使ったかわからない褌なんて!」
「そうですよ、嫁入り前の女性なんですから!」
 左近と数馬の言葉に、聞いているだけだった乱太郎と伏木蔵も「なるほど」「なるほどー……」と学習するように頷いている。咄嗟に声を上げたしまった僕もようやくほっとする。次いでなんだか恥ずかしくなってきて、慌てて手元の作業に戻った。
「それに、いつもならともかく、伊作先輩の前ですから駄目ですよ!」
「そうですよ! 委員長が気にされますから!」
「ぶっ」
 続けられた左近と数馬の言葉に、思わず反応してしまった。そうですよね、と左近と数馬が僕に視線を向け、あらあらと澪が少し嬉しそうにそれに続き、なるほどなるほどと乱太郎と伏木蔵が最後に倣う。
 いや、確かに、好きな女の子が誰のものか分からない男の下着をじょきじょき切ったりべたべた触ったりするのは嫌だなぁと思うし声を上げてしまったのもそういう理由なんだけど、なんだけど。
 全員の視線を受けて僕が恥ずかしさに固まっていると、澪が「じゃあみんな、続きをやろうか」と助け船を出してくれた。またじょきじょきばさばさと衣擦れの音が再開し、僕は再びほっとした。ちらりと視線を向けると、気づいた澪が微笑んだ。かあっと顔が赤くなるのを感じながら、僕も笑い返して手元の作業にようやく戻る。
 澪と恋仲になってからだいぶ経ち、委員の下級生達もなぜかそれを察知して今ではほぼ学園中に周知の状態になっていた。別に囃し立てられたりはしないから意識することはあまりないけれど、こういうときさらりと言われてしまうと、嬉しいのもあるけどさすがに恥ずかしい。……うん、でも、嬉しいのは嬉しいんだけど。
 うん、やっぱり嬉しいな。
「見てください澪先輩、こんなに長い糸が取れましたよー……」
「わ、これ赤糸だね。色のついた糸なんて買うとすごく高いのに」
「これ医務室だけで使うのは勿体ないですよね。まだ使えそうな布と糸は裁縫上手な生徒にあげましょうか」
「あ、そのほうがいいね。じゃあ伏木蔵君、糸は巻いてここに入れておいてくれる?」
「はーい……」
「しかし本当にいい布が多いな。乱太郎、お前と同じ組だったよな? 伊助に改めて礼言わないとな」
「はい、私から伝えておきます。伊助の父ちゃんと母ちゃんも、学園のためになるならって喜んで寄付してくださったんですよ」
「澪先輩、伊助のところだけじゃなくて、寄付してくれたひとにお返しに常備薬とか贈ったらどうでしょうか? 普通の薬だったら邪魔にはなりませんよね」
「そうだね、じゃあみんな秋休みが終わって落ち着いたら、お礼のために常備薬作ろうか」
 澪と下級生達が話しているのを聞きながら、僕はぼんやりと思い出していた。まだそう昔でもない、澪と恋仲じゃなかったときのことだ。澪とは一年生からずっと同じ保健委員で、ずっとこうして医務室で過ごしてきた。片恋だった時間のほうが圧倒的に長いのに、なんだか澪といつも一緒にいるように感じるのは、きっとそのせいだ。
 けれどやっぱり片恋だったときと、今恋仲でいるときは全然違う。片恋には片恋なりの、恋仲には恋仲なりの悩みも悲しみも嬉しさもあるけれど、好きなひとが自分のことを好きでいてくれると、そう信じて実感出来るのは、その他のなににも代え難い幸せだった。
 澪が笑っていてくれて、委員のみんなが楽しそうに委員会活動をしてくれて、まあ出来れば保健委員会が不運じゃなくて、学園生徒達があまり酷い怪我をしなければ。僕はそれだけで、本当にそれだけで充分過ぎるほど幸せなのだと、改めて思う。
 まだ僕は十五年しか生きていないし、先生達の庇護の元にある若輩者だけど、今は本気でそう思う。
 僕はとても幸せだ。




 古布の選別と裁断がひと段落し、先に下級生達を帰した。澪と二人で後片付けをして医務室を出ると、もう外は夕暮れに近かった。もう私服に着替えて荷物を抱え、校門に集まって帰省の準備をしている生徒達もいる。また秋休み明けに、と友達同士で交す別れの言葉がここまで聞こえてきていた。
「澪はもう帰る準備は終わったのかい?」
 声をかけると、澪は医務室に鍵をかけ終えてから、「うん」と頷く。
「昨日までにしておいたから、大丈夫。今日女子寮の片付けをしてから、明日早くに出るつもり。……本当は私も残るつもりだったんだけど、休み中全部任せちゃってごめんね。一人じゃ大変だと思うけど」
「ううん、僕が勝手に帰らないだけだからね」
 秋休みは他の休みと違ってさほど長くないのもあって、特に実家が遠い生徒や上級生達は家に帰らない者のほうが多い。六年生にもなると尚更だ。冬休みや春休みと同じように、学園で解放感に溢れた上級生達は、無駄に気分が高揚していてあほみたいな怪我をしてくることもある。保健委員会は、休み中は休み中でわりと忙しい。
 澪が差し出す医務室の鍵を受け取りながら、僕達は廊下を歩き出した。もうすぐ日が沈むから、頬に触れる風は少し冷たくなっていた。
「実家に戻るんだよね? 澪の実家は農作もやってるのかい?」
「……えっと、いつもなら帰らなくてもいいんだけど、今年はいろいろ地元の行事が重なっててね。丁度親戚も集まるから、顔を出しておかなくちゃいけなくて」
「そうか。忙しそうだね」
「委員会もあるし友達も帰らない子が多いから、私は出来るだけ残りたかったんだけど、仕方ないものね」
 どうやら本当に帰りたくなかったらしく澪は残念そうにため息を吐くと、けれど言葉の通り仕方なさそうに苦笑する。
「うん……僕もちょっと寂しいかな」
「ちょっと?」
「……かなり。いや、すごくだね」
「うん、私も」
 顔を見合わせて、どちらからともなく微笑み合った。上級生の生徒達の大半が残るとはいえ、授業はない。だから澪が残ってくれていれば、二人きりで過ごす時間も増えたはずだ。それが残念といえば、確かに心の底から残念だけど。
「親戚の集まりが終わったら、出来るだけ早く戻ってくるね。町で秋祭りがあるらしいし、伊作君、時間があったら一緒に行かない?」
「ああ、そうだね。一緒に行こう」
「うんっ。約束ね」
 ふわりと微笑んで、澪は足を止めた。別れ道だと気づいて、僕も澪に一歩遅れて足を止めた。
 そのとき自然に、ああ、寂しいな、と改めて思った。さっきも思ったように、僕と澪は恋仲になる前もその後も委員会でほぼ毎日顔を合わせていたから、たまの長期実習や長期休み以外には離れているということがあまりない。だからなのか、数日だと理解していても、寂しいものはやっぱり寂しい。……かなり。すごく。
「ここでお別れだね。伊作君、またね」
「うん、行き帰り気をつけてね」
「伊作君も、秋休み中よろしくね。……それじゃあ」
「あ、澪」
 踵を返しかけた澪の腕を、咄嗟に引いた。その頬に口付けると、澪は笑って、今度は少し背伸びをして僕の頬にも口付けてくれる。至近距離で見つめ合って、どちらからともなく唇を重ねた。
 離れるときちょっと名残惜しかったけど、また今度ね、と澪が少し恥ずかしそうに僕の手を握ってくれたから、それで我慢した。
「おやすみなさい、伊作君」
「うん。おやすみ、澪」
 ゆっくりと、繋いだ手も離れた。女子寮と男子寮、それぞれに続く別れ道。最後にもう一度微笑み合って、僕達はお互いに背を向けた。
 数日すればまた会える。以前と同じように笑って会えると、そう信じて疑わずに。




 このとき澪を引き止めておけば。
 実家なんて帰らないで一緒にいてくれと懇願していたら。
 そうしたら未来は変わったのだろうか。
 澪は今でも僕の隣で笑っていてくれたのだろうか。
 僕が澪を傷つけることも、澪が僕を怯えた瞳で見ることも、決してなかったのだろうか。

 それとももうなにをしたって、結論は変わらなかったのだろうか。
 僕はどうせいつか壊れて、澪はどうせいつか僕に怯えるようになったのだろうか。

 このときの僕にも、すべてを知った今の僕にも、もう知る術はない。











 秋休み中、相も変わらず忍術学園は騒々しかった。下級生達が少なくて授業がないとくれば、上級生の天下も同然、滝夜叉丸と三木ヱ門は毎日のように『どちらが忍術学園の人気者か』を巡って喧嘩をし着実に自分達の怪我を増やし、喜八郎は空き時間すべて穴を掘って過ごし、大体それに僕が引っ掛かって通りすがりの留三郎や五年生に助けてもらい、小平太は学園内を走り回っては行く先々で学内備品を破壊しまくり、それに留三郎が激昂して仕置きをしようとしてさらに被害箇所が増え、またさらになぜか文次郎が巻き込まれて留三郎と文次郎の喧嘩に発展し、最終的に仙蔵が騒々しさにキレて宝禄火矢ですべてを吹き飛ばす。加えて五年生達がその後始末をする、というところまでが、大体一日の始まりから終わりまでだ。
 つまりは日常茶飯事だ。
「伊作ー、おーい、薬くれー! なんか傷薬とかそういうの! えーと、擦り傷みたいなの治すやつ!」
 突然に勢いよく医務室の戸が開き、小平太が顔を見せた。秋休みに限らず本当にいつもだけど、今日も走り回っていたのか全身泥だらけだ。
「え、小平太が薬くれとかどうしたの。酷い怪我でもした?」
 普段多少の傷では面倒くさがって治療もしようとしない小平太の口から『薬』なんて言葉が出てくること自体が珍しい。ざっと改めて小平太の身体を観察したけれど、別に怪我をしている様子でもない。案の定、小平太は「いや、私じゃないんだ」と首を横に振る。
「留三郎にお使い行ってこいって言われたんだ。私が壊した壁修理してて手が空いてないからってさ」
「留三郎が? 誰が怪我したんだい?」
「用具の一年坊主だ。なんかあのちっこくて暗いやつ。二の腕擦り剥いたらしくて、ぴーぴー泣いててな。あ、あと出来れば伊作そのもの連れて来いって言われた。用具倉庫な」
「あー、分かった、すぐ行くよ。留三郎のことだからもうやってるだろうけど、水で傷口洗っておくように伝言してくれるかい?」
「分かったぞ! んじゃーな!」
 にっと笑って、小平太は来たと同じように勢いよく飛び出して行く。僕は今までやっていた古布の裁断作業を中断して、立ち上がる。応急手当用の救急箱を取り上げて、医務室を出た。いつもなら留三郎は軽い怪我ならば直接医務室に連れて来るのだけど、まあ休み中だし、留三郎も後輩が心配なのだろう。
 秋休みも折り返しに入り、生徒達も少しずつ戻ってきている。休みの初めはきつい鍛錬や自主トレばかりで過ごしていた上級生も、それに伴ってやり残していた宿題や委員会活動に励むようになる。日常茶飯事の騒動はあれど怪我人はその分減るわけで、僕としては多少楽になったんだけど。
「あ、善法寺先輩、こんにちは」
「どーも、伊作先輩!」
「ああ、こんにちは。図書委員会で本の陰干しかい?」
「……伊作。さっき喜八郎がタコ壺を掘っていた。三歩先だ」
「うわっ!? あ、ありがとう気をつけるよ……」
 学園の中庭では木陰に厚布を敷き、長次と雷蔵、そして上級生と同じくいつも学園に残っているきり丸がせっせと本を並べていた。少し離れたところでは、まさに喜八郎が穴掘り制作真っ最中で、その隣で作法の他の面々がなにか大きな仕掛けを作っていた。留三郎も用具委員会の仕事中だったようだし、どの委員会も活動し始めてるようだ。
 保健委員会は、というと、委員に下級生が多いこともあってまだ僕一人だ。もう少しすればみんな戻ってくるだろうけど──
 用具倉庫に向かいながら、僕はふと休み前に別れたきりの澪のことを考える。澪の実家はさほど遠くないはずだけど、秋休みも中盤を過ぎた今も澪は戻って来ていなかった。澪が一緒に行かないかと言っていた秋祭りの開催は、昨日と今日だ。今日ももう日が傾きかけているし、もし今澪が戻って来たとしても、行くのは難しいだろう。
 親戚付き合いもいろいろあるだろうし、実家に戻ればなんやかんやと忙しい。お祭りだって一年に一度しかないというわけじゃないから、駄目なら駄目で少しも構わないんだけど、なにかあったのだろうかとそれが心配だ。澪は性格上、守れる約束は必ず守るから。
「なにもなければそれでいいんだけどなぁ……」
「おい保健委員長。うちのの治療してるときに考え事なんかやめてくれ。手元狂ったらどうするんだ」
「ん、ああ、もう大丈夫だよ。縫うほどじゃないし、化膿止めも塗ったからね」
 委員には心配性の用具委員長のこと、僕が着いた時点で平太の怪我の応急処置はほとんど完璧だった。僕がやったのは消毒して包帯を巻いただけだ。
「平太、もう処置はしたけれど、また酷く痛むようなら医務室に来てくれるかい? お風呂では湯船に傷口をつけないようにね。しばらくは土とかにも触れないように。菌が入ってしまうからね」
「はい、分かりました。ありがとうございました、伊作先輩……」
「ありがとうございました!」
 ぺこりとお辞儀する平太の隣で、じっと治療を見ていた作兵衛も頭を下げる。「ううん、これが僕の仕事だからね」と苦笑して救急箱を片付けていると、作兵衛がしかめ面で平太を睨む。
「いいか平太。これに懲りたら、二度と一人で重い荷物を持ったりするんじゃねーぞ。なんのために俺がいると思ってんだ、一人できついときはちゃんと呼べよ」
「すみません富松先輩……」
 ぷんすか怒っている作兵衛としょんぼりしている平太に、留三郎が可笑しそうな微笑ましそうな視線を向けている。留三郎から見たら二人ともまだまだ危うい下級生だから、作兵衛が先輩面しているのが可愛いのだろう。
「悪いな伊作、手間取らせて。俺もきちんと見てやってりゃよかったんだが」
「気をつけてても怪我するときはするものだからね。それに、軽い怪我だから大丈夫だと勝手に判断して放置するより、余程いいさ。……あ、そういえば小平太どこに行ったかな? 休みで丁度良いから、一度健康診断しようと思ってたのに」
「……あー、そういやあいつ、いつの間にかいなくなったな。逃がしたか。壊した壁の修理が終わるまで正座させてやるつもりだったんだが」
 ち、と後輩達に向けるものとは真逆の苛々した表情で、留三郎が舌打ちする。日常茶飯事とはいえ、小平太の傍若無人ぶりに留三郎もほとほと限界が近いのかもしれない。
「小平太を反省させる必要があるのは同意するけど、暴れないでくれよ留三郎。修理箇所も怪我人も二倍になるんだから」
「分かっちゃいるんだが、あいつおとなしくするには手を出すしかねぇんだよ。後輩達みたいに言って聞くならいいんだが」
「まあ、それもそうだけどさ」
「食満せんぱーい、会計委員室がめちゃくちゃだそうですー」
「ああ!? 文次郎のやつまた暴れやがったのか、あのくそ石頭が! 様子を見てくるから、お前達はここにいろ。しんべヱ、教えてくれてありがとうな。作兵衛、後は頼む!」
「は、はい!」
 突如後輩からもたらされた更なる被害報告に、留三郎は血相を変えて走り出す。忙しそうな用具委員長の背を見送ってから、僕も用具倉庫を後にした。少ししたら文次郎と留三郎が二人して医務室に来るかもしれないから。
「なんで僕達の学年は『暴れる』って選択肢しかないんだろうか……」
 しみじみと呆れつつ、医務室に戻って裁断作業の続きをする。布を切り、糸を抜き取り、汚れたものとそうでないものを分けていると、どこか遠くから爆発音が聞こえた気がした。うん、気のせいだね。
 決めつけて黙々と作業をしていると、ふと医務室に近付いて来る気配と足音がした。急いだ様子も重い足取りでもないから、患者ではないだろう。下級生のものらしい、体重の軽い足音。
「失礼します。乱太郎入りまーす」
「おや、乱太郎。お帰り」
 居残っていた僕を除いて、保健委員一番乗りは乱太郎だったらしい。乱太郎はぺこりと僕に頭を下げて、医務室に入ってくる。
「まだ下級生もあまり戻ってきていないけれど、収穫が早めに終わったのかい? ゆっくりして来てもよかったのに」
「いえ、私の場合はただの補習です。きり丸としんべヱと三人だけ、土井先生に呼び出されてまして……」
「ああなるほど、それで用具委員会にしんべヱがいたんだね」
 きり丸は毎度のことだけれど、しんべヱがこの時期にすでに学園にいるのは珍しい。
「君達も大変だろうけど、先生方も休みを削って補習してくださるんだ。頑張ってね」
「はい、頑張ります! とーちゃんとかーちゃんも、一生懸命勉強するんだぞって見送ってくれました! ……あ、そうだ。これうちのかーちゃんからです。お世話になってる先生とか先輩とかにお渡しして来なさいって」
「ん? ああ、乾餅か。ありがとう、遠慮なく頂くよ。今は食堂が閉まってるから、食事を作るのも少し面倒だし」
 食堂が閉まっていると、当然食事はすべて自炊になる。僕は自炊がそこまで嫌いじゃないけれど、期限切れの薬草なんかを使うと留三郎が嫌がるし、文次郎は普段に増して食事を摂らないから指導しなくちゃいけないし、時々飢えた小平太なんかに食事を奪われそうになったりもするし。……どうして僕の学年の生徒はこんなにも極端に野性的なんだろうか。
「まだ真冬じゃないですから、早めに食べてくださいね。こっちのは新野先生と澪先輩に……あれ、澪先輩はお戻りになってないんですか?」
「うん、まだだよ。早めに戻るって言ってたんだけどね」
 そろそろ、日が沈もうとしていた。お祭りはやっぱり行けないかな、と僕は改めて少し残念に思う。
「あまり天気も良くないですし、それでお帰りが遅いのかもしれませんね」
「そうだね……。ああ乱太郎、二人の分の乾餅は薬棚の使っていない段に入れておくといいよ。煎り米が入っていて湿気にくいから」
「はい、ありがとうございます!」
 いそいそと、乱太郎が乾餅を薬棚に仕舞いに行く。その様子がなんだかとても楽しげに見えて、お母上の作ったお餅が誇らしいんだなと温かい気持ちになった。それと同時に、澪もきっとお家に帰ったらご家族と楽しく過ごしてるんだろうと思って、ならば帰りが遅いのも仕方ないなと僕は改めて思い直す。僕はまだお会いしたことがないけれど、澪を育てたご両親だから、きっと穏やかな良い方達なのだろう。
「補習は明日からなんです。私もお手伝いしますね!」
「ありがとう、乱太郎。僕一人じゃやっぱりなかなか進まなくてさ、まだ終わってないんだ」
 乱太郎と一緒に、まだたくさんある古布を選別し、包帯用に断裁していく。乱太郎に実家での話しを聞きながら、日が沈むまで作業をした。


 結局それほど遅くはならず、澪はその晩学園に戻ってきた。乱太郎を部屋に帰した後もぼんやりと医務室に居残っていた僕の前に、まだ私服姿の澪が訊ねてきた。けれど僕に会いに来たはずの澪は、僕を見て一瞬顔を強張らせた後、ぎこちなく笑って「遅くなってごめんね。お祭り、行けなかったね」と謝った。
 もちろんそんなの全然構わないと言ったけれど、澪はなんだか口数が少なく、本当にごめんねと謝罪を繰り返して、すぐに自室に帰ってしまった。
 数日ぶりに会えて嬉しかったし、何事もなく澪が無事でほっとしたけれど、その様子は明らかにおかしかった。どうしたんだろうと思いつつも、僕はなにも聞かなかった。おかしな様子は疲れているせいで、明日になったらきっといつも通りの澪なのだろうと、そう信じて疑わなかったからだ。

 そう信じて、少しも疑わなかったからだ。






 
 ふわあ、と隣で大きな欠伸が聞こえた。お鍋の出汁をかき混ぜている僕の後ろで、野菜を切っている留三郎のものだ。
「なんだい留三郎、秋休み中なのに大欠伸して。寝てないのかい?」
「休みでもそうでなくてもな。上級生と小松田さんが学園にいる以上、俺は忙しいんだよ」
 俺と言うか用具委員長がな。と付け足して、留三郎は今度は大きくため息を吐く。昨日も文次郎が壊した会計委員室の片付けで遅くまで帰ってこなかったから、なるほど確かに留三郎はあまり眠れていないのだろう。
「そろそろ下級生達も帰ってくるし、少しは楽になるさ。なんならよく眠れる薬でも煎じようか? この間従来のものとは配分を変更した薬を作ってみてね」
「お前、治験しようとするときはあからさまに目が輝いてるよな……。遠慮しとく、別に眠れねーわけじゃないしな。ほれ、大根と人参」
「ありがとう。……残念だな、それじゃ今度文次郎と小平太にでも試してみるよ」
「おー、そうしてくれ。いっそあいつら、一生眠らせておいてくれ。俺もたまには用具委員長を休みたいんだ」
 いい加減限界だ、という顔で留三郎が悪態をつく。それでもてきぱきと手が包丁とまな板を洗い、味噌を用意し、食事の準備をしているところが、細かな仕事が得意な用具委員長だ。
 休み中はみんな適当に食事をしているけれど、時間が合えば誰かと一緒に作ったほうが効率的だ。大抵僕も、同室の留三郎と一緒に食べている。
「米あんま残ってねえけど、どうする? 明日になったら町から届くって小松田さんが言ってたが」
「ああ、昨日乱太郎が乾餅をくれたんだ。味噌汁に入れて食べようか」
「お。相伴していいのか? 有り難いな」
「お母上の手製だそうだよ。持つべきものはいい後輩だよね」
「ああそうだな、断じて破壊癖がある同級生ではないな。宝禄火矢投げたり石頭で学園内ぶっ壊したりいけいけどんどんで学園内ぶっ壊したり、本の返却が遅いって理由で暴れたり、ところ構わず床板踏み抜いたり穴に落ちたりする同級生ではないな」
「君もわりとしつこいね……言っておくけれど、被害を被ってるのは君だけじゃないんだからね。やり過ぎる上級生のせいで、うちの薬や包帯の予算まで切り詰めなくちゃいけないんだから」
 さすがに抗議してみると、留三郎は苦笑して「すまん、分かってる」と素直に謝った。二人分の箸を用意し、椀に具だくさんの餅入り味噌汁をよそって、さっき焼いた小魚と一緒に炊事場横の食卓に並べる。
「頂きます」
「頂きます」
 留三郎と向かい合わせに座って手を合わせて頭を下げ、食事を始めた。
「ん、乾餅美味いな。煮え具合も丁度良い」
「乱太郎に、君の分も改めてお礼を言っておくよ。……うん、お魚も上手く焼けてるね」
 基本的に留三郎は手先が器用だから料理が上手い。僕も不運さえなければまあ普通に作れるほうだろう。普段とんでもない料理当番がとんでもない料理を出してくることもあるから(参考例は文次郎だ)、留三郎と同室で良かったと思うことはたくさんあるけど、これもその一つだ。
「そういえばお前、昨日は祭りに行ったのか?」
「ん……? あれ、そのこと君に言ってたっけ」
「なに言ってんだ。祭りの日程教えてやったのは俺だろうが。秋休み前から、澪が帰ってきたら一緒に行くんだって嬉しそうにしてたじゃねえか」
「そ、そうだっけ……」
 呆れて半眼になる留三郎に、僕はその視線から逃げるように目を泳がせる。僕はわりとなんでも話してしまうほうだから、自分では覚えていないのに留三郎が知っていることも多い。まあ、あとたぶん、逢い引きってことで浮かれてたんだろう。
「その様子だと楽しんできたのか? 仲が良くて結構だな」
「えーと、いや、澪、昨日は夜になって帰ってきたから、結局行けなかったんだよ。医務室に顔出してくれたときには日も沈んでたしね」
「ん?」
 苦笑して答えると、留三郎が箸を止めて顔を上げた。しばらく考えるように天井を眺め、口を開く。
「澪が夜に帰ってきた?」
「うん、そうだよ。どうかした?」
「いや、昨日しんべヱが、昼過ぎに澪に会ったって言ってたんだよ。だから保健委員が戻ってきたんだと思って、平太が怪我したときにお前にわざわざ来てもらったんだが」
「……え?」
 たぶん僕は、きょとんとした顔をしていたと思う。留三郎も不思議そうに僕を見ていて、僕達は数秒、視線を合わせた。
「うーん、僕は夜に帰ってきたとしか聞いてないけど……」
「まあ、なにか用事があったのかもしれねぇしな。忘れてくれ」
「んー……」
 そういえばなんだか澪の様子がおかしかったなと僕が思い出していると、留三郎が少し焦った表情になった。
「すまん、なんか余計なこと言ったか。俺もしんべヱに聞いただけだから聞き間違えかもしれねぇし……」
「あ、いいんだよ、気にしないでくれ。ただ、昨日澪がなんだか元気がないように見えたから、そのせいかなと思ってただけだよ」
 誤解させたかと慌てている留三郎に、僕も慌てて否定する。そんなことは別に全然構わないのだから。
「澪、体調でも悪いのか」
「いや、そうじゃないと思うんだけど……。大丈夫、また今日これから医務室で会うし、どうしたのか聞いてみるよ。それより留三郎、平太の様子はどうだい?」
「ああ、昨日はありがとな。あれからすぐ安静にするよう部屋に戻したしな、問題ないだろ」
「ならよかったよ。君達と違って一年生はか弱く出来てるからね」
「まったくだな、代わりに小平太や文次郎が怪我すりゃいいんだ」
 話しを変えて笑い合い、僕達は再び食事を続ける。今日も保健委員は引き続き大量の古布を包帯に替える作業が待っている。
「ようは組、おはよーーー! なんか良い匂いがするから来てみたぞ! 私達にも朝飯くれ!」
「はあ? なんでろ組に朝飯分けてやんなきゃなんねーんだ! 帰れ小平太!」
「まあまあ留三郎、まだ余ってるからいいじゃないか。おや、長次も一緒かい。おはよう」
「……おはよう。これ、つまらないものですが」
「うっ、卵焼きと茄子の浅漬けか……ま、まあいいだろう。後片付けはちゃんとやれよ小平太!」
「わかったわかった! いやー、学園どこにも米がなくてな、私お腹空いてたんだ! お、鍋に餅があるぞ、餅!」
「小平太、それは乱太郎のお土産なんだ。会ったらお礼言っておいてくれよ」
「おー! 持つべきものは良い後輩を持つ同級生だなー! いっただきまーす! たくさん食べて、今日も一日頑張るぞ!」
「……いただきます」
 留三郎と二人きりだった炊事場は、ろ組の乱入に途端に騒がしくなる。やかましい朝食を摂りながら、秋休みもあと少しで終わりだなと、僕はぼんやり考えていた。




 騒がしい食事の後片付けを終えて、僕達はそれぞれに委員会活動へと向かって行った。留三郎はいつも通り学園の修補、小平太は鍛錬することだけが目的の体育委員会、長次は昨日陰干しした本を整理して棚に戻す作業をするのだと言っていた。うちも早くあの大量の古布を整理しないといけないなと、効率の良い作業の進め方はないだろうかと考えながら、医務室へと向かう。
 道すがら、まださほど時間が遅くないこともあって、生徒達とはあまりすれ違わなかった。まだ休みの最中だから、朝から行動するのは上級生くらいだ。澪の様子はどうだろうか。昨日の今日だし、まだ自室で寝ているだろうか。そうぼんやりと思いながら、医務室の戸を無言で開けた。
「っ!」
「あ、ごめん……びっくりさせたかな?」
 戸を開けた瞬間、ばさりと紙擦れの音がした。僕はこの休み中ずっと保健委員会で一人きりだったから、誰に気兼ねなく自室のような気分で医務室を出入りしていた。だから声も掛けずに突然戸を開けてしまって、それで驚かせてしまったらしい。
「う、ううん……私こそ」
 驚いて落としてしまったらしい医務室の日誌を拾い直し、澪が困ったように笑う。まだわりと朝早いのに、澪はもう医務室に来ていた。僕が昨日途中までやって放置していた、備品の在庫確認を引き継いでいてくれたらしかった。
「おはよう、伊作君。ごめんね、ちょっとぼうっとしてて、足音が聞こえなかったみたい」
「僕も、澪がもう来てると思ってなくてさ。おはよう」
 後ろ手に戸を閉め、僕は澪の隣に腰を下ろす。「昨日はよく眠れた?」と笑いかけると、澪は僅かに間を置いてから、ぎこちなく頷いた。
 ああ、間違いないみたいだ。
 朝食のとき、留三郎と交わした会話を思い出す。僕の勘違いじゃない、澪の様子がおかしいのは明らかだ。自慢できることじゃないけど、僕と澪は忍者に向いていない。つまり、嘘が下手だ。忍務だと割り切れるようなことでない限り、他人を騙すことには不得手なのだ。
 どうしたんだろう。
 改めて視線を向けると、澪は俯いて目を逸らしてしまう。いつものような自然体じゃない、なんだか纏う雰囲気も固いし、心持ち距離も遠く感じる。けれど僕に対して怒っているとか、嫌っているとか、そんな風にも見えない。まるでそう……とても気に掛かることがある、ように見える。
「ああ、そうだ。薬箪笥の予備用の棚にね、乱太郎がくれた乾餅が入ってるよ。お土産だって。持って帰ってあげてね」
「え? えっと……あ、これだね。嬉しい、ありがとう」
「乱太郎、補習があるからって昨日戻ってきたんだ。本人にも礼を言ってあげてね」
「うん、もちろん。お母様のお手製かな。形が綺麗だね」
 無難な話題を出してみると、澪の雰囲気が少し柔らかくなった。僕もちょっと安堵して、このまま会話を続けようとした。
「朝に頂いたけど、美味しかったよ。乱太郎の母上が、お世話になっている先輩方にどうぞって持たせてくれたって。澪は、ご実家どうだった? ご両親とか親戚の方はお元気だったかな?」
 他愛ない話を選んだつもりだった。澪が話しやすいような、手軽な内容を。けれど僕がそう口にした瞬間、澪の表情は明らかに強張った。
「あ…………」
 反射的に澪の口が開いてなにかを言おうとして、けれど最初の音以外、言葉はなにも出なかった。見る間に青ざめていく澪の顔色に、さすがに僕も続きを促せなかった。
 僕から聞いたほうがいいのか、それともなにも聞かないほうがいいのか。それまで僕は迷っていたけれど、ここまで動揺させてしまったのならもうなにもなかったことにするのは難しかった。相変わらずなにも言えない様子の澪に、僕は一つ息を吐いて口にした。
「澪。なにかあったの?」
「………………」
 返事がないかと思っていたけれど、澪はゆっくりと俯いて、それから無言で頷いた。そう。なにかあっただろうことは、間違いないのだろうけど。
「それは、僕が聞いてもいいこと? それとも、聞かないほうがいいことかな?」
「あ、……あのね……、…………」
 澪はようやくなにかを口にしようとして、けれどまたそれだけで口を閉じてしまう。澪は焦ったように僕を見て、俯いて、自分の膝を見て、けれど思い直したように僕の顔を見て、目が合うとまた俯いてしまって、……それを幾度か繰り返してから、ようやくにぽつりと言ったのは、泣き声に近い、絞り出すような声だった。
「……ちがうの。伊作君に、聞いてもらわなくちゃいけないことなの」
「え? ……聞かなくちゃいけないこと?」
 思わず問い返すと、澪は僕と視線を合わさないまま、もう一度頷いた。ぎゅっと、澪の膝の上で、彼女の手が救いを求めるように握り拳を作った。
 秋風に木々が揺れる音がした。誰かが走っている音がした。誰かが誰かに呼びかける声が、遠く聞こえてきた。
 部屋の外の音が、急に大きくなった気がした。それは、僕達がなにも言わず、身動きもせず、ただ向かい合っていたからだろう。
 お互いの、次の言葉を待ちすぎて。
 ……僕に聞いてもらわなくちゃいけないこと、という澪の言葉に、僕は正直怖じ気づいた。それがもし良いことなら、澪はこんなに言いにくそうな態度を取るはずがない。ならば、それは。澪が言いにくいことって、それは。
 それは、一体なんだろう。
 嫌な予感がした。少しの悪寒。体温が下がっていく思い。
 それでも僕は澪を見て、澪は僕を見て、泣きそうに潤んでいる澪の瞳が瞬いて、ゆっくりと口が開いて、そして、
 そして────





 見慣れた、薄暗い天井。
 時間が止まったかのように、静まり返った家の中。
 頬に走った熱は、強い力ではないのに怒りを感じる、鈍い痛み。
 静まり返った家の中。呆然とする私。怯えて私にしがみつく、幼い弟。父と母の懇願する声。
 それら全てを否定する、鋭い棘のような言葉。

 ──あきらめなさい
 ──いっときの気の迷いだと思って捨ててしまいなさい
 ──悪夢だったと思えばいい
 ──すべて忘れてしまいなさい

 この想いも。
 恋を知った胸の高鳴りも。
 愛し愛された幸せな時間も。
 触れ合った温度も。絡めた指の記憶も。
 共に歩くはずだった未来もすべて。
 なにもかも、なかったことにして。

 ──すべて忘れてしまいなさい
 ──あきらめなさい
 ──あきらめなさい
 ──あきらめると言いなさい
 ──汚れた過去は消してしまいなさい
 ──跡形もなく、一欠片もなく
 ──頭の中から消してしまいなさい

 ──卑しいその男の記憶ごと、すべて!









 結局。澪はずっと、なにも言わないままだった。泣きそうな顔で、僕をずっと見つめていた。
 そのとき僕は、どうすれば良かったのだろうか。ずっと澪の言葉を待つべきだったのか。どうしたの、と優しく促せばよかったのか。無理に言わなくてもいいよ、と無責任な言葉を口にすればよかったのか。なにも言わず、ただ抱き締めればよかったのか。
 とにかく、僕はなにかをしようとした。声をかけようとして迷い、近くに寄ろうとして迷い、このままずっと待っていようか迷い、結局なにも出来なくて、ただ二人して時が流れるのを感じていた。
 それが打ち破られたのは、突然だった。
「すまん、入るぞ」
 声が掛けられ、勢い良く医務室の戸が開いた。僕と澪は同時にびくりと震えて、弾けるように戸に視線を向けた。その先には見知った教師が、心底呆れたような表情を浮かべていた。
「……おいお前達、なんだその過剰反応は。仮にも六年が二人も揃って、儂の気配にも気づいていなかったのか」
 僕達は余程驚いた顔をしていたのか。木下先生が、はぁ、と深くため息を吐いた。
「あ、す、すみません木下先生。ちょっとぼうっとしていて……」
「ん、なんだ? 取り込み中だったか?」
「い、いえ! そんなことはないですけど!」
 含みのある木下先生の口調に、僕はぶんぶんと首を横に振って否定する。普段はなにも言わないけれど、先生方だって生徒達の交友関係(と男女関係)などお見通しだろう。自分の頬が熱くなってるのが分かる。とことん僕は嘘がつけない人種だなと思いつつ澪の様子を見ると、澪は相変わらず、僕にも木下先生にも顔を向けず、ただ俯いていた。
「えっと……木下先生、なにかご用でしたか?」
「ああ。すまんが善法寺、今時間はあるか? 少しも手を離せないなら構わんが」
「あ、いえ、……大丈夫、です。はい」
 澪に視線を向けると、澪は戸惑った様子ながらも一つ頷いた。一人でも構わない、という返事だ。
「そうか。ならば悪いが、他の六年とやってきて欲しいことがあってな。半日から丸一日ほどかかるかもしれんが」
 学園生徒にとって、学園長先生や教師からのお使いは日常茶飯事だ。数日かかるものもたまにあるから驚かないけれど、他の六年と、という条件は珍しい。
「構いませんが、なにをすればいいんでしょうか?」
「ああ。先ほど登校してきた三年生が言っていたのだが、どうやら余所で悪さをしていた山賊が、この辺りに流れ込んできたらしい。そろそろ下級生達も登校してくる時期だからな、危険な目に遭わんように退治してきてくれるか」
 言いながら、木下先生が僕になにかを手渡した。紙と木片だ。山賊の人相表らしき絵と、学園の印が押された割符の片方だった。
「これは割符、ですか」
「ついでに町から米を取ってきてくれ。山賊が出るかもしれないここまで届けさせるのもなんだからな。学園の名と割符を出せば用意してくれるはずだ」
 そういえば、米は明日届く、と留三郎が言っていた気がする。
「分かりました。六年全員ですか?」
「六年の中で手が空いてるやつ、だな。全員出すほどでもないだろう。儂が他の六年に声をかけておくから、準備が出来たら正門ででも待ち合わせしとってくれ」
「はい、お願いします」
「悪いが、頼む。賊の規模が大きくてお前達では手が足りんようなら、教師も出るからな。とりあえず様子を見てきてくれ」
 それでは、と言い残して、木下先生は他の六年を呼びに去っていった。人相表と割符を今一度眺め、僕は傍らの澪を見た。
「そういうことになっちゃったから、その」
「……うん。行ってらっしゃい」
 先生が仰るとおり、賊を潰してくるのが目的なら、すぐには帰ってこれないだろう。長引けば丸一日、もしかしたら日を跨ぐことになるかもしれない。だとすると。
「……大丈夫だよ」
 澪は僕の複雑な感情を察したのか、小さく頷いた。
「急ぐ、ことじゃないから。今じゃなくていいの。だから、戻ってきたら、聞いてくれる?」
「うん、もちろん」
 澪は、ほっとしているように見えた。本当は言わなくてはいけないけれど、今は言わなくて済んだことに、安堵を覚えているように見えた。
 本当のことを言うと、聞かなくてもよくなったことに、僕自身も少し安堵していた。気になるのは確かでも、澪の様子があまりにもおかしかったから。
「それじゃ、準備をして行ってくるよ。帰るの遅くなるか……、もしかしたら明日になるかもしれないけど」
「大丈夫。医務室で待ってるよ。……気をつけて行ってきてね」
「うん、ありがとう」
 保健委員の仕事は、澪がいてくれれば大丈夫だ。澪が不在の間の引き継ぎを手短かに説明して、僕は足早に医務室を出た。
 もう一度、気をつけてね、と送り出してくれた澪は心配そうでもあったけど、やっぱりなんだか、とても安堵した様子だった。






「お、来たな伊作。これで全員か?」
「あれ、君達だけかい?」
「おー、いさっくんも行くのか! じゃあ私達三人だな!」
 準備をして正門に着くと、そこにはすでに小平太と留三郎が待っていた。長次は本の整理で手が離せないらしく、仙蔵は気が乗らず、文次郎は昨日の夜から遠くの山まで鍛錬に行って留守らしい。分かっていたことだけど、やっぱり僕の学年はまとまりがない。
「じゃあ、行くか。おい伊作、割符は俺に寄越せ。お前が持ってるとすぐ落とすだろ」
「そうだね、頼むよ」
 母親みたいな言い方の留三郎に(けれど正論なので)素直に割符を手渡して、僕達は外出届を小松田さんに提出して、学園の門を出た。風は少し冷たいけれど、秋晴れの気持ちのいい天気だ。山に入るには丁度良い。
「山賊退治なんて、文次郎必ず来ると思ったんだけどなあ。いつも戦いたがってるのに」
「学園にいねぇあいつが悪いんだろ。昨日委員会室をめちゃくちゃにした報いだな」
 けけけ、と悪い顔で留三郎が笑う。文次郎と同じく、留三郎も戦うのが好きだからだろうけど、まぁ、二人揃うと僕もいろいろと面倒だし、いいか。
「時間がかかるかもしれないけど、二人ともそれはいいの?」
「体育委員会は自主練にしてきたからな、別にいいぞ! 委員会は滝夜叉丸がいれば心配ないし、山賊退治なんてすごく楽しそうじゃないか!」
「留三郎は? 委員会置いてよかったのかい?」
「たまには俺も息抜きが必要だしな。作兵衛に俺がいない間頼むぞって言ったら、真剣な顔で『は、はい!俺、食満委員長みたいに頑張ります!』って握り拳つくって言ってきて超可愛くないかこれ」
「小平太、先生から人相表もらったかい? 目を通しておいたほうがいいよ」
「えー、どうせ山賊なんか一目見たら分かるだろ。私そういうの覚えるの、面倒で嫌いなんだ」
「人相が悪いだけの一般人かもしれないんだから、ちゃんと見ておきなよ。それで、まずどこから行こうか?」
「えっとな、木下先生が、賊が出たのは裏裏裏山あたりだって言ってたからな、まずそこから行くか」
「しかもちょっと聞いてくれよお前達、作兵衛だけじゃなくてしんべヱと平太も俺の足に片方ずつぎゅってして『せんぱい、ぼくたちもがんばりますっ』とか言ってきてもう、ほんとうちの子天使だわ俺絶対山賊駆逐する」
「あー、はいはい。後輩自慢もそこまでにしておいてよ」
 誰も聞いていなくても放っておくとずっと話し続けるのに違いないので、とりあえず軽く肩をこづいておいた。後輩を大事にするのはとても良いことだけど、留三郎はたまにちょっと行きすぎのように思うことが多々ある。もちろん僕も、委員会の後輩達はとても可愛いし大切だけど。
「ま、そんなわけで俺はしっかりと忍務を終わらせて笑顔でかっこよくあいつらの元に戻らなくちゃならんからな、攻撃は俺に任せてお前達は支援を頼むぞ」
「よし、じゃあ私が大将な! とりあえず攻撃は最大の防御だぞ! 見つけたら先手必勝で殴るぞ! いけいけどんどんだ!」
 二人とも気合十分に、人の話を聞いていない。まあ、僕達の学年に団結を求めるのは酷というものだ。やる気満々の二人に到底ついていける気がしなくて、僕は二人から数歩遅れた後ろを歩く。僕は普段からこの手のものに積極的になれない性格だけど、それでも今日は特に気合が入らない。勿論それは、先ほどの澪とのやり取りが僕の思考を占めているからだ。
 やっぱり、きちんと澪の話しを聞いたほうがよかったんじゃないだろうか。澪は帰ってきてからでいいと言っていたけれど、先生の頼みを断わることも出来たのだ。きっと大事な話だったのだから。
 ぼんやりとぐるぐる考えていたら、前の二人が僕の様子に気づいたのか、いつの間にか足を止めていた。二人を追い越そうとしていたことに気づき、僕も慌てて足を止める。
「なんだいさっくん、元気ないな? どうしたんだ?」
「おい伊作、お前がぼうっとしてると必ず転ぶか穴に落ちるか、とにかくろくなことにならないからな。気合入れて歩いてくれよ」
「ああ、ごめん。ちょっと考え事をしてて……」
「ほらほらいさっくん、薬草だぞ? お前薬草好きだろ? 元気だせ?」
「そんな道ばたにただ咲いてる雑草引っこ抜いて持ってこられても、元気は出ないからね? ……まあ、ありがとう」
 一応受け取って苦笑する。そうだ、二人に迷惑をかけてはいけない。とりあえず今は澪とのことは置いておこう。
 そう決めてまた三人で歩き出すと、留三郎が合点が行ったように「あ」と声を上げて僕を見た。
「そういえばお前、澪はどうだったんだ?」
「なんだなんだなんだ、いさっくん喧嘩でもしたのか!? 別れるのか!? だから元気ないのか!? 振られたのか!? やっぱり穴に落ちる男は嫌なのか!?」
「縁起でもないこと言わないでくれるかな!? 別に喧嘩なんかしてないよ。ただちょっと、澪が元気なさそうでさ」
「なんだお前、まだ理由聞けてないのか?」
「なんだなんだなんだ、面白い話か!? 私に話してみろ! 相談に乗ってやるぞ!」
 きらきらと顔を輝かせて話しに入ってくる小平太に、どうしようかと少し悩みつつも、結局僕は口を開いた。どうせ言わないと延々と聞かれるだろうし、僕自身も不安だったから、誰かに聞いてもらって気を紛らわせたかったんだと思う。
 とは言っても、説明するにしても僕も大したことは知らないのだ。どうも澪が言わなくてはいけないのに言いづらいことがあるらしくて、様子が変で気になっている、ということしか伝えられない。二人も助言しようがないだろう。
 実際留三郎は少し考えるように首を捻ったけど、なぜか小平太は衝撃を受けたような顔になった。どうしたの、とこちらが聞く前に、恐る恐ると言う。
「え……言いづらいことって……澪、もしかして死ぬのか?」
「ちょっと土下座して謝ってくれるかな。そんなわけないだろ!」
「だ、だって、言い出しにくいことってそういう意味じゃないのか? 不治の病とか……」
「違うよ! 僕も一応保健委員だよ? 体調が悪いのかどうかくらい、見れば分かるよっ」
 さすがに語気を荒げてしまうと、そうかー、と小平太は納得したように頷き、それからすぐに、あ、と声を上げた。
「じゃあさ、普通に隠し子がいるとか、そういうことじゃないか?」
 留三郎はともかくとして、やっぱり小平太に相談というのは人選間違いだったようだ。返事をする気にもなれない僕の代わりに、留三郎がため息を吐く。
「おい小平太、お前ん中では隠し子がいるのは普通なのかよ」
「いやいや、別にそういうわけじゃないけどさー。ほら、言いづらいけど言わなくちゃいけないことってさ、今まで秘密にしてきたことを打ち明けるときが多くないか?」
 小平太の言葉に、一転してなるほどそうかもしれないな、と僕は思う。今まで秘密にしていた負い目があるから、内容が大したことではなくても言いづらいだろう。
「なあなあ、どうするいさっくん!? 澪に隠し子がいたら!」
「え? いや、さすがに僕もあれやこれやしてるし、経産婦だったら気づくと思うけど……」
「いさっくんつまんないな! もしもの話しだぞ!」
「……うーん、驚くけど、澪の子だったら可愛いと思うな」
「えー、そんなに簡単に割り切れるかー? 誰の子か分からなくてもいいのかー?」
「そうかな、誰の子か分かってるほうが嫌じゃない?」
「いやいや、俺は子どもはとてもとても可愛いと思うぞ。他人の子だろうが愛した恋人の産んだ子だ、きちんと愛情を注いで育てるべきだ。むしろ血の繋がりなどなくても構わない。養子でもいい、一から育てたい」
「素晴しい考えだと思うけどさ、留三郎の場合はなんだか視点がずれてるような気がするよ」
「あとは、そうだなー。今まで言えなかったけど、いさっくんのこういうとこが嫌! これだけはやめて欲しい! とか」
「ああ、不運が嫌とか、噛むのやめてほしいとか、足が臭いとか」
「……言いたい放題だね君達……」
 他人事だと思って、小平太と留三郎はああじゃないかいいやこうだろうと語り合っている。なんか伊作がヤるときねちっこいんだろおっさんみたいに、とか、いやいや澪の実家に莫大な借金があって気にしてるんだ、とか、僕のなにを知ってるんだと言いたいことや、むしろ僕から澪に土下座して謝らなくちゃいけない気がすることまで、なんでもかんでも好きに言っている。
 けれどその数々を呆れながら聞きながらも、僕は少しほっとしていた。たとえば僕に悪いところがあるなら直すように努力するし、澪が僕に隠し事をしていても理由が分かれば許せると思う。六年間一緒にいたからそんなことはないと分かってるけど、たとえ本当に隠し子がいたとしても、きちんと話し合えば、僕はその子を愛する努力は出来ると思う。もちろん、多少複雑な気分になるのは間違いないだろうけど。
 今までにあんな澪の様子を見たことがなかったから、僕はかなり気にしていた。けれど、そうだ。僕が想像出来るようなことなら、たぶん、大丈夫だ。悩みなんて、本人以外には大したことない内容だったなんて、よくあることだし。
「きっとああ見えて、澪は裏で賭博場と女衒屋を牛耳る悪女だったんだ。そんな闇の道に伊作を引きずり込んでしまうことをよしとせず、身を引こうと……」
「いや、違うぞ! 澪は本当は雪女で、昔いさっくんが助けた雪だるまが成長した姿だったんだ! 恩返しにと現われたけれど、もう人間の形を保つのが精一杯で……!」
「君達は放っておくといつまでも止まらないよね」
「む。ねちっこいいさっくんがお怒りだぞ。噛み癖もあるらしいぞ」
「真夜中は別の顔の伊作が怒ってるな、いい加減にしとくか」
「しかもすぐそっち方向に持っていくんだね」
 噛み癖とかないから。ねちっこくもないから。たぶん。
「よし、そんじゃ山賊退治の予行練習でも頭ん中でしとくか」
「全員ぼこぼこにして終わりだぞ!」
 ようやく話題が変わったので安堵しつつ、けれど僕もだいぶ救われた気分だった。どうせあれこれ考えていても、事実を知っているのは澪だけなのだ。ならば早く終わらせて学園に戻り、きちんと澪と向かい合って話しを聞こう。澪が言えないなら、言えるようになるまでゆっくり待てばいい。そう思えただけでも、二人に話しを聞いてもらった甲斐はある。ありがとう、と心の中だけで、今度は山賊退治に気合を入れている二人に感謝した。
「さーて、どうやって痛みつけてやろうかな……。この間開発した必殺技を一通り試してみねぇとな。ええと必殺技一覧を予習しとかねぇと。どこ行ったっけ」
「なんなら私は足技だけで戦うかな! どうせ最終的にはやっつけるんだし、こっちも楽しまないとつまんないしな! お前達をぶちのめすなんて、私のこの足だけで十分だ……まとめてかかってこい! なーんてな! なはははは!」
「おいこら小平太、お前一人だけそんなのずるいだろ! それかっこいいぞ!」
「えー、じゃあお前は手だけで戦ったらどうだ?」
「ふむ、それなら右手は封印して左手だけで戦うとするかな。実は俺はお前達を倒すのに左手だけで戦っていたんだぞ……よし、かっこいいな」
「え、かっこいいかな……それ本当にかっこいいかな……」
 僕達の学年はどうしてこうも自己主張が激しいんだろうか。まあ、最上級生なんて大抵そんなものかなとは思うけれど。
 いい加減僕も気持ちを切り替えて、山賊退治に思考を向けることにした。さっさと終わらせたいし睡眠薬か筋肉弛緩剤でも使おうか。どうせ二人にはあまり効かないだろうから風上を先に確保してとりあえず撒いてしまうとか……。
「少しは骨がある奴らだといいんだけどなー、どうせだから楽しませてほしいよな!」
「こそこそ山賊なんかしてる奴らに期待するのも酷だけどな。あー、たまには忍者隊でも攻めてこねえかな」
「やめてよ縁起でもない。先生方と君達ならともかく、後輩達が危ないよ」
「いやいや、守るものがあるやつのほうが強いんだよ。だから…………、ん?」
「お?」
「あれ?」
 留三郎の言葉と同じく、小平太、僕、と続いて声を上げる。同時にぴたりと足を止めた。山へと続く曲がりくねった小道、前方に覆い茂る木々の向こうから姿がちらりと見えるのは、よく見知った相手だった。
 大声を出さなければ聞こえないほど離れてはいるけれど、視認は十分に出来る距離だった。学園の後輩が二人。そのうち一人が引いているのは、荷物が乗った大八車だ。
「あれは尾浜と……鉢屋か?」
「そうだな。目が合ったのに軽く会釈だけしてきたから、鉢屋だな。不破なら、深々と礼をするはずだ」
 小平太と留三郎が、やけに固い声で淡々と言う。二人の視線は、じっと後輩の引いている大八車に向けられていた。
 やがてさほどの時間もかからずに、後輩達と大八車がすぐ前まで来た。憮然としている留三郎と小平太をものともせず、勘右衛門がにこやかに笑う。
「どうもこんにちは、先輩方!」
「奇遇ですね、自主練中ですか? いつもと面子が違いますけど」
「はいはい、僕がおかしいんだろう? それにしても君達、お米、取ってきてくれたのかい?」
 留三郎と小平太がむっとしたままなので、僕が二人に訊ねる。大八車には二種類のものが積んであり、その一つが米俵だった。
「はい! 学級委員長委員会の備品を買いに町に行ったんですけど、ついでにお米屋さんのご主人に頼まれたんですよ」
「ま、米ないと私達も困りますし」
「えーと、一応割符は僕達が持ってるんだけど」
「あれ、先輩方、もしかして取りに行くところだったんですか? 割符は常連だからいいって言ってましたよー」
「緩いなあ。まあ一手間なくなったからいいけどね」
 僕がやれやれと苦笑した直後、小平太と留三郎が一歩ずつ前に進み出た。
「それで、だ」
「お前達に聞きたいことがあるんだが……」
 二人の据わった目が、大八車を睨み付けている。勘右衛門が引いているそれには、前述通り二種類のものが積まれていた。一つはもちろん、米俵。そして……。
 小平太と留三郎は、同時に言った。
『そいつらは一体なんだ?』
 鋭い声と殺気。下級生や、この二人以外の五年生ならびくりと震えたかもしれない。けれど飄々としている三郎と脳天気な勘右衛門は、言われたことを素直に答えた。こちらも、同時に。
『そこらにいた山賊です』
 大八車の上、米の隣には、三人の男達が身体中ぐるぐるに縛られて身動き一つ出来ない状態で乗せられている。人相の悪さは先ほど絵で見た通り、もがもがと悔しそうに声にならない声が漏れている。
「なんか米を奪おうとしてきたので、とりあえず軽く殴って簀巻きにしておきました」
「町に戻るより学園に行くほうが近かったんで、先生方にご指示を仰ごうと思って連れてきました」
「ほう……山賊、か……」
「ほほう……山賊を、ねえ……」
 ゆらりい、と二人が悪鬼のような気配でもう一歩ずつ前に進み出る。殺気を受けてか、びく、と山賊達が震えた。
「俺達が狙っていた山賊を、なぁ……」
「私達がぼこぼこにするはずだった山賊を、なぁ……」
「こら、二人ともやめなよ。手間が省けてよかったじゃないか」
「うるさーーーーーい! 俺がどんなにわくわくしてたかお前には分からないだろ!」
「ええい、私だって暴れたかったんだぞ! お前達だけずるいぞ尾浜と鉢屋!」
 


食満留三郎夢『wiki食満編』
2013/08/16 (金)
なかなか書けないにもほどがあるので、何ヶ月も前にうめこさんのお誕生日祝いで勝手に書いて勝手に押し付けたものを許可を取って載せさせて頂きます。
うめこさんは食満が好きなので何種類か食満話を書いて押し付けたのですが、その中で一番万人向けだったWikipediaっぽい説明食満(ケマペディア?)の超短編です。内容はとてもとてもとても普通です。
他にもあほのは組食満やらロリコン食満やらちっちゃい食満やらおっきい食満やらいろいろ書かせて頂きました。うめこさんお誕生日おめでとう!

 

 なんだか食満がぶつぶつ呟いているのが聞こえる。

「……は、……の前の一段階。お互いの疎通を計る行為である。二人が適年齢に達していない、またその他二人が事実として関係性がなくとも行われることがある。また参考資料によれば各国で違いが……」
「なに言ってんの食満」
「うわっ!」

 なにをしているのかと後ろから覗き込んでみると、食満は忍たま(それも六年生)にあるまじき悲鳴を上げた。腰を下ろしていた木陰から咄嗟に立ち上がるほどの異常反応に、こっちの目も点になる。

「……え、あれ、ごめん……?」

 あまりの反応に極秘資料かはたまた春画でも読んでいたのかと思ったけれど、食満は完全に手ぶらだった。本当にただぶつぶつと呟いていただけらしい。

「あ……いや、こっちこそ悪かった。ちょっと考え事をしていてな」
「考え事してるだけであの反応はまずくない? 仮にも来年からプロ忍者でしょ」
「そ、そうだな。気をつける」

 言い返さないところを見ると、本当にただびっくりしただけらしい。それはそれでやっぱりどうかと思うけど、これ以上つついても可哀想なだけだろう。
 さすがに気まずいのかそわそわしている食満に、話しを変えようと仕切り直した。

「あのさ食満、吉野先生が探してたよ。頼んでた小屋の修補、出来たら今日中にやってほしいって」
「あ、ああ、そうか、分かった。今から行く」

 やっぱりまだ挙動不審に私からそわそわ目を逸らす食満に、ちょっと可哀想になってきた。たぶん私が後ろから驚かしたのが(悪気はなかったのだけど)原因だろうから。

「よかったら、私も手伝おうか? なんか調子悪そうだけど」

 いつもの食満ならともかく、今の食満だと金槌で親指を打ってしまいそうだ。

「え!? あ、いや、その……そうか。うん、……手伝ってくれるか」
「うん、いいよ」

 本当に挙動不審も極まりない。食満は落ち着かせるためか深呼吸をしたあと、ぱちん、と両手を合わせ、「よし」と頷いた(気合を入れるようなことでもあっただろうか)。

「んじゃ、よろしくな。衣料品倉庫の壁が脆くなっててな」
「うん、分かった」

 食満に続いて、衣料品倉庫へ歩き出す。ちらりと食満のいた木陰を見ると、随分長い間そこにいたのか、座っていたのだろう場所の草が綺麗に平らになっていた。




 少し前に梅雨入りしたらしく最近雨が多いけれど、今日はわりと綺麗に晴れていた。それで用具委員の下級生達は延び延びになっていた合同校外実習に向かい、動ける用具委員は食満だけだったらしい。

「食満、ここの金鎚使ってもいい?」
「ん? ああ、金鎚とは金属製の槌という意味であり、物を打ち付けたり、潰したりする工具の総称である。本来は打撃部分が木製のものを『槌』、金属製のものを『鎚』と書く。歴史は有史以前に遡り……」
「いいから。解説はいいから。これ使っていい?」
「どうぞ」
「どうも」

 やっぱりまだ本調子ではないらしい。前々から聞いてもいないのに勝手に解説しだす悪癖はあったけれど、さすがに私が金鎚の意味を知らないとは思っていないだろう。なにをそんなにてんぱっているのやら。
 挙動不審ながらも、一応用具仕事には慣れているからだろう、食満の腕はわりとてきぱきと仕事をこなしていく。それでも顔はぼうっとしたままだ。

「本当にどうしたの、食満? なんか悪いものでも食べたの? あんたたちは腹痛なんて滅多におこらないかもしれないけど、食中毒とか怖いんだよ?」
「食中毒とは、有害・有毒な微生物や科学性毒素を含む飲食物を口から摂取したことによって起こる、下痢や嘔吐や発熱などの中毒症状の総称である。代表的なものに生魚を摂取した際に……」
「はいはい、善法寺みたいなこと言わなくていいから」
「善法寺とは、忍術学園六年は組在籍、善法寺伊作のことである。不運の代名詞として呼ばれる保健委員会の委員長を務め、事実学園最大の不運に見舞われる人物である」
「無理に解説しなくても、話したくなかったら無言でいいよ?」
「はいすみません」

 どうやら、私に不調の原因を聞いて欲しくはないらしい。とはいえ傍にいることを拒絶していないのだから、別に私が鬱陶しいというわけでもないのだろう。まあ、そういうことならしつこく聞かずにそっとしておくのが一番かもしれない。
 食満が修補をしている背中合わせに、私も金鎚と釘で修補用の部品(壁に取りつける交換用の引き戸の部品だ)を作っている。私は用具委員会ではないけれど、食満とは長い付き合いだから、用具の手伝いをしたことも一度や二度ではない。普段身の回りの大工仕事をすることもあるから、簡単な修補くらいなら、いちいち指示がなくとも流れは分かる。
 しばらくそうして、私も食満も無言でとんとんかんかんと作業をしていた。
 改めて思えば、確かに食満とは六年もの付き合いだ。六年の間でそりゃ見た目も取り巻く環境もいろいろ変わったけど、私と食満の距離感はあまり変わっていない気がする。
 どえらい喧嘩をしたこともないし、どえらい進展があったわけでもない。会えば適当に話して、こうして用具仕事を手伝ったり、逆にこっちの仕事を手伝ってもらったり、それくらいのものだ。
 そういや来年の春は卒業だなあ、とかなり他人事に思う。卒業したら、こうして食満と背中合わせに修補をすることもまったくなくなるのだろう。まあ食満に限った話しではなくて、学園に関する全てがなくなってしまうのだけど。

「……ちょっと寂しいねえ」
「寂しい、とは感情表現の一種であり」
「いいから」

 なんとなく呟いた言葉にも、食満は過敏に反応して解説しようとする。そういえば、とようやくに思い出した。普段から解説好きな食満がどうでもいいことまで解説し出すとき(というか、解説以外しなくなるとき)、それは大抵悩んでいるときだ。委員会を決めるとき、得意武器を決めるときなんかに、そんな兆候があった気がする。つまり今回もなにかに悩んでいるのだろうけど。
 来年の春には卒業、ということは。

「そっか。悩む食満見るのも、あと少しだけかー」

 またなんとなく呟いてしまうと、びくり、と後ろであからさまに食満が反応した。おっとしまった、つい口に出してしまうのは私の悪い癖だ。悩んでいる、ということも教えたくなかったのかもしれないのに。

「あー、ごめん食満。別に悩んでる理由なんて聞かないからさ」

 繰り返しになるが卒業が近いのだから、食満もいろいろ悩むことがあるだろう。助言できる大人ならともかく、私みたいな他人が踏み込んでいいものじゃない。
 ごめんね、ときちんと伝えようとくるりと後ろを振り向いたとき、こちらに背を向けている食満が、ぽつりと言った。

「……とは、結婚を決める前の一段階。お互いの意思疎通を計る行為である」
「はい?」

 なにを言いだしたのかと首を傾げる私に答えず、食満はしばらく無言を貫いた。なにも言わずに続きを待っていた私は、ふと今呟いた食満の言葉が、さっき私が後ろから食満を驚かせてしまったとき、ぶつぶつ食満が言っていたことだと気がついた。

「あのさ、食満……」
「……とは、結婚を決める前の一段階。お互いの疎通を計る行為である。二人が適年齢に達していない、またその他二人が事実として関係性がなくとも行われることがある」

 しばしの沈黙のあと、そう繰り返した食満はゆっくりこちらを振り向いた。視線を合わせているようでぎりぎり合わせていない、そんななんとなく不自然な雰囲気で。

「……食満?」
「結婚しよう」

 突然の言葉に、私は身体の全てがかちんと固まった。食満は小さく息を吐くと、「求婚」と呟く。

「求婚とは、結婚を決める前の一段階。お互いの疎通を計る行為である。二人が適年齢に達していない、またその他二人が事実として関係性がなくとも行われることがある」

 もう一度、ゆっくり息を吐き、食満は今度は固まったままの私をしっかり見た。食満の手が伸びて、金鎚を持つ私の手の上に重なる。ぎゅっと、手が握られた。
 それから、もう迷いのない声。


「俺と結婚してくれ」










「うん」

 思わず反射的に、そんな簡単な返事をしてしまってから、ようやく気がついた。
 ああ。そうだね。
 私も、卒業しても食満といたい。
 悩むたびに解説しかしなくなる食満と。一緒に。



「私と結婚してください」

 私からも言って、ぺこりと頭を下げる。数秒経って頭を上げると、真っ赤な顔をした食満が、「……うん」となんだか可愛い返事をくれた。






 終


富松作兵衛夢『帰る場所』※閲覧注意
2013/05/31 (金)
なかなか書けないので、去年自己満足で書いて置きっぱなしにしていたものをこっそりアップします。すみません。
あまり万人向けな話しではないので注意書き必読でお願いします。
次は文次郎夢をアップできたらいいなと、今ぼちぼち書いてます。


 
作中で明記はしていませんが、トリップ設定です。
かなりシモな感じの描写もある看病ネタです。麗しいものでもほのぼのしたものでもなく、むしろ汚い感じです。具体的には嘔吐。
サイトに掲載している作兵衛夢、『いつの世までも末永く』『ダイエットをしよう! 作兵衛ver』のそのまま続編です。
かなりヒロイン設定の主張が激しいです。お嫌いな方はご注意くださいごめんなさい。


 


 最初は船酔いに似ていた。軽い目眩と、お腹の中がぐるぐるする感覚。
 だけど私は船になんて乗っていなかったし、いつも通り学園内にいて、昼休みに一度自室へ戻ろうと渡り廊下を歩いていただけだった。
 なんだかふらふらと倒れそうになって、近くの柱に手をついて身体を支えた。
 風邪かなにかかと思ったけれど、それにしては全身のだるさや悪寒がない。
 最近疲れていたわけでもないし、身体が冷えているわけでもない。月のものの血の足りなさとも違う。

「あれ、澪どうしたの? お腹でも痛いの?」

 柱に手をついてゆっくり肩で呼吸をしていると、通りすがりの友達が駆け寄って顔を覗いてくれた。瞬間、友達はぎょっとした。

「ちょっと、すごく顔色悪いじゃない! 待って、今医務室から誰か呼んでくるから! それとも先に厠行く!?」
「……う、ううん」

 あまり大袈裟にはしたくなかった。体調が悪いのは確かだけど、たぶん部屋までは一人で歩けるだろう。そんなに辛くないから大丈夫、と。友達の善意を断ろうとした、そのとき。
 咄嗟に庭に身を乗り出せたのは幸運だった。口元を手で押えていたけれど、なんの抑止力にもならなかった。
 胃から逆流したものが、庭にぼとぼとと落ちていく。胃が軋む。強烈な吐き気。友達が慌てて背中をさすってくれて、その度に胃の中のものを口から吐き出した。
 全身から汗が噴き出す。目眩がする。ああ、そうだ覚えがある。
 自分ではどうしようもない苦しい嘔吐。これは……



 ──澪、苦しいよね。ごめんね。お母さんが代わってあげられたらいいのに。ごめんね。



 これは。



「澪、大丈夫!? ちょっとごめん誰か! 誰か先生か保健委員呼んできて!」




 ──おかあさん。





 










「面会謝絶。絶対安静。つまりお前には断じて会わせられない」

 口元を白い厚布で覆っているせいか、数馬の声は聞こえにくい。煮沸消毒済みのこれまた白い手袋を嵌めながら、数馬はじろりと俺を睨んだ。呆れたように。

「これで五回目だ。もういい加減諦めろ」
「嫌だね。大体俺は澪先輩に会わせろって言ってんじゃねぇだろ。看病させろって言ってんだ」
「尚更駄目に決まってるだろ。風邪の看病なんかとわけが違うんだぞ」
「だって澪先輩、誰も看病すんな近付くなって言ってるんだろ? お前も」

 言ってやると、数馬は困ったように片眉をひそめた。昼に倒れた澪先輩は、自分の病状に気づくと離れの小部屋に閉じこもり、誰も近付かないで欲しいと頼んだらしい。相当酷い吐き気と熱らしいのに、先輩は数馬含めて教師陣や保健委員が看病しようとしても、懸命に拒むらしい。

「もしかしたら、先輩は感染すると思ってるのかもしれない。一応僕も万が一に備えてるんだけど」

 白い口の布当てや手袋を視線で指し、数馬は「だけど」と言葉を続ける。

「症状は食あたりだ。食あたりは他人には感染しない」
「でもおかしいだろ。澪先輩が食べたものなら、俺やお前や、くの一教室の先輩方だって食べてるじゃないか」
「……食あたりの症状には個人差がある。今は冬だけど最近温かい日が続いてたから、澪先輩だけ特に痛んだものを食べてしまったのかもしれない。体調が悪い一人にしか症状が出ないこともある。だから別におかしくない」
「本気でそう思ってねえだろ?」

 淡々とした数馬の言葉に思わず口を挟むと、数馬は一度押し黙り、小さくため息をついた。長い付き合いだ。数馬がなにか腑に落ちない様子なのはすぐ分かる。

「……昔からなんだ」

 数秒の沈黙の後、数馬は複雑そうな顔で俺を見た。次いで視線を向けるのは、澪先輩がいる離れの方向だ。

「澪先輩な。たとえば毎年流行る病があるだろう? 酷い風邪とか、麻疹とか。そのほとんど、感染しないんだ」
「感染しない?」
「しないってのは語弊があるな。たとえば澪先輩は、軽い風邪程度なら罹る。当然体調を崩すこともあるし怪我もするし、それは他の生徒達と同じだ。だけど、学級閉鎖が起こりそうな感染力の高い酷い病は滅多にかからない。大抵一人だけ元気で、先生達とかと一緒に看病をしてくれてるんだ」
「……そういや昔、俺らが全員酷い風邪にかかって寝込んでたとき、澪先輩、水とか替えに来てくれたな。教師の手が足りないから、許可もらって男子の長屋を回ってるって」
「ああ。普通はな、いくら身体を鍛えていても、流行病は防げないことが多いんだ。ましてや学園内で同じ飯を食ってれば、感染する確率はかなり高い。でも澪先輩は、ほとんど罹らない。七松先輩でも罹るような病でも」
「なら……」
「逆のこともあるんだ。澪先輩だけ、酷い風邪を引いたり酷く腹を壊したりすることがある。それは大抵の場合俺達には感染しない。澪先輩だけなんだ」

 数馬は一度そこで言葉を切り、一息に言った。

「澪先輩は、俺達と少し身体の構造が違うのかもしれない」

 ……それは。どういう意味なのかと。
 言葉の真意を問おうとしたとき、数馬がさっきの言葉を打ち消すように「ま、でもな」とさきほどよりも大きな声で続けた。

「単なる偶然かもしれないし、今回は特に、ただの食あたりのはずだから」
「……ただの食あたりなら、尚更いいだろ。お前じゃ追い返されるだけなら、俺が行ったほうがまだましじゃねぇか」
「嫌がられてようがなんだろうが、生徒の健康を守るのが保健委員の務めだ。お前が澪先輩の恋人だろうが婚約者だろうが、これはお前じゃなくて僕の役目なんだよ」
「ばばばばばばかいってんじゃねーよ、だれがこここんやくしゃとかそんな!」
「そこで赤くなる意味が分らないんだけど……ま、そういうわけだから諦めろ」
「い、や、だ!」

 保健委員の仕事には真面目で頑固な数馬だが(そういうところも、相変わらず不運なところも前保健委員長に似ている)、俺にだって譲れない理由がある。こ、婚約者ってのはともかく恋仲なのは間違いないし、心配するのも看病したいと思うのも当然だろう。

「言っておくけど、かなり酷い状態だぞ。万が一感染したら、いくらお前でもタダじゃすまない」
「別に感染しても構わねぇし。死にゃしねぇだろ」
「そりゃ、お前達ろ組は規格外だからな。放置しておいても死なないだろうけど……。あーもう、……はあ」

 呆れたようなため息に、勝った、と俺は思った。数馬が折れる寸前だ。

「頼む。容態が悪くなったり、俺じゃ無理だって思ったらすぐに言いに来る。俺が罹ったときは他のやつに感染しないように隔離されてもいいし、全部お前の言うとおりにするって約束する」
「…………」

 下手に出つつゆっくり押してみると、数馬は思案するようにじっと俺を見て、それからゆっくりと口を開いた。

「今言ったこと、約束出来るな?」
「出来る。男と男の約束だ。指切りするか?」
「しないよ馬鹿らしい。…………そうだね。生徒の健康が一番、だからね。看病しに行っても門前払いじゃあ、最終的には実力行使するしかないし」

 たぶん数馬本人も、澪先輩が看病を拒絶することに悩んでいたんだろう。数馬は仕方なそうにぶつぶつと何事か呟きながら、薬箪笥から幾つかの薬や道具を用意し始める。
 なんとなく、分かる気がする。
 澪先輩は、学園に入学する前に天涯孤独になったらしい。前に住んでいたところも、この近くじゃないらしい。そのせいか、澪先輩は他人に弱みを見せないし甘えたりもしない。完璧な壁を作っているわけでもねぇけど、極力他人を自分の傍に寄せないようにしている。
 それはたぶん、癖とか性格とかじゃない、あのひとの処世術の一つだ。

「とりあえずこれ、白湯と整腸剤な。白湯は口に入れてすぐ吐くだろうけど、なくなったら作って、とにかく嘔吐が治まるまで飲ませ続けろ。嘔吐がましになって横になれるようになったら、整腸剤を飲ませる。いいな?」
「分かった」
「あと、梅干しな。これも食べてすぐ吐くだろうけど、それでいいから白湯と一緒に口に含ませるんだ。吐いてばかりだと脱水症状を起こすから、必ずな」
「ああ」
「身体を温めて、あまり動かさないように。とにかく、辛いだろうけど吐き続けていればいずれ治まるはずだから」

 そこで数馬は少し言い淀むようにして、結局すぐに続けてきた。

「たぶん嘔吐だけじゃなくて下痢も起こしてるから、厠にも頻繁に連れて行って。あんまり言いたくないけど、漏らしちゃうこともあるかもしれない。……よく考えろよ、腹下してるんだぞ? 少しでも無理だと思うなら初めから言ってくれ。お前はどうでもいいけど、先輩が傷つく」
「馬鹿言うな。好いた女の下の世話くらい出来なくて、なにが恋仲だよ」
「作兵衛。台詞は格好いいけど、それ逆の立場だったらどう思う?」
「死にてぇくらい恥ずかしいけど嬉しい」
「……まあ、いいか。容態が悪くなったりなにかあったらすぐ呼んで。僕はずっと医務室にいるから」
「ああ、ありがとな」
「重ねて言うけど、無理そうならすぐ帰ってきてよ。澪先輩も、本当は一番お前に世話されたくないかもしれないから」

 数馬はそう言うと、あとは無言で、俺に消毒済みの布を手渡した。










 渡された薬やら白湯やらを抱えて、澪先輩がいる離れへと向かう。必要ないと言ったけど、他に感染するかもしれないからこれだけはしておけと厳命されて、手袋と消毒剤だけは渡されている。部屋から出るときや井戸に行くときに使えばいいらしい。
 学園内はもう日が沈んで真っ暗だ。澪先輩のいる離れは今はあまり使われていない教室長屋で、人通りすらほとんどない。だからこそ澪先輩はここに閉じこもったんだろうけど。
 薄暗い中、ぽつんと灯りのついている部屋がある。数馬に教えられた通り、あそこに澪先輩がいるんだろう。足早に駆け寄り、両手に抱えた荷物を下ろして戸を開けようとしたとき、「入らなくていいよ」と部屋の中から声がした。

「なにか……持ってきてくれたなら、そこに置いてくれたらいいから」
「…………」
「入らないで。うつるかもしれないから」

 それは間違いなく澪先輩の声だった。でもその声は、めちゃくちゃか細かった。弱々しいし、掠れてる。声だけでも、消耗しきっていることが明らかだった。

「俺です。入ります」
「あ、だめ……」

 有無を言わさぬ勢いで戸を開く。入らないで、と言おうとしたのだろう澪先輩は、俺の顔を見て目を見開いた。
 部屋の中には、一組の布団と何枚もの手拭い、それと木桶や水差しなんかが置かれていた。微かに鼻につく匂いは、組み手なんかをして腹を殴ったり殴られたときに出る、胃液のそれだ。
 澪先輩はいつもの装束姿だったけれど、上は中着だけだった。髪も後ろで一つにまとめ上げていて、肩に髪が落ちないようにしている。いつも下ろしてるのに珍しいなと一瞬思い、すぐに理解した。嘔吐するときに邪魔だからだ。
 顔は青白いのに、熱が出ているのか澪先輩の額には汗が浮かんでいた。涙目なのは吐き続けていたからだろう。

「富松ちゃん、……うっ」

 唖然とした様子で俺の名を呼んだ次の瞬間、澪先輩は口元を手で押えて屈み込んだ。げほ、と咳き込むのと同時に、抱えた木桶にべちゃべちゃと水音が落ちていく。慌てて駆け寄って、澪先輩の背をさする。
 澪先輩が吐いているのは、ほとんどただの胃液だった。胃の中のものはすでに吐きつくしてしまったんだろう。木桶の中にも、胃液らしきものしか入っていなかった。
 幾度かえづいて吐き続け、澪先輩が少し落ち着いたのはだいぶ経ってからだった。持ってきた、濡らした手拭いで澪先輩の口元を拭う。
 喉が痛いのか幾度か咳き込んでから、澪先輩は濡らした手拭いを口に当てたまま、俺を見上げた。

「富松ちゃん、帰って。うつるから」
「嫌です、帰りません」

 予想通りの言葉に即答すると、澪先輩の眉が困ったようにへにゃりと下がった。もう一枚、濡らした手拭いで澪先輩の手を拭う。喉に手を突っ込んだのか口を押えていたらか、澪先輩の指先はもう胃液でふやけてしまっていた。胃液は酸だ。ほうっておくと肌が荒れてしまう。

「白湯です、飲めますか」
「…………私、ひとりで、大丈夫だよ」
「俺がはいそうですかって引き下がると思いますか?」

 白湯の入った湯飲みを受け取って、澪先輩はまた困ったような顔になる。ゆっくり肩で息をしながら、

「うつるかもしれないよ」
「構わねぇです」
「しんどいよ?」
「しんどいときに一人は、寂しいでしょう」

 澪先輩は、しばらくなにも言わなかった。落ち着かせるように大きく呼吸をしてから、涙の滲む瞳でちょっとだけ笑う。ゆっくりした声は、やっぱり掠れていた。

「ひとりは、寂しいね」
「はい。だから二人でいましょう」
「うん。……ごめんね、よろしくお願いします」

 助けてほしい、と言ってくれた気がした。ほっとした瞬間、澪先輩の手がなぜか意を決したかのような勢いで、湯飲みの白湯をあおる。胃液で喉が痛んで乾いていたのか、ごくごくと白湯を半分くらい飲み干し、そして、

「っ! ……はっ!」

 おそらく白湯が胃に届いたその瞬間、逆流したらしい白湯を胃液と共に全て吐き出した。


 想像していたよりも、澪先輩の状態は悪かった。白湯を飲んでもすぐ吐いてしまうだろうと数馬から聞いていたけど、本当に飲んだ瞬間に吐き出すのを繰り返す。白湯をすべて吐いてしまっても嘔吐感は続くらしく、木桶を抱えて胃液だけをずっと嘔吐し続けていた。
 嘔吐は辛い。外からの痛みには耐えられても、臓腑は鍛えようがない。とにかく身体が冷えないように先輩に羽織りを着せて火鉢をもらってきて、定期的に部屋の空気を入れ換えた。
 布団を敷いているのに、澪先輩がそこで休むことはほとんどなかった。吐いているか、嘔吐が落ち着いたときに木桶の隣で少し横になっているかのどちらかだった。
 白湯を飲む。吐く。梅干しを口に含む。吐く。白湯だけでなく、唾液を飲み込んだだけでもすぐに逆流してえづくようだった。吐いていいから飲ませろ、と数馬は言ったけれど、ほとんど吐くためだけに飲んでいるようなものだ。

「澪先輩、無理して飲まなくていいです。吐くの辛いでしょう」
「…………ん」
 
 青白い顔で、澪先輩はゆっくりと首を横に振る。白湯の入った湯飲みを掴んで一口飲み、そのまままた吐き出した。吐き続けば楽になる。その数馬の言葉通りにしているからだ。吐き続けた澪先輩の胃液は、すでに透明じゃなくて薄く黄色がかっていた。
 部屋に火鉢があり、羽織を着ているのに、先輩の手は震えている。寒いからじゃないかもしれない。
 少しでも楽になるように澪先輩の背をさすり、冷えた手足を温めた。

「……富松ちゃん」
「はい」

 また一通り吐き終えてから、澪先輩がのろのろと顔を上げる。額に浮いた汗と汚れた口元を拭うと、澪先輩は困ったように小さく笑って、「あのね」と口を開いた。

「厠に行きたいの」
「あ……分かりました。抱えていきますから」
「ごめん、漏らしそう」
「ちょ、ちょっと待てますか!?」

 遠慮もなにもなく、澪先輩を強引に抱え上げて部屋を飛び出した。澪先輩は苦しげに腹に手を当てて、浅い呼吸を繰り返している。それなのに、諦めたようなおかしそうな声で、「漏らしたらごめんね」と言った。

「嫌いになる?」
「なりません! けどこの寒い中漏らしたら凍傷になるかもしれませんから、出来れば厠まで我慢してください!」
「うん……人間の尊厳を守るのって大変だね」

 澪先輩は笑っていたけど、もしかしたら、俺に厠に行きたいって言い出せなくて我慢してたのかもしれない。厠に澪先輩を連れて行き(間に合ったらしい)、その間に新しい白湯を作り、木桶と手拭いを洗った。
 俺は看病をするのもされるのも慣れている。この学園にいれば、なんせ集団生活だ、病気になるのは珍しくない。病気のときも怪我のときも、当たり前のように先生や保健委員に看病されてきた。
 だけど澪先輩は、俺と違って今まで看病されるのを断ってきたのだろうか。それとも大したことのない病状なら誰にも言わずに耐えてきたんだろうか。他人にあまり頼ろうとしない人だから、その可能性は高いかもしれない。
 ……それは、きっと俺が思うより辛いことだっただろう。



 頃合いを見計らって厠に戻ると、厠からは出たらしい先輩がすぐ近くの縁側に腰掛けていた。片方の手は口に、もう片方の手は腹をずっと押えてる。まだ苦しいんだろう。
 慌てて駆け寄って、隣に膝をついた。遅すぎたのかもしれない。

「遅くなってすみません。部屋に戻りましょうか」
「……っちゃだめ」
「え?」
「こないで」

 ふらりと澪先輩の身体が倒れかけた。咄嗟に支えた瞬間、堪えきれなかったように澪先輩が吐いた。相変わらず胃液しかない吐瀉物が、ぼとぼとと澪先輩の手を伝い、支えた俺の腕を伝って下に落ちていく。明らかに熱が上がっていた。外に居る間に冷えたのかもしれない。

「先輩!? 澪先輩!」
「……ごめんね」

 腕の中の身体から、力が抜けた。澪先輩は俺を見ていなかった。瞼が閉じて、目尻に溜まった涙が頬を伝う。微かに動いた口から、小さな声がした。


「──おかあさん、たすけて」


 俺の腕の中で、澪先輩はそのまま気を失った。















 意識を失った澪先輩を布団に寝かせ、すぐに数馬を呼びに行った。澪先輩をしばらく数馬に任せて、縁側を掃除し、手を洗って消毒した。
 澪先輩のお母さんは、今どこにいるんだろうか。手を洗いながら、ぼんやりと思った。
 俺は澪先輩の家族の話を聞いたことがない。なにかの理由で天涯孤独になったことだけしか知らない。亡くなってるのか、存命なのか、そのどちらも知らないのだ。
 俺はずっと自惚れていたことに、そのときようやく気がついた。

「数馬、入ってもいいか?」
「うん。……大丈夫だ。熱は出てるけど、顔色も前よりだいぶましになってる」

 数馬は脈を取っていた澪先輩の手を布団に戻し、立ち上がる。

「もう少し嘔吐は続くだろうけど、回復に向かってる。少しずつ白湯を飲まして、落ち着いたら整腸剤も服用させて」
「分かった」
「そんな顔するなよ。倒れたのは別にお前のせいじゃない。吐き続けて疲れただけだ」
「……ああ」

 数馬がぽんぽんと俺の肩を叩き、そして澪先輩の意識が戻らないうちにと(澪先輩が嫌がるからだろう)足早に部屋を出て行った。
 洗い場から汲んできた水桶を置いて、手拭いを浸して絞り、澪先輩の額に乗せた。冷たい温度を感じたのか、澪先輩の瞼がぴくりと動き、ゆっくりと開く。あまり焦点の合ってない瞳がしばらくさまよって、俺の視線に辿り着いた。

「……富松ちゃん」
「はい」

 横になったまま、澪先輩が手を伸ばす。その胃液で水分の失われた手を握ると、澪先輩の指が弱々しく握り返してきた。

「ごめんね。吐いちゃった」
「そんなの構わねぇです。漏らしてもいいですよ」
「やだな。女の子が漏らしたりしたら幻滅するでしょ?」
「澪先輩、俺と結婚するって言ってくれたじゃないですか。ずっと一緒にいて一緒に老いたら、下の世話だってすることがありますよ。それがちょっと早まったと思えばなんでもないです」

 努めて明るい声を出して言うと、澪先輩は泣き笑いの表情を浮かべた。さっきより少し強く、俺の手を握る。

「私ね、病気のとき、いつもひとりだったの。……ずっと」

 消え入りそうな声だった。

「それが、すごくさびしかったの」

 おかあさん。そう呼んだのと同じ声。
 
「俺が、いますよ」
「……うん」
「ずっといますから」
「……うん」

 ゆっくり、澪先輩の目が閉じる。その言葉だけ残して、澪先輩はまた眠りに落ちた。

 数馬が言っていた。澪先輩は流行病に罹らない。でも澪先輩だけ酷い病に罹ることもあると。
 たぶん、そのことだ。
 澪先輩は、ずっと孤独を感じてたのかもしれない。みんなが辛いときに一人だけ元気で、自分が辛いとき、みんなは元気だから。
 孤独だ、一人きりだと、そう思ったのかもしれない。

「傍にいますよ」

 澪先輩のお父さんやお母さんの代わりにはなれない。俺は、きっとなれないけど。

「いくら吐いてもいいです。病をうつしてもいいですから」

 だから。


「だから、ここにいてください」


 もしかしたら意識があったのかもしれない。ゆっくり、繋がれたままの手に力が入った気がした。
 それが答えだと、俺はもう一度自惚れた。答えだと信じていたかった。














 それからも澪先輩は何度か嘔吐し、厠にも行ったけれど、数馬の言うとおり、容態はだいぶましになっていた。吐く回数も段々と減り、熱も下がり、声や表情にも少しずつ生気が戻ってきた。
 一晩明けて時刻は朝方になり、部屋の中には薄い日の光が差し込んで来ていた。
 病状が落ち着いたから、手拭いや木桶を新しいものに替え、医務室に寄って新しい薬をもらってきた。ついでに数馬に訊ねると、今のところ同じ症状の生徒はいないという話しだった。まぁ、感染するなら俺が一番だろうし、次は俺が隔離されればいい話しだ。

「戻りました。澪先輩、調子はどうですか」
「ん……だいぶましになったよ。ありがとう」

 澪先輩はまだ青白い顔で覇気が薄かったけれど、昨日の夜と比べれば余程ましだった。いつ吐いてもいいように隣に木桶を置いてはいるけど、今は櫛で髪を梳いて結い上げ直している。それくらいの余裕は出来たみたいだ。

「澪先輩、これ数馬から整腸剤の薬湯です。だいぶ苦味が強いけど我慢して飲んでください、だそうです」
「あー、匂いからして苦そうだね……」

 澪先輩は煎じ立てでまだほこほこと湯気の上がっている湯飲みを俺から受け取り、鼻につく匂いに軽く眉をひそめながらも口をつけた。
 一口飲んでしばらく経っても嘔吐感はなかったらしく、ゆっくりと薬湯を飲み始める。

「澪先輩、もう少ししたらお湯をもらってきますね。火鉢だけじゃ寒いでしょうし……。それと、数馬が夕方くらいまでに嘔吐が落ち着いたら、なにか食べてもいいって言ってましたよ。粥かなんか作ってもらいましょうか」
「富松ちゃん」
「はい」

 煮沸消毒し直してきた手拭いを畳みながら喋っていると、澪先輩が俺を呼んだ。振り向くと、湯飲みを両手で持つ澪先輩が、にこにこと笑ってる。

「なんだかいっぱい迷惑かけちゃったね。ごめんね、ありがとう」
「え、い、いえそんな……!」
「たくさん世話してくれて、なんだかお母さんみたいだったよ」
「ええと、せめてお父さんって言ってもらえねぇですかね……」
「あ、ごめん! 久しぶりに男の人に抱っこされてどきどきしちゃったよー」
「どきどきしてたのは漏らしそうだったからじゃねぇかと」
「ああ、たぶんそうだねー。いやーあとちょっと遅かったら大惨事だったね! あだ名が『危機一髪☆九死に一生を得なかった澪』になっちゃうとこだったね!」
「あだ名のが長ぇです」

 澪先輩が元気になってくれたのはいいけど、俺おかんじゃねぇもん。ちょっと落ち込みそうになったけど、澪先輩は楽しそうににこにこしているのを見て、考え直した。
 ……まあ、お母さんでもいいか。

「薬湯飲んだら寝てくださいね。昨日寝てねぇし疲れてるでしょう」

 言ってることは元気そうだけど、澪先輩の声はまだかなり掠れてるし、もしかしたらただの空元気かもしれない。俺に気遣ってるだろうし嘔吐がないなら寝てもらおうと、火鉢で作っておいた温石を取り出し、布団に入れた。
 それから澪先輩の隣に座り、数馬に渡された追加の薬やら消毒液なんかを仕分けしていると、澪先輩が至近距離で俺を見上げる。

「ねぇ富松ちゃん」
「はい?」
「元気になったら、ちゅーしようか」

 にこにこ笑顔で薬湯を飲んでいる澪先輩に、俺はしばし沈黙した。聞き慣れない単語に首を捻る。

「ちゅー? ってなんですか」
「ふふ。口付けだよ。まだしてないでしょ? 今はこんなんだし、富松ちゃんもする気起こらないだろうから、また元気になってから」

 しようか、と動くはずだった澪先輩の唇に、少し強引に自分の唇を押しつけた。きょとん、と澪先輩の瞳がすごく近くで俺を映す。
 重ねた唇は柔らかくて、確かに生きている温かさがあった。
 澪先輩は一瞬驚いた様子だったけど、持っていた湯飲みを畳の上に置くと、俺の背に手を回してくれる。
 お母さんでもお父さんでもいいけど、やっぱり俺は男として澪先輩に見てもらいたい。
 澪先輩の頬に触れて引き寄せ、もう少し強く唇を押しつける。

 その瞬間、衝撃に崩れ落ちた。

「わお」

 澪先輩はちょっと照れたように唇に指で触れ、目の前で悶絶している俺を見下ろして微笑んだ。

「ね? 死ぬほど苦いでしょ」
「ちょっ……! ばかじゃねーの数馬、それものすげー苦いじゃねぇですか!」
「そうだよね、こんなに苦いのは今まで飲んだことないよ」

 あまりの苦さに涙目になる俺に、澪先輩は困ったように笑う。そして、手を伸ばして俺の頭を軽く撫でた。

「ありがとう、富松ちゃん。また元気になったらいっぱいちゅーしようね」
「そ、その薬湯さえなければ……」
「うん、早く元気になるからね」

 恥ずかしそうに薬湯を飲む澪先輩は口付けのせいかちょっと顔が赤くなっていて、可愛くて、ほんと薬湯さえなけりゃと心中で数馬に当たり散らしつつ、俺はよろよろと立ち上がった。










「はーーーい! 味噌汁持ってきたよー! 塩水よりこっちのが水分吸収に適してるんだって! おーい富松ちゃん? お鍋いっぱい作ったからたくさん飲んでね!」

 澪先輩は上機嫌だ。澪先輩が全快した直後、入れ替わりのように俺が酷い風邪を引いたからだ。
 ほんと、びっくりするくらい上機嫌なのとこっちも大概しんどいのもあって、澪先輩が甲斐甲斐しく看病してくれるのを拒むことが出来ない。
 
「澪先輩、うつりますから近くにきちゃだめですって……」
「富松ちゃんだって看病してくれたじゃない! なんなら下の世話でもおしっこの世話でもいくらでもします! しびん? っていうおしっこ取るやつも持って来ました!」
「やーです! まだ同衾もしてねーのに下の世話とか勘弁してください! 一人で厠行けますから!」
「数馬が言ってたよ? 私が富松ちゃんの下の世話したら、『死ぬほど恥ずかしいけど嬉しい』って富松ちゃんが言ってたって」
「嬉しいですけど死ぬほど恥ずかしいんですよ! あいつまたくだらねぇことバラしやがって!」
「死なない死なない、それくらいじゃ絶対死なないから富松ちゃん、ね? おしっことろうか!」
「なんでそんな目ぇキラキラさせてんすかああああああ! やですってばああああ!」

 断固拒絶する俺に、澪先輩は残念そうな、けれどまだ完全には諦めていない様子で、とりあえずしびんだけは遠ざけてくれた。
 次はどうも大量の味噌汁を飲ませてくれるらしく、お玉でお椀によそってくれている。
 楽しそうで元気な澪先輩に、まあこれはこれでいいかなと思う。
 澪先輩が言っていたように、しんどいときに一人なのは辛いけど。
 二人なら、その辛さもずっと和らぐから。
 …………たぶん。

「よし! 元気になったら次は同衾しようね! そしたら次から下の世話もばっちり!」
「結婚してからっつってんでしょーが! あんた俺の忍耐試してんですかあああああ!」


 終

『媚薬と縄 長次ver』※禁指定創作
2013/02/28 (木)
王道エロシチュエーシェンと王道エロ台詞を勉強したい。その2。
こっちもやや無理矢理系です。


 


 ぴくり、と僅かに瞼が動いた。
 少しの間を置いて、それまで閉じていた長次の目がゆっくりと開く。縄標をまとめていた手を止め、私は微笑んで口を開いた。

「おはよう、長次」

 苦無を取り外した縄標を端に押しやり、長次の顔を見上げる。長次は目覚めたばかりの少しぼんやりとした瞳で私を見ていたけれど、やがてなにか言おうと口を開きかける。
 そのとき、異変に気づいたのだろう。長次は片眉をひそめて自分の身体を見下ろした。
 長次は柱を背に座った体勢で、柱の後ろに両手を回して縄で縛られている。さらに声を出せないように手拭いを噛まされているから、自由なのは両足くらいだ。もちろん、私がやったんだけど。
 私と長次は、半刻ほど前に二人で夕食を食べていた。特にどうということもない、普通に食事をして後片付けをして、お互い部屋に戻っただけだ。
 その後長次は部屋で強烈な眠気に襲われて、意識を失った。たぶん長次が覚えているのは、そこまでだ。
 だから、今どうしてこんな状態になっているのか、長次は理解出来ないはずだ。普段でも口より余程ものを言う長次の瞳が、困惑の色に満ちている。
 とりあえず拘束している縄を外そうとしたのか、長次の肩が少し動いた。けれど結局力が入ることはなく、ただ身じろぎした程度にしかならない。唯一自由な足も動かそうとしているけど、僅かに動かすのが精一杯のようだ。
 ひとしきり試して無駄であることを察したのか、長次が私を見る。なぜだ、とその瞳が訊ねていた。
 薬が回っていても意識はしっかりしているようだ。そのことにほっとして、私は長次に答える。

「さっき一緒に食べたご飯。長次の分にね、ちょっと薬を混ぜておいたの。遅効性の眠り薬と痺れ薬。濃いめの味付けにしたから気づかなかったでしょう?」

 薬を混ぜたのは味噌汁だ。山菜を具にして唐辛子の粉を散らして、薬の苦味と酸味を誤魔化した。くの一教室で習ったことを実戦以外で、しかも長次に使うなんて自分でも思わなかった。
 私の言葉に、長次の目が細くなる。怒ってるというよりは、状況を把握出来ても私の意図が分からないからだろう。確かめるように長次がまた腕を動かそうとするけれど、やっぱりそれは無駄に終わる。当然だ。縛られた上に、痺れ薬を飲んでいるのだから。
 おまけに得物である縄標は私が取り上げてしまったから、いくら長次でもどうにも出来ないはずだ。

「ごめんね。そんなに強く縛ってないから、痛くはないはずだよ。鬱血しないように注意したし、薬も副作用が少ないやつを選んだから」

 別に長次を痛めつけようと思っているわけじゃない。私だって、出来ればこんなことはしたくなかった。了解を取らずに身体の自由を奪ってしまった、という罪悪感はもちろんある。
 でも。
 至近距離で顔を見上げても、長次は困惑以外の瞳をしていなかった。分からない。そう言っている。
 そうだ。私がこんな手段に出たのは、長次が分かってくれないからだ。
 もう日が沈んで、だいぶ時間が過ぎている。今は冬休みに入っていて、学園にはほとんど人がいなかった。長次が図書室の整理をしてから帰りたいと言うから、それに合わせて私も帰郷を伸ばしていたのだ。長次と同室の小平太は学園に残っているけど、何日か近くの山に篭もって自主練をすると今日の昼に出て行った。だから、誰かに見つかる心配もない。
 自分の腰紐を少し緩め、上衣を脱ぐ。中着と袴だけの姿になって、改めて長次の前に座った。
 長次は相変わらず、困惑に満ちた瞳のままだ。それ以外の感情は、なにもない。
 しばらくその顔を見上げて変化がないのを理解してから、長次に手を伸ばした。
 びく、と触れた長次の身体が少しだけ震えた。構わず長次の背に腕を回し、身を寄せる。温かな長次の鼓動が伝わってきて、ほっとした。抱き締めてもらえないのは寂しいけれど、久しぶりに触れる長次の体温は、前と変わらず心地良かった。
 でも、たぶん長次は、私に触れられるのを望んでいないだろう。
 長次の鼓動が、焦るように少し早くなる。離れろと言ってるのかもしれない。嫌だと伝えるために、ますます強く身を寄せた。
 最近、長次はなぜか私に触れてくれない。
 冬休み前の期末試験は、厳しい実習試験が組み込まれていたこともあって、試験期間中と期間前はその準備でお互いに忙しかった。一日中顔を見ない日などざらで、たまに通りすがりに声をかけるのが精々だった。
 ずっとそれが続いていたのだから、やっと期末試験が終わったとき、私はすぐに長次に会いに行った。長次も嬉しそうにしてくれていたと思う。
 だけど、決して私に触れようとしなかった。
 別に抱かれに行ったわけじゃない。長次の顔を見て、元気なのを確かめたかっただけだ。でも久しぶりに会ったんだから、出来れば抱き締めて欲しかったし、口付けもしたかった。なのに長次は、私が近付こうとするとやんわりと逃げてしまう。手を繋ぐことすら、嫌がる素振りを見せた。
 そのときは、そういう気分のときもあるんだろうと自分を納得させたけれど、結局その拒絶は試験が終わり、終業式を迎え、冬休みを数日過ぎた今日まで十日間ほど続いている。明らかに、私の勘違いではない。
 長次は私に触れたくないのだ。
 初めは、私がなにかしたのだろうかと不安になった。女として見れなくなったのかなとか、他に好きなひとがいるのかなとか、もやもやと考えていた。けれど不思議なのは、長次は私自身を拒絶しなかったことだ。顔を見れば長次から声をかけてくれたし、試験後で溜まっていた委員会の仕事を、長次の方から申し出て手伝ってくれたこともある。冬休みに入ってからは特に、食事や洗濯は一緒だ。
 だからたぶん、嫌われてはいないのだろう。
 ただ、私に触れたくないだけだ。
 そこまで考えが至ったとき、私は唐突にぷつりと切れた。
 長次は基本的に言葉が足りない。表情も常に無表情気味だ。長い付き合いだから普段ならば長次の考えていることは大体分かるけど、それでも他のひとと比べて、長次は言うべきことを口にしない傾向がある。
 長次のことが好きだ。寡黙なところも、全てひっくるめて好きだ。けれど一言言ってくれれば、私がこんなに不安に思うこともなかったのだ。
 逆切れだった気もする。八つ当たりか、言いがかりだったのかもしれない。それでも、私は結論づけた。
 長次がなにも言ってくれないのなら。私に触ってくれないのなら。
 私から、触りに行けばいい。逃げられないように、拒絶できないようにした上で。

「長次、ずっと私に触ってくれなかったでしょう?」

 少しだけ身を引いて、長次の顔を見上げる。長次はなにか言いたげな瞳で、じっと私を見ているだけだ。その瞳に浮かぶのは、やっぱり困惑の色でしかない。

「……私のこと、嫌い?」

 思わず、ぽつりと本音が漏れた。長次の瞳が少しだけ見開かれる。
 ぎし、と縄が微かにきしむ音がした。長次が腕を動かそうとしたのかもしれない。でも結局、長次は動けないし、話すことも出来ない。ただ、時間をかけて、僅かに首を動かしてくれた。痺れ薬のせいかその動きは本当に小さくて、横に振ったのか縦に振ったのか、よく分からなかったけれど。
 本当はもう、どちらでも私の答えは同じなのだ。長次が変わらず私を好きでいてくれても、私のことが嫌いでも、私に興味がなくても。
 さっきよりも一層、隙間がないくらいにぎゅっと身を寄せる。すぐ近くにある、長次の体温と鼓動がすごく嬉しい。少し前まではこうやって、二人きりになったらいつでも抱き締めてくれたのに。
 そのまましばらく久しぶりの長次を堪能していたら、唐突に長次が小さく息を吐いた。伝わる長次の鼓動も、どくん、と突然に早くなる。

「……あ」

 それに合わせて、長次の体温が上がってくる。呼吸も少し荒くなっていて、まるで熱が出ているみたいだ。

「長次の身体、あったかくなってきたね」

 ようやく、効いてきたのだろう。
 見上げると、少し苦しげな表情の長次と目が合った。困惑の色がまた濃くなっている。私は長次の頬を撫で、「ほんとはね」と答える。

「眠り薬と痺れ薬だけじゃなくて、媚薬も混ぜてみたの。わりと強いやつ。痺れ薬飲んでてもちゃんと効くんだね、驚いちゃった」
「っ……」

 そっと、袴の上から長次自身に触れる。ゆっくりと手のひらで撫でると長次の体温がますます上がり、呼吸が荒くなる。薬の効力は凄い。その気がなくてもこんなに反応するのだから。

「苦しいよね、ごめんね。すぐ楽にしてあげるからね」

 本当は口付けしたいけど、長次の口を覆ったのは私だ。代わりに膝立ちして長次の額に唇を触れ、身を引いてその場に屈み込む。
 弱い動きで、長次の足が私に触れる。なにをしようとしているのか理解して、止めさせようとしているのかもしれない。
 気づかないふりをして、長次の腰紐を緩めた。下帯の上から手を触れると、薬のせいかもう固くなっている。長次自身を布越しにゆっくり揉み込むと、びくり、と長次の足が小さく跳ねる。そのまま優しく撫でるだけで、長次自身は瞬く間に私の手の中で大きくなる。
 それを確認してから、一度身を起こして、自分の髪紐を解いた。髪が邪魔にならないように、高い位置で纏め直す。
 長次の息が荒い。苦しげに眉をひそめているし、目尻も赤くなっている。嬉しい。今度は長次の鼻先に口付けて、私は改めてその場に屈み込んだ。
 もう先走りで濡れている下帯を取り払い、長次自身を取り出した。固く上を向いているそれを、ゆっくり両手で握り締める。先端から溢れる先走りを全体に行き渡らせて、双玉の上、付け根の部分に口付けた。そっと舌で舐めて、優しく吸う。
 どく、と握り締めている自身が一層育ち、長次がもどかしそうに息を吐く。
 長次は普段、あまり私に口淫をさせてくれないから、こんなに堂々とするのは初めてだ。他の人のをまじまじと見たことがないから確かではないけれど、長次のそれはたぶん、普通のひとより大きい。口の中に入れようとしても、全部はとてもくわえ込めない。両手と舌と、全部使わないと愛撫することが出来ない。

「……──っ」
「きもちいい……? また固くなったね」

 先端を指でくりくりと刺激しながら、竿の下から上までゆっくり舐め上げる。もう片方の手で玉と付け根を優しく握り込み、緩急をつけて揉み込んだ。上から降る長次の吐息には、たぶん苦痛の響きはない。感じてくれているなら、すごく嬉しかった。
 一番感じやすいと房術の教科書で読んだ通り、裏筋を重点的に舌で攻める。手を止めずに竿を愛撫しながら、下の二つの玉も優しく舐めた。
 先走りが止めどなく流れて、もう長次自身はすごく固くなっていた。媚薬を飲んでいるのだから、私の拙い愛撫はもどかしくて逆に苦しいだけかもしれない。
 顔を上げ、長次自身の先端に口付ける。濃い汗の味に似た先走りを飲み込み、舌で覆うように亀頭を包み、唾液を擦りつけた。
 歯が当たらないよう注意して、先端だけくわえ込み割れ目に舌を押しつけて吸い上げると、ぎし、と縄がきしむ音がする。私の肩に触れる長次の太股にも、少し力が入っている気がする。次いで、びくびく、長次自身が私の口の中で小さく震えた。出すのを我慢してるんだろうか。

「出せるなら出して。私、長次が出したの飲んだことない」

 唾液や先走りは、多く竿に纏わせる方が気持ちいい。房術で習ったことを思い出して、その通りに懸命に舐め上げた。きっとすごく下手だろうけど、薬のおかげで反応してくれる。奉仕しているのは私の方なのに、それがすごく心地良くて幸せだった。
 先端から先走りがぷくりと盛り上がり、とろとろと竿を伝って落ちていく。たぶんもう限界だと思う。
 私の口の中で達してほしい。裏筋を舐めていた舌を戻し、先端を咥え込もうとしたとき、ふいに付け根を握る指に少し力が入ってしまった。
 びくっと一層強く長次自身が震えた。慌てて唇を寄せたとき、先端から白が迸る。生温かなそれがぴしゃりと私の頬にかかり、ぽたりと首筋に落ちる。その後も、とぷとぷと一度では出し切れなかった精液が少しずつ尿道から溢れ出た。
 初めて目の前で見た射精に驚いたけれど、満足感も大きかった。長次が私で達してくれたから。

「……いっぱい出たね。長次、溜まってたの? 私に触ってくれないから、誰か他の女の子としたのかと思ってた」

 本気での言葉ではないけど、ずっと触ってくれなかった嫌味でもあった。まだ尿道に残る精液を舐めて、じゅるりと吸い上げる。硬度を失って柔らかくなった長次のそれが、またぴくりと反応した。……かわいい。
 今度はあまり欲を煽らないように、竿を伝う精液を優しく舐め取って綺麗にした。口の中のそれをごくりと飲み込むと、途端に苦味が喉にまとわりつく。青臭い匂いがつんと鼻奥に響き、目頭が少し熱くなった。
 聞いてた通りだけど、美味しくはない。全部舐め取るのは諦めて、手拭いで長次自身を清め、次に自分の顔と首にかかった精液を軽く拭いた。
 媚薬の効果はまだ残っているらしく、ゆっくり上下にさするだけでも、長次のそれはまた硬度を取り戻す。見上げると、長次は熱に浮かされたような瞳で私を見ていた。長次が私を抱いてくれるときの瞳。ぞくり、と下腹に痺れが走る。長次の息は荒いけど、いつのまにか私の身体も熱くなっていた。長次にもっと触りたい。もっと近い距離で熱を感じたい。
 腰紐を外して中着と袴を取り払い、下着も全部脱いでしまって、一糸纏わぬ姿で長次の腰を跨ぐ。長次にも全部脱いでほしいけど、縄をほどくと長次は私から逃げてしまうだろうから、仕方ない。
 長次自身をゆっくりしごきながら、膝立ちして長次の頬に口付ける。長次の匂い。体温。私に伝わってくる鼓動。全部に頭がぼうっとする。月の物みたいにお腹の奥が熱くなって、あそこからとろりと粘ついた液が溢れるのが分かる。身体全部が、長次に抱かれたいって言ってる。
 ああ。私、すごくはしたない。

「ごめんね。好き。長次、大好き。したくないのにごめんね」

 長次が欲しくて仕方ない。なんだかすごく切なくなってきた。私がこんなことをしたのは全部、長次に抱いて欲しかったからだ。溢れ出る想いをどう昇華していいか分からず、長次の頬や額に幾度も口付ける。きっと長次は怒っているだろう。でも私は長次が欲しかった。強く抱き締めて欲しかったし、口付けして欲しかったし、抱いて欲しかったのだ。

「ごめんね。大好きだよ」

 今更謝っても仕方ないのは分かっている。それでも私は、長次に抱いて欲しい。薬を飲ませて自由を奪い、無理矢理にしてしまうほどに。
 だってもし本当に長次が私を嫌いなら。本当に長次が私のことを女として見れなくなったなら。
 もう二度と、長次に触れられないのだから。

「大好き」

 怒っているのを通り越して、長次は私を軽蔑しているかもしれない。
 長次の顔を見たくなくて、私は滲んだ視界を覆うように長次の肩口に顔を埋める。
 もう固くなっている、長次自身を握り直す。長次に身を寄せたまま少し腰を上げ、足を開く。そのままゆっくり位置を確かめて、私の中に導こうとした。

「……んっ……」

 濡れてはいるけど、いつも長次がしてくれるように慣らしていないから入りづらい。それでも今更自分で慣らす気もなくて、半ば無理矢理に腰を落とす。長次の形に広げられ、ほんの少しずつ私の中に入っていく。少し痛いけれど、もうどうでもよかった。これで最後かもしれないのに、痛くても痛くなくても同じことだ。
 浅い呼吸を繰り返して力を抜こうと努めても、なかなか中に入ってくれない。もどかしくて、引きつれたような痛みが邪魔で、太股が強張った。
 長次の肩に埋めていた頭に、なにかが触れた。顔を上げると、長次が私になにか促すように、小さく首を横に振っている。やめろ、と言っているのだろうか。
 心配してくれているのだろうか。それともそんなに私に触られるのが嫌なのだろうか。
 ……もう、どちらでも構わないのだ。

「……っ!」

 痛みを堪えて、さらに体重をかけて腰を下ろす。身体を支えている膝が小さく震える。涙が滲む視界で歯を食いしばり、全て私の中に収めようとした。
 けれど、その動きは途中で止まった。
 気づけば、私は強く抱き締められていた。それまで響いていた貫かれるような痛みが和らぎ、剥き出しの身体が温かく包まれる。

「……え?」

 なにが起こっているのか分からなかった。痺れ薬を飲まされた上に縛られて動けないはずの長次の腕が私を抱き締め、腰を固定してそれ以上入らないように阻んでいる。
 咄嗟に見下ろすと、私の身体を伝い、長次の腕に巻き付いたままだった縄がぱさりと畳の上に落ちる。引き裂かれたようにずたずたの縄。
 次いで長次が、畳の上になにかを落とす。手の中に握り込んでいたらしい、小さな、鉄で出来た忍具。……小しころ、だ。
 ぞく、と背筋が震えた。

「うそ……」

 まさか。いつの間に。
 長次の得物は私が取り上げたけれど、他の忍具の確認は簡単にしかしていなかった。冬休みだから重装備でないとたかをくくっていたし、なにより痺れ薬を飲ませていたのだから。
 長次は唖然としている私の腰を持ち上げ、私の中に半ばまで埋め込まれていたそれを引き抜く。そしてもう片方の手で、口元に噛ませていた布を取り払った。
 安堵するように大きく息を吐き、長次は私の頬に手を伸ばす。

「澪」

 びく、と反射的に引きそうになった身体を、長次の腕が許さない。

「ご、めんなさ……」
「お前に触れなかったのには、理由がある」

 私の言葉は、低い声にかき消された。また反射的に逃げようとした私の身体を易々捕らえて、長次が半ば強制的に私の顔を覗き込む。

「……期末試験の実習で、倒れたと聞いた。すぐにまた無理をさせては、お前の身体に障ると思ったからだ」
「え……?」

 思いもよらぬ言葉に、目を見開いた。
 確かに私は、期末試験の山岳実習中に、罠にかかって昏倒した。怪我はなかったし少し気を失っていただけだから、実習にもさほど影響はなかった。知っているのはその場にいた同級生達と、念のためにとその後医務室を訪れたとき、診てくれた伊作だけだ。
 だから。長次が知っているわけないと、思っていたのに。

「お前になにも伝えなかった私のせいだ。これまでお前の気持ちに気づけなくて、すまなかった」

 じわりと涙が滲んで視界が揺れた。
 俯きそうになる私の頬に触れて、長次がまた顔を覗き込む。なんだか嬉しくて、申し訳なくて、罪悪感が溢れて胸が軋んだ。目尻から落ちる涙を、長次が指で拭ってくれる。

「ごめん、なさい……」
「食事をしたときから、お前の様子がおかしいのは気づいていた。お前の気が済むなら好きにさせようと思っていたが」

 長次の眉が少しひそめられる。指が私の頬を撫で、腰元に降りた。

「身体を傷つけるような無茶はするな」
「っ、あ……」

 長次の指が足の間に入り込んで、そっと触れる。長次と私の体液でまだ濡れているそこを、確かめるように優しく撫でた。

「痛くないか」
「……痛く、ない。大丈夫、だから……っん」

 長次の指先が、私の中にぬるりと入ってくる。そのままゆっくりと動かされて、じんと痺れが走る。内股が強く強張って、身体の温度が上がっていく。浅く探られる刺激だけで、じわじわと濡れていくのが分かる。
 指が抵抗無く動かせるようになると、もう一本、私の中に長次の指が入ってくる。感じやすい内壁を柔く押されて、びくりと身体が震えた。

「長次、抱いてくれるの……?」

 もう二度と抱いてくれないと思っていたのに。確かめるだけではない、欲を煽る長次の指の動きに、身体から力が抜けていく。
 長次は一度指を抜くと、そのまま私を畳の上に押し倒した。上衣と中着、そして乱れていた袴と下帯を取り払い、私に覆い被さってくる。
 隙間無く肌と肌を合わせ、抱き締められて理解した。長次の身体が、さっき感じたときよりずっと熱い。熱くて、すごく鼓動が速い。……媚薬の効果がまだ続いてる。私の下腹に触れる長次のそれは、もう完全に勃ち上がって先走りで濡れていた。
 長次は苦しげに息を吐いて、私の耳元に囁く。

「……耐えるのも限界だ。責任を取ってくれるか」

 欲にまみれた濡れた声に、ぞくぞくと肌が粟立つ。長次に求められている、それが本当に嬉しかった。
 幾度も頷いて、長次を強く抱き締める。さっきは出来なかったけど、今は抱き締めた分だけ抱き締め返してくれる。長次への想いでいっぱいになる。

「ごめん……ごめんなさい、長次。ごめんね」
「もういい」

 長次が私の頬や額に口付けを落とし、最後に私の唇を塞ぐ。絡み合う舌と舌に、頭の奥がじんと痺れてくる。気持ちいい。口付けも、隙間無く重なり合った肌も、全部。
 私はずっとこうしたかった。ずっと、一つになりたかったのだ。

「大好き。長次、大好き」

 口付けの合間に、幾度も幾度も言い続けた。ようやく欲しいものがもらえた喜びに、ぼろぼろ涙がこぼれ落ちる。
 身体に力が入らない。長次の媚薬が私にも移ったみたいに身体がすごく熱くて、まともにものを考えられない。
 長次が、欲しい。

「長次、いっぱいして。いっぱい抱いて」
「ああ」

 もう長次の指で十分ほぐされたそこに、固くて熱い長次自身が入ってくる。頭がくらくらする。熱い。どうしよう。気持ちいい。ああ、長次。
 すまなかった、と長次が囁いてくれた。それだけで達しそうになる。
 頭の中が熱に支配されていく。欲しい。長次がすごく欲しい。それだけしか考えられない。
 ……大好き。

「長次、……長次、大好き」
「愛している、澪」

 ──もう、死んでしまってもいい。

 押し込まれ、引きずられる度に内壁がぞわりと動き、総毛立つ。身体中が塗り替えられるように、強烈な甘い痺れが走る。
 貫かれ、愛される感覚に酔って、私は意識を手放した。

 長次と二人、理性も全部なくしてしまって、ただ獣みたいに求め合った。
































「……って感じでさ」

 ぱちん、と手を叩き合わせ、澪はにっこり微笑んだ。

「こんな展開を期待して計画立てようと思ってるんだけど、上手く行くと思う?」
「痴女かあんた」

 ちょっと長次のことで相談があるんだけど、と持ちかけられたときに断わればよかった。まさかこんな壮大な変態妄想馬鹿計画を聞かされるとは思わない。

「ち、痴女ってなによ! ただちょっとほら、たまには少し刺激のある行為もありかなーって……」
「拘束して媚薬ぶちこむことのどこが『少しの刺激』? 大体三種類も混ぜたら、まともな効果が出るわけないじゃない」
「いやいや、本当に使うつもりはないよ? ただ、同意の上でこういう状況と仮定してってことなら、いつもと違う新鮮さがあるかなぁなんてさ。シナ先生も言ってたじゃない。いつも同じだといつか飽きてしまいます。たまには新鮮な展開をって」
「『新鮮な展開』、ってだけでここまでぶっ飛べるあんたの脳みそが怖いんだけど」
「だっていくら新鮮って言っても、外でとか昼間からとか嫌だし、目隠しとか縛られるだけじゃありきたりじゃない? でもちゃんと設定作った上でなら、大したことしてなくても一層燃えるんじゃないかなって! ね、どうかな? 長次良いって言ってくれると思う?」
「なら私じゃなくて長次に聞きなさいよ」
「それが出来たら苦労しないって。長次にこんなこといきなり言ったら、確実に怒られるもん。だから、納得してくれるような、怒られない持ちかけ方ってないかなぁって思ってさ!」
「そんなものはない」

 突然の低い声。がっしり後ろから掴まれた右腕に、澪はぴたりと口を閉じ、おそるおそると後ろを振り返る。

「……ちょ、長次。いつからそこに?」
「わりと最初のほうから。あんたに声かけようとしてたのに、くそ恥ずかしい破廉恥なことべらべら喋るから、ずっとそこで固まってたよ」
「どうしようちょっと言い訳が見つからない。えっと……ごめんね長次、今のは単なる冗談であって本当に実行する気はさらさらなくてですね」
「考えるだけでも相当だ。来い、説教だ」
「ええええちょっと、長次ごめんって! ほんとにただの冗談のつもりだったのー!」

 いーや、わりと本気だったに違いない。有無を言わさぬ勢いで引きずられていく澪に、合掌する。たとえさっきの澪の案に長次が乗り気であろうがなかろうが、私みたいな第三者に話されてしまっては確実に失敗だろう。いくらなんでも恥ずかしすぎる。

「は! これはもしかして、二人きりになった瞬間『したいことがあればまず私に言え。お前の言うことならなんでも聞いてやる』『え……やだ長次かっこいい! 抱いて! 縛らせて!』『ああ。好きにしていい』っていう流れですか!?」
「絶対にない。夜まで正座していろ」
「あ、今私墓穴掘った気がする! なんで言っちゃったんだろう、もー! 言わなかったらその通りになってたのに!」
「なっていない」

 往生際悪くわーわー騒ぐ澪を、長次がずるずる引っ張っていく。
 ま、ありゃ無理だろう。
 六年の忍たま長屋に消えていく自業自得な澪と、卑猥な妄想をまき散らされた可哀想な長次に向かって、今一度合掌した。



 終

『媚薬と縄 食満ver』※禁指定創作
2013/02/21 (木)
最近エロを書いてないので、リハビリで王道エロシチュエーシェンと王道エロ台詞を勉強したい。
というわけでエロいとこだけ書いた、なにも考えてないタイトル通りの手抜きな設定です。そしてなによりオチがひどいです。
やや無理矢理系ですのでご注意ください。


 


 茶の最後の一口を飲もうと、湯飲みを持ち上げて傾けたときだった。
 ごとり、と手の中からそれが滑り落ちた。文机の上に転がった湯飲みから、ぽとぽとと残っていた茶が零れていく。隣に座っていた澪が慌てて手拭いを取り出し、湯飲みを取り上げて文机の上を拭き始める。

「食満、大丈夫?」
「あ……、ああ」

 最初は意味が分からなかった。いつも余程重いものを持っているのに、まさか湯飲み程度を取り落とすわけがない。湯飲みが濡れて滑ったのだろうかと怪訝に思い、とりあえず俺に代わって後始末をしてくれている澪に礼を言おうと、口を開きかけたときだった。

 どくん、と大きく体内が震えた。

 わけの分からない息苦しさに、鋭く息を吐いた。どくん、どくん、と波打つ震えと共に、身体中に熱が走る。全力疾走をした後のように動悸が激しくなり、全身にぶわりと汗が噴き出した。
 まずい、と思った。澪が心配そうに、「どうしたの」と俺を見上げる、その声すらはっきりとは聞こえなくなった。頭に靄がかかっていく。腹の中が熱い。ぐるぐるぐるぐる身体中を巡る熱が、出口を求めてさまよっている。
 多少なりとも毒薬に関して習った身の上だ、今自分の身に起こっているのがなんなのか、理解は出来た。
 ──媚薬だ。それも強力な。

 苦労して顔を上げ、澪の前にある湯飲みを確認する。菓子にばかり手をつけていたのか、その中身は半分も減っていない。しかし、まずい、ともう一度思う。一口でも飲んでいるのならば、程なく自分と変わらぬ状態になるだろう。

「……お前、動けるか」
「え……? 食満、どうしたの? 熱でもあるの?」

 おろおろと俺の額に触れそうになるその手を、咄嗟に叩き落とした。澪が目を見開いて、身を固くする。息をするごとに、体内に血が巡るたびに、熱が上がる。腹の中のどろりとした黒い感情が、堰を切って溢れそうになる。
 限界が近い。それを悟り、絞り出すようにしてなんとか落ち着いた声を出した。

「動けるな……? ならこの部屋から出て、伊作を呼んできてくれ」
「う、うん。分かった……」
「いいか、伊作を呼んだら、お前は絶対に戻ってくるな」
「え?」
「絶対に、戻ってくるな」

 どくん、と。また身体に震えが走った。視界すらおぼろげに揺れ始める。爪を立てて拳を握り締め、大きく息を吐く。理性の糸が焼き切れる。その前に、

「逃げろ」

 澪は驚いたように俺を見上げ、逡巡しながらも腰を上げようとする。ああそのまま早く行ってくれ。そして帰ってこないでくれ。でないと俺は、

「早く逃げろ」

 ──もう、頭が熱い。耐えられない。




「食満……」




 だめだ。
 そう思った瞬間、脳内が一気に熱に染まった。















 予算会議が近かった。
 会計委員会に提出する予算案を委員室で作り上げた後、友達に珍しい菓子をもらったのだと、澪が紙に包まれた菓子を取り出してきた。仕事も終わったし一休みしていくかということになり、俺は炊事場で湯を沸かし、委員室内に置いてあった茶葉で茶を淹れた。
 その茶葉は幾日か前、そろそろ予算案を立てなければと委員室に籠もり始めた際、茶を飲みたいときのためにと俺が自室から持参したものだ。特別に高い茶でも珍しい茶でもない。学園で支給している、普通の茶葉のはずだった。
 どういう因果かただの不運か、中に媚薬が紛れ込んでいた。自室から持参してきた、ということから大体理由は分かる。匂いや味に変化があればさすがに気づいただろうが、どうやら無味無臭の劇薬だったらしい。媚薬だと理解したときには遅すぎた。

 俺が次にまともな理性を取り戻したときには、なにもかもが終わっていた。





















 頭がおかしくなりそうだった。すごく熱くて、なにも考えられないくらいにぼうっとしてる。喉から掠れた呼吸が出入りして、視界は溢れ続ける涙でなにも見えない。苦しくて身じろぎした途端、後ろ手に縛られた腕が少し痛んだ。何度か拘束を解こうとしたけれど、縄は手に食い込んでいて容易には解けそうもない。
 それを見たのか、私よりも荒い呼吸が、耳元で囁く。私よりもずっと苦しそうな声で。

「たのむ、おとなしくしててくれ。怪我させたくないんだ」

 ひくり、と喉が震えた。私を抱く食満は有無を言わさぬ勢いなのに、その声は懇願に近かった。ごめん、と。ごめんな、と。私を組み敷いてから、幾度も食満は謝っている。たぶん、心と身体がばらばらなのだ。
 そのまま、首筋にがぶりと噛み付かれる。いつもなら痛みと恐怖を感じるはずなのに、今はぞくりと背に震えが走るだけだ。私を押し潰すように組み敷いている食満の強い力も、縛られた手も、身体を開かれるのも、それほどまでには痛まないのは、食満を狂わせているのと同じ理由だろう。
 たぶん媚薬なんだろうと、頭の隅で微かに残る理性で思う。
 この熱さも、この痺れも、意味の分からない苦しさも。

「……は、……あぁ、っう」

 指と舌で散々かき回されてぐちょぐちょのそこに、後ろから食満のそれが触れた。逃げろと言った食満の言葉が、今になって分かった気がした。食満は分かっていたのだ。こうなるだろうということが。

「っん……! あっあぁぁぁ……!」

 うつ伏せに私を後ろから畳に押しつけて、食満自身がずぶずぶと私の中に入ってくる。軽い痛みと、圧迫感。それと、全身に走る痺れ。
 うなじと耳元に、食満の荒い吐息がかかる。苦しげな呻き声に、ぼんやりと、食満も痛いのだろうかと思った。
 食満は私の中に収めきると、間を空かずに強く動き出した。そのたびに、痛いのか苦しいのか熱いのか分からない、強い衝撃が走る。どこも自分の身体じゃないみたいに、食満に支配されている。ああ、抱かれるってこということだったんだ。
 頭の芯から、手足の先まで、全部食満に染まっていく。

「け、ま……」

 畳の上に敷いてある、食満の上衣に頬が触れる。食満が私を突くたびに、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。身体が熱くて仕方ない。お腹の奥から昇る熱が、身体中を巡っていく。
 私は壊れてしまったのかもしれない。ただただ食満の存在だけが、私に刻み込まれている。私が今感じるのは食満だけだ。

「ごめん……、ごめんな」

 泣きそうな声と共に、食満が私を抱き締める。潰されてしまいそうなその力は、私を逃がさないためのものだろうか。苦しい熱から無意識に離れようとする私の身体を引き寄せて、食満はまた強く腰を打ち付けてくる。ぐちょりぐちょりと水音が響き、私の太股を伝って粘着質な液体がとろとろと流れ落ちる。すでに食満は幾度か達しているのかもしれない。
 苦しいし、熱いし、いつもと違う食満は少し怖かった。
 けれど逃げたいとは思わなかった。やめて欲しいとは思わなかった。
 私も分からなかったからだ。身体に火照る熱を逃がすにはどうしたらいいのか。空腹感にも似た苦しさを癒すにはどうしたらいいのか。
 きっと、食満と同じように。

「──っ!?」

 びくん、と身体が突然跳ねた。がくがくと足が震え出し、これまで以上に鼓動が大きく全身に鳴り響く。ああ、駄目だ。頭が溶けてしまう。怖い。嫌だ。怖い!

 わけのわからない恐ろしさに、咄嗟に後ろを振り向いた。同時に食満が私の顔を引き寄せ、私の頬に流れた涙を舐め取っていく。軽く甘噛みされる頬に、ほんの少しだけ恐怖感が紛れて安心した、その瞬間。

「……いけそうか?」

 すぐ近くで、食満が微かに笑った気がした。
 同時に、ずん、と奥を狙って突き上げられ、身体のどこかがぱちんと弾けた。きゅうっと、下腹が強く絞られる。

「あ、……あ────っ!」
「……っ」

 身体中、ばらばらになりそうな衝撃だった。びりびりと圧倒的な痺れの渦が、私の身体をすごい勢いで巡っていく。手も足も力が入らない。涙が溢れて止まらない。
 それまでにもおぼろげにしか見えなかった視界から、色が消えた。頬に触れていた食満の上衣の色すら、今はただの灰色にしか映らない。
 起き上がる気力もない私の身体を抱え上げて、食満がまた動き出す。抽出する、それだけで強烈な波がきた。達したばかりのせいか、これまで感じることのなかった、痛みに似た悪寒が全身に走る。
 
「っい、いや、やめて!」
「ごめん」
「やめて、い、いまうごかないで、おねが」
「ごめんな」

 顎を掴んで無理矢理後ろを振り向かされる。唇に食満のそれが噛み付くようにぶつかった。悪寒が少し薄れ、また身体に生まれた熱に頭がぼうっとしてくる。至近距離で見た食満は、泣いていた。

「……食満」
「ごめんな、俺は気持ちいいんだ」

 もうどっちの涙か分からない。ぐちょぐちょに濡れた頬を擦りつけ合い、口付けを交わした。
 私達は、ただの獣みたいだった。深いところまで繋がりながら、慰め合うようにお互いの涙を舐め取った。

 きっと、人間なんてほんとにただの獣なのだ。
 好きなひとに傍にいてほしいし、抱き締められたいし、一つになりたい。
 今の私は食満のことしか欲しくない。食満のことしか、考えていない。
 まともに考える力なんて、すでになくなっていた。今このときだけ、私は幸せとも言えた。好きなひとに望まれているのだから。
 どこもぐちょぐちょ、汗まみれ。同じ熱に浮かされた私と食満は、どこからが自分の身体かすらも分からない。もしかしたら、とっくに一つのものになっているのかもしれない。
 いっそそうであればいい。

「や、そ、そこだめ」
「……いってくれ」
「や、やだ、こわ…………あ、ひっ、ぁぁぁああああ!」

 いっそう大きな波が、私の身体を貫く。もう幾度目だろうか。頭で弾けた光で、殴られたみたいにすうっと意識が揺らいだ。

「食満……け、ま……」

 戒められていた腕の痛みがふっと消えた。もう指一本も動かせない私の手を、ぎゅっと食満の大きな手が包み込む。
 崩れ落ちた私の身体を支え、食満が耳元で囁いた。
 私の意識が闇に落ちる寸前、今まで何度も何度も言っていた言葉。

「ごめん、……ごめんな」

 力の入らぬ指で、微かに食満の指を握り返した。



 私が覚えているのは、そこまでだ。




























 恐る恐る指で首筋に触れたとき、小さく伝わってきた鼓動に心底安堵した。ぴくりとも動かず身を丸めて気絶している様子に、もしや抱き潰してしまったのかと戦慄したからだ。
 夢であれば、俺の浅ましい妄想であれば、どんなによかっただろうか。けれど頭に残る記憶と俺の身体にまとわりつく残滓が、これは現実だと訴えている。
 細い手首に残る、縄の跡。手加減出来なかったせいで皮が破れ、うっすらと赤い血が滲んでいる。頬は涙で濡れ、身体は散々たる有様だ。きっと、精神はそれ以上に傷ついている。
 俺のせいだ。

 首筋に触れていた指先を引き、立ち上がる。伊作を……いや、新野先生かシナ先生を呼んでこなければ。
 とにかく俺は、澪が目を覚ますまでに消えなければならない。俺に触れられることも、俺を視界に入れることも、澪が望むとは思えない。

 まだなにも伝えていなかったのに。

 戸を開き、廊下へと出る。後ろ手に戸を閉めた瞬間、世界が一つ終わった気がした。















 名前をどこかで呼ばれた気がした。
 ゆっくりと苦労して瞼を上げると、すぐ目の前に映ったのは白い敷き布団だった。その白い色が少し眩しくて、咄嗟にもう一度目を閉じてしまう。身体中がぐったりと重い。重いだけでなくて、手や足やあちこちに鈍い痛みが走った。長い時間をかけてまた目を開き、少しだけ顔を上げた。その途端、「あ」と近くで声がする。

「目が覚めましたか、澪先輩」

 じっと私を見つめる生徒がいた。その顔をぼんやり眺めていると、私の意識が完全に回復していないのを理解したのか、その手がやわやわと私の頭を撫でる。

「お疲れでしたら、まだ寝ていても大丈夫ですよ」
「……ん」

 口を開こうとした瞬間、喉に痛みが走った。けほっと咳き込むと、慌てて背を軽く撫でてくれる。
 咳が止まり、二度、三度瞬きをしていると、目の焦点が合ってきた。私を覗き込んでいるのは保健委員の数馬だ。つまりここは医務室なのだ。

「……私」
「鍛錬の途中で倒れたとお聞きしました。あちこち打ち身が出来ていますから、無理に動かさないでくださいね」

 言われて、そうだっけ、と納得しそうになった。手足を動かして身じろぎしてみると、身体のあちこちになにか違和感がある。医務室の夜着を着込んでいるけど、なんだかざらざらと変に擦れている感触なのだ。手を引っ張り出してみて、理解した。手首や首や足や、身体のあちこちに包帯が巻いてある。
 特に手首がじんじんと鈍く痛むし、動かしにくい。全身からつんと鼻にくる薬草の匂いがした。

「お茶でも飲みますか? もうすぐ委員長がお戻りになると思いますから、そうしたら傷の具合を診て頂けますし」
「……うん、もらってもいい?」
「はい、分かりました」

 にっこりと微笑んで、数馬は衝立の向こうに消えていく。
 またゆっくりと布団に沈み込み、手足を縮めた。まだ視界がぼんやりしている目をこすると、瞼が腫れていることに気がついた。たぶん酷い顔だろう。声すら掠れていて、出しにくい。
 なにより数馬の言った通り、長い間鍛錬をしたときみたいに身体がすごく重かった。

「ただいま、数馬」
「あ、おかえりなさい善法寺先輩。澪先輩、お目覚めになりましたよ」

 軽く戸が開く音の後、気配が一人増えた。伊作だ。たぶん私の様子を診にきてくれるだろう。ゆっくりと、手に力を入れて起き上がる。その途端。
 どたばたと慌てたような足音の後、「ごめん!」と勢いよく衝立の後ろから伊作が飛び込んできた。きょとんと伊作を見上げると、伊作は急いで私に駆け寄り、ごめん、ともう一度言って私の額に手を当てた。

「熱、ちょっとだけあるね。酷く痛むところとかないかい? 起きていても辛くない?」
「……うん、平気」
「関節とか、どこか動かしにくいところない? あ、無理しなくていいから、手首とか、動かせるかい?」
「大丈夫」

 伊作は心配そうに私の身体のあちこちを撫でて確かめて行く。ひりひりと痛む手首。……ようやく、全て思い出した。

「どうぞ澪先輩、お茶です。少し熱いから気をつけてくださいね」
「ありがとう」
「数馬、悪いけれど薬草園から痛み止めの薬草を採ってきてくれるかい? 澪に薬湯を飲ませてあげたら、在庫がなくなってしまうんだ」
「はい、分かりました。澪先輩、お大事にしてくださいね」

 微笑んで頭を下げ、数馬が立ち上がって医務室を出て行く。医務室には、私と伊作の二人きりになった。
 熱いお茶を、湯飲みを傾けて一口飲み込む。途端身体がほわっと温かくなり、身体中の重い感覚も少し薄れた気がした。

「澪」

 呼ばれて顔を向けると、伊作がじっと私を見ていた。視線を返すと、伊作は一瞬だけ目を逸らし、それからまた私を見た。
 そして、

「本当にごめん」

 私に向かって深く頭を下げた。
 もう一口お茶を飲む。湯飲みを枕元に置いてから、口を開く。お茶のおかげか、喉の掠れは少しましになっていた。

「伊作のせいなの?」
「僕のせいだ。薬を作ったのも、自室に置いていたのも、留三郎に言っておかなかったのも僕だ。……許してもらえると思ってないけど、本当にごめん」
「…………」
「少しでも君の気が晴れるなら、好きにしてくれていい」

 伊作は真剣な表情だった。でも、私はもはやどうしていいのか全く分からなくて、ただじっと伊作を見つめているだけだった。
 誰のせいとか、そういうことまで頭が回らない。伊作のせいだと言われても、なんの感情も浮かんでこない。もう、どうでもいいとすら思えた。

 ──これで終わりだ。

 私はただそれだけを静かに理解した。
 食満が好きで、何年も前から恋をしていた。両想いになれる可能性は低いと分かっていたけれど、傍にいられるだけでも幸せだった。
 食満はいつも優しくて、私に丁寧に接してくれた。もし両想いになれたら。もし私のことを好きになってくれたら。
 そんな未来がなかったとしても、夢に見るだけの希望はくれていた。

 でも、それもきっと終わり。
 元の関係には戻れない。私が名を呼んで、笑顔で振り向いてくれることも、他愛のない話しをすることも、すべてがなくなる。全部終わる。

 他のことはどうでもいい。ただそれだけが真実なら。





 私の世界が終わったのと、同じことだ。











































「とまあ、とりあえずここで目が覚めたんだけどさ」

 唖然としている留三郎に、僕は頭を下げる。夢の中、澪に頭を下げたのと同じくらい深く、真摯に。

「まさか僕のせいで君と澪がとんでもないことになるなんて、本当にごめんね。僕の夢とは言え酷いことをしたよ」
「って、お前伊作、なに真面目くさった顔で謝ってんだ! つーかどんな夢見てやがんだ! 人の惚れた女使ってなに破廉恥な想像してんだ!」

 早朝、休日だというのに僕に無理矢理起こされて『謝りたいことがあるんだけど』と見た夢を勝手に告白された留三郎は、かなり怒っている。
 うん、僕もよくよく考えたら、友達の好きな人の破廉恥な場面を夢に見るなんて、相当気持ち悪いよね。でも変な考えは毛頭ないんだよ。起きたときに、寝ぼけていたのもあって罪悪感ばりばりで、ああ早く謝らなきゃいけないって気持ちでいっぱいだったんだ。

「つーかそんな幸先悪ぃ夢を口にすんな! 昨日の今日だぞおい、俺になんか恨みでもあんのか!」

 留三郎が怒っている。というか半ば泣きかけている。そうだよね。昨日もじもじしながら『俺、好きなやつが出来てな、告白してぇんだけどさ』って澪のこと僕に相談してたのに(まあ僕は留三郎が自覚する前から知ってたし、特に驚きもしなかったけど)、次の日の朝になって『僕が作った媚薬のせいで君が澪を強姦しちゃって二人の関係が徹底的に壊れる夢を見たよ、ごめんね』とか言われたら、僕でも激怒するよ。ほんとデリカシーないよね僕。寝ぼけてなかったら絶対言わなかったよ。

「こ、これから告白しようとしてる男相手にどんな嫌がらせだよ! やめろよ! お前言霊って知ってるか!? 口にしたらその通りになるんだよ!」
「いやその、本気で泣かないでくれるかな留三郎……。それにさすがの僕も意識が飛ぶような媚薬は持ってないよ。多少気分が高揚するくらいで、その気がなかったら効力ないし」
「その気なんぞ十二分にあるに決まってんだろうが、てめえ俺舐めんなよ!」
「えーとごめん、そういう意味でもなかったんだけど。あ、ちょっと薬箱触らないで留三郎! 大丈夫だから! そんなことにはならないから!」
「うるせーばか! 責任とって媚薬系全部捨てやがれ! あと俺の茶葉には触んな! 近付くな! くんな!」
「ああこらこら落ち着いてって、大丈夫だから! ほら泣かないでよ、もー。君っていつからそんな被害妄想が酷くなったんだい? 後輩の影響?」
「誰のせいだと思ってんだこらぁぁぁぁ!」



















 一応言っておくと、留三郎はその後きちんと澪に告白してきちんと恋仲になり、きちんと真っ当なお付き合いをしている。無論僕が夢に見たような事態にはなってない。当然なんだけど。
 留三郎は恋仲になって落ち着いてから、あのときは取り乱して悪かったと彼女のいる男の余裕で僕を許してくれた。


 それでも決して僕に茶葉を触らせてくれないのは、……言霊を信じているからなのかな。



 終

バレンタインデー創作仙蔵夢  ※現パロ・学パロ
2013/02/14 (木)
ほんとは今日はふんどしの日なのでふんどし創作書こうと思ってたんですが、時間がなくて断念しました。よく分からないバレンタインデー短編でお茶を濁します。
作中の時間は2/13です。学パロ・生徒会所属・恋人設定。ツンデレになりたいツンツン。
原案は霧谷さんとうめこさんに頂きました。ありがとうございました!


 


「仙蔵。あなた、カカオ好き?」

 ひゅう、と北風が窓を小さく鳴らす。
 二月中盤の今、寒さは最高潮に達している。登下校はコート・マフラー・手袋が欠かせないし、教室内には常にストーブが炊かれている。冬でも短パン半袖で過ごしている野生児(七松小平太)もいるが、特に寒がりの女子にはこの季節は堪えるらしい。
 仙蔵の目の前で生徒会の書類を作っている澪は、スカートの下に厚い黒タイツを履いているし、部屋の中だというのにマフラーを外そうとしない。指先が冷えるのか時折カイロで手を温めつつ、ペンを動かしている。

「……カカオ?」

 唐突な問いに仙蔵がおうむ返しに答えると、「ええ。カカオ」と澪はなんでもない様子で頷く。
 澪と同じく書類仕事をしていた手を止め、仙蔵はしばらく沈黙する。
 壁に貼られたカレンダーは、今日が二月十三日だと示している。
 カカオ。つまりチョコ。そして今の時期を考えると、まず思いつくのは明日のバレンタインデーなのだが。

「まさか、私にくれるのか?」

 行き着いた答えに驚く仙蔵に、澪は書類仕事の手を止めないまま、つまらなそうに肩をすくめる。

「好きか嫌いかを聞いただけよ。あなた毎年たくさんもらってるんだし、嫌いなわけないでしょうけど」
「確かに嫌いではないが、あれはお前が『受け取ってきちんとお返しをしなければ許さない』と言うからだろうが」
「当たり前でしょう。女の子が心を込めて贈ったものを受け取らないなんて、バチが当たるわよ」

 たちまち眉をひそめる澪は、真剣な表情だ。仮にも恋人である仙蔵がバレンタインデーに大量にチョコをもらおうが丁寧にお返しをしようが、なんとも思わないどころかそれを強制する有様だ。口で言うだけでなく、去年澪は仙蔵がもらったチョコをきちんと(勝手に)リストアップしてくれ、お返しの品を購入するのにすらついてきた。手伝いというより、仙蔵が誠意のある対応をしたかどうか見届けるためだろう。仙蔵と恋仲になった後でも男嫌いと有名な澪は、その逆に女性にはとても甘い。その甘さを少しくらいこちらに向けてくれてもいいのではないか、と仙蔵が思うほどにだ。
 しかも、そうまでしても澪は去年、仙蔵にチロルチョコ一つ渡そうとはしなかった。しかし元々そういう女だと理解していたし、間違いなく今年も同じだろうと、半ば諦めていたのだが。
 仙蔵は今までの会話を反芻し、もう一度確かめるように口を開く。

「お前、私にチョコをくれるのか?」
「……あげるなんて言ってないわ。あなたどうせ今年もたくさんもらうんだから、私からのなんていらないでしょう?」
「いるに決まっているだろう」

 どうやら間違いないらしいと確信した仙蔵が即答すると、澪はやはり顔も上げず手も止めず、一つ嘆息した。

「チョコをたくさん食べたら、カフェイン中毒になるわよ」
「構わないが」
「もちろん他の子からもらったチョコも食べた上でよ?」
「当然だ。お前がくれるのならば、なによりも先に食べるがな」
「…………そう」

 澪はほんの一瞬だけ戸惑ったようにペンの動きを止め、それから黙々とまた書類を書き始める。頑なに顔を上げようとしない澪の様子を見つめていた仙蔵は、ふいに立ち上がって澪に身を乗り出し、微笑んだ。

「お前がくれるならば、喜んでもらう。当然だろう」
「……顔が近いわよ鬱陶しい」
「なに、頬が赤いのでな。どうしたのかと思っただけだ」
「あ、赤くないわよ」

 慌てて仙蔵から身を引いて、澪は軽く仙蔵を睨む。その頬はやはり、うっすらと赤く染まっている。滅多に見れない動揺した姿に、仙蔵は席に戻りながら笑みを深くする。独り言のようにぽつりと。

「いいものを見れたな。隠しカメラでも仕掛けておくんだったか」
「聞こえてるわよ、馬鹿。……ほんとに中毒になっても知らないから」

 負け惜しみのように毒づきながら、澪は傍らの通学カバンを開く。その中から取りだした可愛らしい包装紙とリボンに包まれた長方形の小さな箱を、少し乱暴に仙蔵へと突き出す。
 まさか今用意していたとは想像しておらず、仙蔵は軽く目を見開く。

「今くれるのか」
「……だって、当日に渡すなんて目立って嫌だもの。い、いらないなら捨てるから、返して」
「そんな勿体ないことさせるか。嬉しいと言っただろう」

 恥ずかしがっているのか照れているのか、澪は普段よりやけに挙動不審だ。その様子が微笑ましくもあり可愛らしくもあり、仙蔵は丁寧に包装されたチョコを、澪が引っ込めないうちに受け取った。
 市販品かと思うほど綺麗な包装だが、ブランド名もなくピンク色でもなくハート柄でもないので、おそらく澪の手によるものだろう。

「開けて良いのか?」
「す、好きにしなさいよ。不味くても知らないから」
「お前からというのが一番大事だ。もちろん不味くても毒が入っていても食べるがな」

 上機嫌ににこにこと包みを開く仙蔵に、澪は今までの態度を一変させておそるおそると仙蔵の様子を窺う。これまた珍しい小動物じみた仕草に、仙蔵はますます機嫌がよくなった。普段あまり好意を見せない澪がこれほど素直になっているのは、初めてかもしれない。

「……不味かったら、捨てていいから」
「捨てるわけがないだろう。全部食べるさ」

 リボンを解き、破れないように丁寧に包装紙を外す。そこから出てきたのは、きっちりと厚紙で包装されたチョコレートだ。一般的に板チョコと呼ばれる外見。どうやらチョコ自体は手作りではないらしい。
 しかしそれが市販品であれ安物であれ明治のミルクチョコレートであれ森永のミルクチョコレートであれ上機嫌を崩すことはなかったはずの仙蔵の手が、そのときふいにピタリと止まった。
 普通のものより少し厚みがありずっしりとしている板チョコ。その厚紙にでかでか書かれている文字は。

『CACAO 99%』

 反射的にひくり、と頬をひきつらせて澪に視線を向ける仙蔵に、澪はやはり小動物じみた仕草でおずおずと小首を傾げて見せる。きらきらと、期待に満ちた微笑みで。

「全部、食べてくれるんでしょう……?」

 絶体絶命。
 仙蔵の脳内に、その漢字四文字が点滅する。
 カカオ99%。普通のチョコとは一線を画すカカオの化け物。普通の板チョコだと思って囓るとその後しばらくはチョコが食べられなくなるほどの苦味と渋み。数年前流行ったそれを昔、一口食べた小平太がしかめ面で言ったものだ。『なんかこれ、クレヨンみたいな味がする』。
 お前クレヨン食べたことあるのか、というツッコミはともかくとして、あの胃袋ブラックホールの小平太ですら顔を歪めたチョコ。それがカカオ99%チョコだ。
 さすがに絶句している仙蔵に、澪はにこにこと笑みを崩さない。先ほどのおずおずとした様子ではない、やけに幸せそうな微笑みで。

「それね、大掃除のときに台所から出てきたの。もう売ってない貴重なものだからあなたにあげようと思ったんだけど、カカオ99%なんて半端でしょう? どうにかして100%にしようと頑張ったんだけど、残り1%の乳化剤と香料を抜くとただのカカオの実になっちゃうの。だから仕方ないけど、99%で我慢してね?」

 輝く瞳で言われ、仙蔵はごくりと喉を鳴らす。澪がくれたものならばなんでも食べると言った言葉は本音だが、このチョコ(カカオ99%)は単品で食べるのは非常に難しい。温かな牛乳と共に少しずつ口の中で溶かして食べるならばなんとかなるが、今ここで豪快に、というのは至難の業だ。
 
「……ああ、そうだな」

 しかし。苦かろうが渋かろうが、バレンタインに贈られたチョコ、という事実は変わらない。たとえ澪が仙蔵の嫌がる姿を見たいだけだとしても、チョコをくれようとしたことは(今までと比べて)純粋に嬉しい。そもそももちろん、食べないという選択肢はないのだから。

「99%だろうが100%だろうが、お前が私にくれた、ということが一番大事だ。そう言っただろう?」

 その思いに嘘はない。腹をくくり、仙蔵はチョコを食べようと厚紙の包装に手をかけた。
 チョコを取り出そうとした、そのとき。

「冗談よ」

 包みを開く寸前。ぽつりと澪の声が落ちる。澪はそれまでの笑みではなくいつもの少し冷たい表情で、書類仕事をしていた筆記用具を片付け始めた。仙蔵と目を合わせず、淡々と。

「ごめんなさい、謝るわ。少し悪ふざけをしたかっただけなんだけど、やりすぎたわね。……それ、捨てていいわ。賞味期限も過ぎてるし、食べないで」

 そのまま手早く書類をまとめると、澪は生徒会室の資料棚にさっさと仕舞ってしまう。

「ごめんなさい、終わったから先に帰るわね」

 仙蔵の返事を拒絶するように、澪はコートを着て荷物を纏め、半ば逃げるように戸に手をかける。

「澪」

 後ろから掛けられた声に、澪は一瞬迷うように身体の動きを止めた後、ゆっくりと仙蔵を振り向いた。冷たい印象の無表情。やや俯き加減で「なに」と小さな声に、仙蔵は澪が渡した板チョコを掲げてみせる。

「少し変だと思ったんだ。私にこれを押しつけたいだけなら、わざわざここまで丁寧に梱包する必要などないだろう? チョコをやると言って私の口に放り込めばいいだけだ」

 言って、仙蔵は手の中の厚紙をゆっくりと開く。スライド式になっている厚紙の箱には、本来ならば銀紙に包まれたカカオ99%の板チョコが詰まっているはずだが。

「本当に作ってくれたんだろう? 私のために」

 そこに入っていたのは、カカオ99%の板チョコでも市販品の板チョコでもなく、一目で手作りと分かる生チョコだ。柔らかそうな茶色のチョコに、ココアパウダーがまぶしてある。少し香るのはラム酒だろう。シンプルで飾り気はないが、見栄えよく綺麗に切られているし、素人なりにそこそこ手が込んでいることは見て取れる。

「違うわ。友達にあげる前に作った実験用よ」
「構わんさ。私のために作ってくれたのには代わらないだろう」

 それを見透かされるのが嫌だったのか。恥ずかしかったのか、慣れぬことで勝手が分からなかったのか。意地を張ってみただけなのか。
 真意がどこにあるかは分からないが、澪が仙蔵に贈るためにと時間を割いて作ってくれたのは事実だ。そして、それで十分だと仙蔵は思う。
 澪は少し俯いて、「ごめんなさい」とまた謝った。

「……素直じゃない女は嫌いでしょう?」
「素直でも素直じゃなくてもお前が好きだ。告白したときに伝えただろう」

 澪はしばらく間を置いて、それからか細い声で「ありがとう」と呟く。そして背を向けて、今度こそ足早に部屋を出て行った。
 放課後の校舎。廊下を歩く澪の足音が少しずつ去っていく。
 その足音に耳を澄ませながら、仙蔵は小さく微笑んだ。
 素直じゃない。滅多に好意を口にしない。好意の表現方法が回りくどい。それでも。

「全てひっくるめて好きなのだから、仕方ない」

 それも告白したときに伝えた言葉だ。
 冷たく見えても可愛らしくなくとも、想いの伝え方は人それぞれだ。
 想いそのものは目には見えない。けれどこうして形にしてくれれば、はっきりする。言葉よりも行動よりも、チョコの甘さがなによりの答えだ。

 生チョコを一つ口に入れる。
 広がるカカオの味が、愛おしかった。












 次いで、盛大に咳き込む。
 カカオ99%のチョコを溶かして生クリームとほんの少し砂糖を加えただけの、凄まじく苦い生チョコだった。
 

現パロ三郎夢『雨にも負けず風にも負けず略』
2012/11/27 (火)
周囲で指輪ネタが流行ってたので、慌てて波に乗りました(乗り損ねた感もありますが)
指輪ネタの三郎夢、現パロいちゃこきあほギャグ、食ってばかりのヒロイン。短いです。



『雨にも負けず風にも負けずドーナツにもとんがりコーンにも負けず』


 結婚するときには、結婚指輪を互いの指に嵌め。
 婚約するときには、婚約指輪を男性から女性に贈る。

 人によって考え方はいろいろあるだろうが、それが概ね今の時代のセオリーというものだ。
 俺は別に、夢見がちな女性のように花火で文字を描くような壮大なプロポーズがしたいわけでもないし、ゴンドラで降りてくるような派手な結婚式を挙げたいわけでもない。
 けれど結婚したい相手がいて普通にプロポーズをしたいと思ったとき、そこに婚約指輪はあったほうがいいだろう。指輪なしであいつがショックを受けるとも思わないが、周囲の奴らに貧乏でもないのに指輪も買ってやらない男とも呼ばれたくはない。
 そんなわけで婚約指輪を買いに行こうと決めたものの、問題は俺があいつの指のサイズを知らないことだ。
 俺は今まで、澪が指輪を嵌めているところを一度も見たことがない。あまりその手のことに関心のないあいつのこと、恐らく本人も自分の指のサイズが何号なのか理解していないだろう。
 つまり本人に聞いても無駄だろうし、ならば二人で買いに行くというのも正直気恥ずかしい。大体、婚約指輪を買いに行こうなどと誘ったら、『指輪なんていらないから二人で食べ放題に行こう。そっちのが思い出になるよ』と笑顔で言いそうだ。

「……本当に言いそうだ」

 改めて想像してみて嘆息し、俺は両手それぞれに準備したものを今一度確認する。
 左手にはなんの変哲もない白い糸。右手には、これまたどこにでもあるボールペン。
 つまりとても簡単な方法で、澪の指に糸を巻き付け、一周分にペンで印をつけてサイズを計ってやろうという魂胆だ。我ながら原始的だとは思うが、確実なのも事実だ。澪の左手薬指のサイズさえ分かれば、あとはそれに合わせた指輪を買ってくるだけだ。
 正直、大体これくらいのサイズだろう、という予測はついている。人間観察は得意なほうだ。九割方正解するだろう自信もある。けれど万が一違った場合を考えると、やはり正確に計ったほうがいい。
 サイズが違うと澪が怒るから、ではない。薬指に小さすぎたなら小指に、大きすぎたなら中指にすればいいよと、嬉々として他の指に嵌める姿が目に浮かぶからだ。婚約(結婚)指輪は左手薬指ではないと意味がない、という理論はおそらく澪には通じない。つまり失敗は許されない。俺だってせめて人並みのロマンチックさは欲しいのだ。
 というわけで、俺は糸とペンを用意していたテーブルを立ち、いざ気合を入れて澪の座っているソファへと向かう。
 ここは澪の下宿しているマンションで、澪は先程からテレビで動物番組をのんびり眺めている。パンダの赤ちゃんがたくさん生まれましたーという特集に「わぁ、黒豆大福がいっぱい……」とズレたことを言いながらココアを飲む澪に、俺はこそこそと後ろから近付いた。澪はわりと鈍い性質だ。適当に誤魔化していれば気づかれないだろう。
 糸とボールペンを見咎められぬよう手の中に握り込み、何気ない様子を装って澪の隣に座る。左手を触りやすいよう、左側にだ。澪はちらりと俺を見たが、なにも言わずにまたテレビに視線を戻す。しめしめ、なにも勘づいていないだろう。
 澪の右手は相変わらずココアの入ったマグを持っているが、左手はソファ前のテーブルの上になんとなく置いてあるだけだ。いける。これはいける。

「ねえ三郎、有名な絵本でぐるぐる回ってバターになっちゃった動物ってなんだっけ」
「トラだろ」
「あれチーターじゃなかったっけ……。あのパンケーキ美味しそうだったなあ」

 番組途中の動物クイズに答えつつ(動物クイズかこれ?)、俺はそわそわと澪の左手に手を伸ばす。仮にも恋人同士だ、なんの意味もなく手を触っていても不思議ではない。不思議ではないよな?
 不思議ではない不思議ではないと言い聞かせつつ、俺はとうとう澪の指に触れようと……
 した瞬間、見計らったように澪の左手が動き、目の前のでかい皿に大量に盛られたドーナツを一つつかみ取り、むしゃむしゃと食べ出した。

「…………あれ?」
「リスが一心に食べてると、ドングリって美味しそうに見えるよねー。昔生でかじったら美味しくなかったけど」

 澪の左手はドーナツを口元に持っていくので忙しそうで、とても指のサイズを計るような隙はない。いやいくらなんでも生でドングリはやばいだろせめてあく抜きしろと言うのをやめて、俺は澪と、目の前の大量のドーナツとに交互に視線を向ける。
 澪の右手はマグを掴み、左手はドーナツを運び続ける。小ぶりのドーナツを一つ食べ終えると、澪の左手はまた新しいドーナツに伸ばされる。しかしドーナツもドーナツで十数個の大量盛りで、すぐになくなりそうな気配はない。
 なにこの永久機関。

「澪さん、その大量のドーナツはなんですか?」
「え? 三郎がお土産に持って来てくれたんじゃない。今ミスドが100円セールしてるからって」
「はいそうでした」

 俺ばかじゃねーの? なに自分自身の邪魔してんの? 指輪のサイズ計る目的忘れてなに大量にドーナツ買ってきてんの?

「三郎も食べる? この新作のお芋ポンデ美味しいよー」
「ドーナツなどいらぬっ!」
「……どしたの?」
「い、いや、今ちょっと腹の調子が悪くてな……」
「そうなの? 可哀想だね」

 心底同情する視線を向けながらも、澪は決してドーナツを手放さそうとしない。どころか、どうやら空っぽになったらしいマグを俺に差し出してくる。

「お腹の調子悪いのにごめん三郎、ココアのお代わり淹れてくれる?」

 二人でいるときは、飲み物を含む全ての調理は俺が引き受けている(そっちのが美味しいと澪が喜ぶからだ)。申し訳なさそうに差し出されたマグを無言で受け取り、俺はソファから立ち上がる。
 澪は度を越した大食いではないが、とにかく食べるのが好きだ。ドーナツのように明日になれば油が回って味が落ちてしまうものは、意地でも美味しいうちにと食べ続ける。
 つまりなにが言いたいかと言うと、今日は無理だ。

「あ、おさるさんもお芋食べてる。蜂蜜とバターつけたの美味しそう」

 芋ポンデとやらを食べながら、澪は楽しそうだ。
 そうだな蜂蜜とバターつけた芋美味いよなと棒読みに相槌を打ちつつ、俺はココアを淹れる。ドーナツに負けた、という悔しさを噛みしめながら。
 まあ、一度の失敗でめげていても仕方ない。明日だ。明日こそはと心に誓い、気合を入れ直した。


 次の日。

「お、おーい澪、悪いが今日は土産はないから……ってお前それなにしてんの?」
「みてみて、勘右衛門がとんがりコーンくれたの! 指に嵌めて食べるのが通だよって教えてくれてね!」
「オッケー、あいつシメる」

 その次の日。

「澪澪、今日はサンドイッチ作ってやるからな! 片手だけで食えるし楽ちんだろ!」
「あ、ごめん三郎、ナイフとフォークにしてくれる? 今日タカ丸さんがデコネイルアートしてくれたの! 練習だからタダでいいって! ドーナツデコにしてくれたんだよー!」
「うんオッケー、明日タカ丸さんにバナナサンドイッチぶつけてくるわ」

 そのまた次の日。

「デコネイルは昨日タカ丸さんに外させたし、もう大丈夫なはずだ! ……よし澪、今日はおにぎり作るぞ! お前の好きな明太マヨおにぎりとチーズハンバーグおにぎりとカニカマおにぎりと野沢菜じゃこおにぎりな!」
「ほんと三郎、嬉しい! 私左手の薬指突き指しちゃって包帯ぐるぐるだから、両手で食べづらいんだー」
「なにお前突き指してんのおおおおおおおおおおおおおお!?」


 これはないわ。
 自分で言ったとおり包帯ぐるぐる巻きの澪の左手薬指に、俺はとうとう絶望した。
 なんなの。もしかして見えないなにかに邪魔されてんの? 澪、お前わざとやってんじゃないよな?
 思わずその場にしゃがみ込んで膝を抱える俺を、澪が不思議そうに覗き込んでくる。

「三郎どうしたの? 突き指したの怒ってる?」
「……怒ってねえし。指のサイズ計れねぇからへこんでるだけだし」
「指のサイズ? なんで?」
「婚約指輪買うためだよ……」
「三郎、結婚するの?」

 じっと俺を見る澪と、しばし顔を見合わせる。
 ……ああ、そうだ。隠そうとするからいけないのだろう。
 僅かに視線を逸らし、意を決して口を開いた。白い包帯が巻かれている、澪の薬指を見つめながら。

「……突き指。治ったら指輪買いに行くか」
「うん?」
「俺と結婚してくれ」

 澪はぱちくりと目を瞬かせた後、嬉しそうに微笑んだ。

「うんっ」

 始めからこうすればよかったのか。結局ロマンチックにはほど遠い。
 多大な疲労感に嘆息すると、澪は可笑しそうに笑って俺の隣に腰を下ろした。









「ねぇ三郎。指輪買いに行くの、おにぎり食べたあとでいい?」
「ちげーし! 指治ってからだって言っただろ! ……はい分かりました、今すぐおにぎり作ります」



寝てる間に計ればいいじゃねーかリア充爆発しろ。
原案はうめこさんです。ありがとう!

未完の長次夢『双葉』
2012/09/04 (火)
こういう設定って面白いんじゃなかろうかとテンション高く書き始めたんですが、途中で何番煎じだろうということに気づいてやめました。変な行動を取る六年生の話し。
長次夢ってなってますが、さほど夢要素はありません。未完です。

 


 少し前から、なんだか騒がしいなとは思っていた。
 騒がしいとは言っても、下級生達がどたばた走り回っているのとは少し違う。たとえば四年と六年のとある生徒が、自主練が高じて学園内を破壊するのとも違う。加えて言うならば、小松田さんがうっかりミスでなにか重大な事件を引き起こしたのとも違う。
 さっさと言ってしまえば、三日程前から六年男子の様子がおかしかった。長期実習でもないのに食堂や共用場に姿を見せなくなり、それまで暇さえあれば自主練だ喧嘩だと騒動を起こしていた姿もとんと見なくなった。教室移動の時なんかに偶然すれ違っても、なんだか誰もが覇気が薄かったり苛々していたり、とにかくどこか普段とは違う。上級生男子の一部は事情を知っているのか、人目をはばかるように会話をしていたり、どこかぴりぴりと緊張している雰囲気すらあった。
 下級生ならいざ知らず、さすがに上級生にもなれば、その特異な空気はすぐに伝わってくる。たぶん特殊な実習が進められているのだろう、というのが、事情を知らない上級生達の大方の見解だったのだけど。

「そういえば、長次も最近いないなぁ」
「というか、そもそも六年自体ほとんどいないよねー」

 食堂で朝食を食べながら、私はきょろきょろと食堂内を見回す。幼なじみの長次が、同じく三日前から姿を見せないのだ。食事の時間なんて入れ違いになることも多いだろうけど、三日も見ないというのはさすがに珍しい。
 そもそも完全に姿を見ないということならまだ分かるのだけど、授業にきちんと出て委員会活動もこなしているというのだから、不思議な話だ。

「大人しいこと自体はいいことだけどねー」
「昨日、三年の子が言ってたよ。委員会活動で、委員長の様子がおかしいって。なんかぼーっとしてるし、前に言ったことを忘れてたりするってさ。体調悪いのかなあってその子は心配してたけど」
「体調の悪い六年ねぇ……」

 隣の席の友達が、焼き魚の骨を取りながら軽く肩をすくめる。
 一応それを想像しようとして、私はすぐに諦めた。無理だ。

「あいつらが全員体調悪いなんて、ちょっと考えられないなー」
「そうよねえ、私達が下剤盛ったっていうなら分かるけど。最近は忙しくて毒団子も作ってないもの」
「……あ、でもそうか。委員会活動はやってるんだよね。図書室に様子見に行こうかな、食事だけ長屋で食べてるのかもしれないし」
「そうね。委員会活動が滞ったって話しは聞かないし」
「むしろ逆みたいですよ、先輩方」
「へ? ……逆?」

 突然話しに入ってきたのは、驚くなかれ隣の席の一年生だった(私は驚いた)。一年は組の庄左ヱ門だ。一応は小声で話していたのだけど、私達の会話を聞いていたらしい。食事を終えたらしい庄左ヱ門は、湯飲みを傾けてお茶を飲み干し、ことりとそれを机の上に置く。

「はい。委員会活動が滞るどころか、すごく捗ってるって、は組のみんなが言ってます。特に会計と用具が顕著です。前日に時間が足りなくて残しておいた帳簿や補修が、次の日になると綺麗に片付いているとか」
「え? それ全部の委員会?」
「いいえ、全部ではないですね。委員長委員会の仕事は変わりありませんし、生物委員会も脱走騒ぎでいつも通り大変そうですしね」

 委員会活動が捗っている。私と友達は顔を見合わせ、次いで庄左ヱ門へと同時に目を向けた。庄左ヱ門は軽く首を傾げ、「僕にはよく分かりませんが」と苦笑する。

「なにそれ、ほんとなら怪奇現象でしょ? 潮江とか食満とかなんて言ってるの?」
「僕も聞いてみたら、『委員長はふーんって感じで特に興味なさそうだった』って言ってました。どっちの委員会もです」
「……ほほー」
「ふーむ」

 三人揃って、一瞬微妙な間を持った。実際問題、委員会の仕事が誰も知らないのに勝手に終わっていたら、それは大事だろう。つまり、感心がなさそうに見える委員長達の仕業なのだろうけど。

「でも、隠す意味ないよね」
「そうですよね。僕もそう思うんですが、みんなは『算盤小僧がやってくれたんだ』とか『ナメクジさんが助けてくれたんだ』って喜んでます」
「可愛いなぁ一年生……」
「庄左ヱ門。一年生にも庄左ヱ門みたいに不思議に思ってる子がいる?」
「……いえ、たぶんあまりいないんじゃないかと思います。僕の場合、ただ尾浜先輩と鉢屋先輩がなんだか忙しそうにしてらっしゃったので、なにかあったんだろうなって思っただけで。……教えてくださらないということは箝口令が敷かれているのでしょうから、僕からお聞きはしていませんし」

 庄左ヱ門はそこまで言うと、今度はちらりと私と友達を見た。先輩達はなにか知りませんか、という意味だろう。

「ごめんね、私達もほんとに知らないんだ」
「たぶん極秘の実習だろうなー、って想像してるくらい」
「いえ、こちらこそ勝手にお話しに入ってすみませんでした。実習でしたら、僕が知ってもお邪魔にしかならないでしょうし、あまり気にしないようにします。ありがとうございました」

 ぺこりと礼儀正しく頭を下げて、庄左ヱ門は食事を終えた皿を受け渡し口へと返しに行く。自然とそれを目で追い掛けてから、私は前を向いて箸を取り上げた。

「頭のいい子だねえ……六年男子の一部より精神年齢高そう」
「尾浜と鉢屋がなにか忙しそう、か。ま、あの二人委員長委員会だし、実習ならそれの手伝いしてるのかもしれないしね」
「だね、たぶんそうだろうね」

 とりあえずその話はそこでおしまいにして、私と友達は食事に専念し始めた。あまり長く話していても、他の生徒にまた聞かれてしまうかもしれないから。
 六年の様子がおかしい。それはとりあえず確定だろう。その理由が集団食中毒ではないことも。けれど、ただそれだけならば私達には関係ないことだ。実際に極秘の実習であったとしても、私達くの一教室にはなんの影響もない。ま、長次のことはちょっと気になるけど、それだけだ。
 だから別に、長次以外の六年の物忘れが激しかろうが、委員会が捗っていようが、別に気にする必要はない。
 ……ないんだけど。

「ごちそうさまー」
「ごちそうさま」

 気にする必要はないんだけど、なんとなくそのことを考えてしまうのは、多分友達や庄左ヱ門も興味津々なように、どこかただ事でない雰囲気を感じるからだろう。
 私は一人で悶々と悩んでいるのが得意じゃない。だから、とりあえず放課後になったら図書室に行ってみよう、と決めた。極秘実習なら長次だって教えてくれないだろうけど、元気な姿を見れば、それはそれで安心出来るだろうから。





 授業はきちんと定刻通りに終わり、当番の掃除を済ませてから、私は決めた通りに図書室へと向かっていた。
 私は長次の影響でよく本を読むけれど、頻繁に図書室に足を運んでいるわけじゃない。読みたい本は大抵長次が探してきて直接渡してくれるし、探している資料なんかがあれば、図書室に行くより先に長次に聞いてしまう。図書室に向かう用事と言えば、今のように長次に会うためがほとんどなのだから、傍から見れば不真面目なのも甚だしい。

「あ、澪先輩、こんにちはー……」
「怪士丸、本重そうだね。回収中かな?」

 図書室へ向かう廊下で、何冊もの本を抱えた怪士丸とすれ違った。両腕に抱えているのは、もちろん図書室の本だろう。

「いえ、斜堂先生が授業でお使いになる資料です。職員室に届けに行くんですよー……」
「一人で大丈夫? 手伝ってあげようか」

 少しふらふらしているので思わず声をかけると、怪士丸は瞬時にぴしっと姿勢を正した。首をぶんぶんと横に振る。

「い、いいえー、僕ひとりで大丈夫ですからー! ありがとうございます」
「そっか、頑張ってね! ……あ、そうだ。長次、図書室にいるかな?」
「えっとー……。はい、今日は当番じゃないけど来られてましたから、多分閉架図書にいらっしゃると思います」
「うん、ありがと」

 ではではーと頭を下げて、怪士丸はうんしょうんしょと本を運んでいく。長次が図書室にいるという情報を得て、とりあえず私はほっとした。共用場に姿を見せないだけで、やはり委員会には来ているのだ。
 私語厳禁、と大きく張り紙された戸を開け、図書室内に足を踏み入れる。静まり返ったそこでは、数人の生徒達が読書や自習に励んでいた。ちらりと中を見回して、雷蔵が貸し出し口でなにか作業をしているのを見つける。怪士丸が閉架図書にと言っていた通り、図書室内に長次の姿は見えなかった。
 雷蔵に聞いてみようと、私は貸し出し口へ足を進める。雷蔵は図書館便りの下書きをしているらしく、あーでもないこーでもないと反故紙にいろいろ書き連ねて悩んでいるところだった。集中しているせいか、私がすぐ横にいても気づかない様子だ。少し屈んで、雷蔵だけに聞こえるように小さく声をかけた。

「雷蔵? ごめん、忙しい?」
「…………っ、は! あ、すみません。なんでしょうか」
「うん、長次いるかな? 委員会中申し訳ないんだけど、会えるようなら会いたいんだけど……。あ、忙しければ委員会終わってからでもいいから、そのことだけ伝言してくれるかな?」

 委員会中に邪魔しちゃいけないとは思うけど、伝言だけならばたぶん大丈夫だろう。もし無理でも、委員会後なら長次も時間を作ってくれるかもしれない。
 そう思っていたのだけど、雷蔵はぴくりと反応すると、次いで困ったように口を開いた。

「えっと、……その、申し訳ないんですが、中在家先輩は本日委員会をお休みしてらっしゃるのでご不在なんです」
「え? でも……」
「長期のお使いか実習かで、しばらく委員会をお休みされているんです。とにかく図書室内にはいらっしゃいませんから……」
「…………そう、なの?」

 思わず、素の間の抜けた声を上げてしまった。怪士丸は長次は図書室にいると言っていた。おそらくそれが正解だと思う。だけど、雷蔵が嘘をつく意味も分からない。
 もしかすると、私が思っていた以上に複雑な事情なりなんなりがあるのかもしれない。雷蔵だって嫌がらせで嘘をついているわけではないだろう。どうしたものかと思っていると、急に雷蔵が「あー……」と気合が解けたように俯いた。雷蔵はばつが悪そうに私と目を合わせないまま、ぽつりと言う。

「すみません澪先輩、今のは嘘です……」
「え、う、うん」
「本当はいらっしゃるんですが、その、少し込み入った事情がありまして……」
「あ、無理にとは言わないよ。長次が元気ならそれでいいから……」
「…………」

 雷蔵はしばし迷った様子を見せた後、ゆっくりと席を立った。目で問うと、「少しだけ待っていてください」と返ってくる。

「雷蔵、ほんとに無理しなくてもいいよ?」
「いえ、ご伝言はお伝えして来ます。澪先輩もお困りになるでしょうから」

 小さく一礼して、雷蔵は図書室の奥へと消えていく。微かに聞こえた戸の開閉音は、おそらく閉架図書のものだろう。
 ちょっと長次の姿を見ればそれで満足だったのに、なんだか余計なことをしてしまった気がする。気になるのは確かだけど、邪魔したかったわけじゃないし。
 貸し出し口の隣に腰を下ろし、大人しく雷蔵を待つことにした。
 さほど時間を置かずに、また戸の開閉音がした。微かな足音の主はやっぱり雷蔵一人だ。雷蔵は貸し出し口に腰を下ろし、開口一番、「すみません」と小声で謝った。

「やっぱり駄目だった?」
「はい……。それで、これを」

 雷蔵がそっとなにかを差し出してくる。小さな紙だ。反射的に受け取って広げると、見慣れた長次の文字が走っている。

「……うん、ありがとう。委員会中にごめんね」
「いいえ、こちらこそ申し訳ありませんでした」

 雷蔵に礼を言い、これ以上委員会の邪魔をしないように急いで図書室を出た。長居すると雷蔵も気にするだろうから。
 くの一長屋に向かいながら、さきほど渡された紙をもう一度開いてみる。私のそれより数倍美しく流麗な長次の字は、ごく簡潔に二つのことを伝えていた。

 ──元気だ、心配するな、ありがとう。

 そして、

 ──都合が合えば、就寝時間後に、図書室で。







「澪先輩、お帰りになられました。ご伝言の紙もお渡ししました」
「ああ」

 すまない、と長次の目が言う。
 三日前から、長次は当番でない日も閉架図書に篭もっている。下級生には『古書の整理をしている』と伝えてあるし誰もそれを疑っていないが、事情を知っている雷蔵にはその理由は明白すぎるほどだった。長次はこの事態を打開させる方法がないか、片っ端から文献を当たっているのだ。
 長次の周りに積み重ねられた資料の類は、軽く小山のようになっている。とはいえその努力が効を成すとは雷蔵にはあまり思えなかったし、おそらく長次自身もそれは理解しているだろう。けれどそうと分かっていても篭もらざるを得ないほどに、事態は深刻だった。

「……あの、中在家先輩。余計なことを言うようですが、澪先輩にお会いになるくらいは構わないのではないでしょうか?」

 あれ以来ほとんどの六年生は寮に閉じこもっているが、学園内を歩くこと自体に支障があるわけではない。実際、普通に委員会活動を行っている者もいる。無理に姿を隠す必要はないだろうという雷蔵の言葉に、長次は文机の上で文献の頁を捲っていた手を止める。雷蔵はおずおずと、寡黙な図書委員長の背に言葉を続ける。

「澪先輩もご心配のようでしたし、お一人でお会いする分には特に問題はないのではと……」
「…………」

 一瞬、なにかを思案するような間が流れた。けれど長次から言葉はない。雷蔵は気落ちしたように眉を下げ、ぺこりと頭を下げる。

「余計なことを言って申し訳ありませんでした」
「……理由は説明するつもりだ。先程の伝言にそう書いた」
「あ……す、すみません」
「いや。ありがとう」

 ぽつりと、長次の言葉が落ちる。止まっていた手が動き、またかさりと紙を捲る音が響き出した。









「澪先輩、お出かけですか?」
「うん。ちょっと友達のとこで試験勉強してくるね」
「はい、おやすみなさい」

 同室の後輩に声をかけて、こっそりくの一長屋を抜け出した。友達のところに行くと言ったくせに寝間着ではなく装束姿で勉強道具も持っていないのだから、たぶん本当のところはバレているだろうけど。
 共用場に六年生が姿を見せないと言っても、夜の学園内を出歩いている生徒が皆無ということはなかった。むしろ程々に気配はある。それが自主練なのか委員会活動なのかは分からないけれど、やはり集団で体調を崩しているような単調な理由ではないのだろう。

「とりあえず長次に聞くのが一番だよね……」

 私が考えたところで、どうせ答えが出ないか間違っているかだ。それより、長次本人から聞いたほうがすっきりする。
 教室長屋の棟には、さすがにほとんど人はいなかった。途中にあった委員会長屋にはぽつぽつと灯りが点いていたけど、図書室付近は無人そのものだ。
 図書室自体に鍵は掛かっていなかったので、長次はいるのだろう。音が響かないようにそっと戸を開き、中に入って、また気をつけて戸を閉めた。
 図書室内は随分と静まり返っていた。普段、図書委員達が苦心して作り出しているものとはまた違う、濃い静寂。暗闇の中、月明かりに照らされた本がずらりと並ぶ。
 灯りがないのだから当然だけど、図書室内には長次はいなかった。その代わり、奥から微かなひとの気配がする。昼間雷蔵が長次を呼びに行ってくれた場所。閉架図書だ。
 閉架図書の戸の隙間から、柔い光が漏れ出でている。間違いなく、中にひと……長次がいる。
 普段ならば図書委員達以外はまず入れない場所だ。けれど伝言の紙からすると、伺いを立てる必要はないだろう。長次、ほんとにいるかなあ。少し緊張しながら、軽く戸を叩いてみる。
 微かに、ぱたん、と本を閉じるような音がした。言葉がないのは、私だと理解しているからだろう。鍵が掛かっていないことを確かめて、閉架図書の戸を開いた。

「…………あ、」

 柔らかな光に視界が浸食され、眩しくて瞬きを繰り返す。今まで暗闇に慣れた目には少しだけ刺激が強かった。二呼吸ほどの間を置いてゆっくり目を開くと、閉架図書内の様子が浮かび上がる。図書室内と同じくずらりと並んだ書籍の山。貴重な本ばかりだから状態を良くするためか、空気孔以外の窓はなく、地下室のようなひんやりとした空気に包まれている。唯一の灯りは、閉架図書の少し奥、作業用の文机の上の、ろうそくの火だ。
 そのろうそくの火が、揺らめいた。すぐ近くで動きがあったからだ。見慣れた緑の装束に包まれた背中がゆっくり振り返り、私の名を小さく呼ぶ。澪、と。

「長次!」

 咄嗟に名を呼び、そのまま飛びかかるように抱きついた。勢いづいた私の身体を、長次の腕がやすやすと受け止めてくれる。ぽんぽんと優しく頭を撫でられて、顔がへにゃりとにやけた。

「久しぶり! って言っても五日ぶりくらいだけど!」
「ああ」
「元気? ちゃん寝て食べてる?」
「……大丈夫だ」
「そっか、よかった!」

 私の目にも、長次は疲れているようには見えなかった。元気満々にも見えなかったけど、瞳は穏やかだったし、怪我もしていない。体調不良を抱えている様子もない。そのことに、とりあえずほっとした。
 嬉しくなってぎゅーっと抱きつくと、子どもをあやすような手つきで長次も軽く抱き返してくれる。そのまましばらく長次を堪能して、満足してから身体を離した。
 よく見てみると、長次が向かっていた文机の上とその周りは本だらけだった。いつもやっている虫食い文書の補修作業や在庫一覧の作成とは違う。貴重だろう古書が山のように積まれているし、反故紙にいろいろと書いた跡も見える。まるで試験勉強のようだ。
 ふいに、それで思い当たった。

「あ、もしかして長次、最近なにか調べてて篭もってたの? そういう実習? 暗号解読とか?」

 六年生が姿を見せないのはなにかの実習だとほぼ確信していた私は、思いついた答えに自信満々だった。雷蔵の様子だと邪魔が入らないよう人払いするほど真剣だったのだろうし、食事の時間も惜しんでいたのも頷ける。
 なるほどなるほどと勝手に納得して頷く私を、長次がなにか言いたげにじっと見る。目を合わせると、長次は小さく首を横に振った。

「あれ……違った? あ、えーと他言無用の実習だったかな。ごめん、じゃあなにも言わなくていいからね!」

 長次が元気だと確認出来れば、とりあえずそれで構わない。相変わらず勝手に決めつける私に、長次はしばし迷う素振りを見せた。たぶん、『そういうことにしてもいいが』と言っている。

「……もしかして根本的に違う?」
「ああ」

 即座に頷かれて、ぎょっとした。つまり、実習でもなんでもない、ということなのか。
 長次は普段、口数が少ないのもあって滅多に嘘を吐かない。嘘を吐くくらいならそのまま無言を突き通す。万が一嘘を吐いたときは、相応の理由があるときだけだ(と思う)。つまり、たぶんこれも嘘じゃない。
 しん、としばし私と長次の間で沈黙が訪れる。ここまで来ても説明してくれないのは、説明出来ないのか説明したくないのか、そのどちらかだろう。それならそうと言ってほしいのだけど、長次は相変わらずただじっと私を見つめている。
 沈黙が苦手な私がうずうずし始めたとき、察したらしい長次がぽつりと口を開いた。

「四日前、伊作が滋養強壮の薬を持ってきた」
「へ?」
「野外実習後で、疲れが早くとれるから飲めと、その薬を六年全員に配った」
「う、うん……?」
「全員が飲んだ後に気がついた。それは滋養強壮の薬ではなかった」
「…………うん……え?」

 よく意味が分からず間の抜けた声で相槌を打つ私に、長次はぴたりと口を閉じた。そして、私の額に手を伸ばす。長次の指先が、私の額にそっと触れた。

「長次……?」
「説明しなければいけないと思っていた。遅くなってすまない」

 ゆっくり、長次の手のひらが私の両目を覆う。反射的に目を閉じると、たぶんもう片方の長次の手が、私の頭を撫でる。

「少しの間だけ、目を閉じていてくれ」
「うん……」

 言われた通りに目を開かず、身体を少し固くした。長次がたぶん相当大事なことを告げようとしていることは、その様子から理解できる。緊張に、鼓動が少し速くなる。
 ざわり、と空気が動いた。私の両目は長次に塞がれている。撫でられていた頭にも、まだその手が触れている。すぐ目の前に長次の気配がある。……それなのに、閉架図書内で微かに他のひとの気配がした。
 嫌な気配じゃない。殺気も寒気もなにもない、凪いだ海のような静かな気配だ。
 え?
 頭が混乱する。私は今まで長次と二人きりだと思っていた。長次以外の気配はこの閉架図書内にはなかったのに。けれどそのもう一つの気配の主は、おそらく私がここに足を踏み入れる前から居たのだと思う。さすがの私も、戸が開閉すれば分からないはずがないから。
 でも、どうして──

「……わっ」

 後ろに人が座る気配。それと同時に、後ろから私の頬になにかが当たる感触があった。優しく触れられて気づく。それは温かなひとの指だ。同時に、頭に触れていた長次の手が離れた。次いでそっと、両目を覆っていた手も離れていく。
 目を開けろとは言われていない。瞼を下ろしたまま、私は頬に触れる指の感触に違和感を抱く。ひとの手。間違いなく、目の前の長次とは違うひと。けれど嫌な気分一つ起こらない。昔からずっと知っているような、優しくて馴染む仕草と気配だ。
 ……気配?

「……目を開けていい」

 耳元で長次の声が囁かれ、同時に頬に触れていた手が私の顎を掴み、そっと後ろを向かせる。逆らわずに上半身ごと後ろを振り向き、そしてゆっくりと目を開いた。

「あれ?」

 途端目が合ったのは、間違えようもない、長次の瞳だ。じ、と私を見つめる長次は、私の頬をもう一度撫でて手を離す。さっきまで逆方向に居たのに、いつの間に移動したのだろうか。頬に触れていたのは長次だったのか、だから嫌な気分がしなかったのだととりあえず納得しかけて、おかしいことに気づく。

「あれ!?」

 ぶん、と勢いよく後ろ──さっきまで長次がいたはずの文机のほうへと顔を向けた。
 瞬間目に入ったものに、かちん、と身体が固まった。
 そこは当然のことながら無人、ではなくて。

「ええ!?」

 また、ぶん、と勢い良く後ろを振り向く。ぶんぶんぶんぶんぶんぶん、三回ほど往復することを繰り返し、私はようやくに現実を認めた。
 長次が、二人いる。
 私の前にも、後ろにも、私を挟む形で二人の長次がいる。姿形、気配、いつもの静かな表情まで全てなに一つ違わない。

「……落ち着け」
「……落ち着け」

 呆れたように、二人の長次が私の頭と肩それぞれを、宥めるように手で撫でる。触れる体温も仕草も、低く小さな声すら同じだ。わけが分からなくなりかけて、ようやくにハッと気がついた。むしろすぐ気づかなかったのがおかしいくらいだ。

「……あ、なんだ! どっちか鉢屋の変装だよね!? びっくりしたー……そっくりすぎて見分けつかなかった。あ、もしかして最初のが鉢屋じゃないよね? もしそうだったら抱きついちゃったじゃん、返してよ!」

 強い語句で言いつつ、内心私は少し落ち込んでいた。いくら変装の名人と謳われる鉢屋でも、幼なじみでずっと共にいた長次に化けられて気づかなかったなんて、かなり悔しいし、情けない。鉢屋と自分自身にむかむかして、じろりじろりと鉢屋を暴くように前後の長次を睨み付けると、同時に「違う」と長次が言った。

「……違う? 鉢屋じゃない? え、じゃあ……仙蔵? 文次郎?」
「そういう意味じゃない」
「誰も私に化けてなどいない」

 ぽん、ぽん、また二人の長次それぞれの手が、私の頭と肩を撫でるように叩く。続けられた言葉に、きょとんとした。もしや二人とも誰かの変装か、阿吽の呼吸の三郎と雷蔵かとかなり疑心暗鬼に陥る私に、二人の長次が同時にすっと身を寄せる。びくっと反応する私に顔を近づけて、二人の長次はそっと囁く。

「どちらも私だ。偽者でも、化けてもいない」
「澪、信じて欲しい。私は私だ。どちらの私も」

 右手と左手に、温かな感触が触れた。包むようにそれぞれ手を繋がれる。どちらも覚えのある長次の手。大きくて固い、鍛錬で細かな傷が幾つもついた、私の好きな手だ。
 どちらの温もりも、気配も、声も、全て。
 私が好きな、長次のものだ。
 ……長次だ、二人とも。

 それに気づいた瞬間、「ええ!?」とまたしても声を上げてしまった。
 つまり、それは、つまり、

「長次、二人になっちゃったの!? あ、伊作の薬で!? なにそれ!」
「……想像通りではあるが」
「……やはり時間がかかったか」

 慌てふためく私をよそに、二人の長次が嘆息し、繋いだままの私の手をぎゅっと握り締めた。安堵したように。




『みんなー、実習お疲れ様ー』
『おー、伊作。早々に脱落したやつは元気だな』
『そんな風に言わないでくれよ、留三郎。僕の本来の役目は救護班だったから、これでいいんだよ。誰も怪我してないかい?』
『いさっくーん、私めっちゃお腹減ったぞ』
『それは怪我とはまったく関係がないから、僕に言われても無理だからね。あ、文次郎、さっき治療した右手の具合、どう?』
『ああ、だいぶ痛みも引いた。……それで伊作、お前が持ってる盆はなんだ?』
『お茶じゃないな……水でもないぞ! 腹は膨れそうにないな!』
『薬湯か? 匂いはあまりきつくないようだが』
『うん、疲労回復に良い、滋養のある薬湯だよ。味も悪くないと思うよ』
『腹減ったし、それでもいいぞ! 私もらう!』
『はい、仙蔵と長次も。二人とも怪我したところがあったら、後でもいいから医務室に来てね』
『美味くないけど不味くもないな! 腹は膨れんから早く食堂行くぞ私!』
『待てこら小平太、まだ報告書作成してねぇだろ。それを提出せんと実習は終わらんからな』
『えええええ、やだ私早く帰りたい! 文次郎と留三郎が書いておいてくれよ、全面的に任せるぞ!』
『ふざけんな、俺だって早く戻って委員会しなきゃいけねーんだよ。おとなしくしてろや小平太』
『やだやだ、私早く食堂のご飯食べたい!』
『小平太もうるさいからな、さっさと始めるか。お前達、私が苛つかない程度の距離に集まれ。長次悪い、筆壺をくれるか。……文次郎、近い、どけ。小平太もだ、もっと後ろに行け』
『優に五歩分は離れてるのに近いって言われたぞ!』
『俺なんか十歩は離れてんぞ』
『……ご馳走様、伊作』
『うん、さっさと報告書書いて学園に帰ろうね』




 薬を取り違えたのは明らかに伊作の不運のせいなのだろうが、それだけを責めるわけにも行かない。なんせ試飲をした本人も当然被害を被ったし、なによりも他と比べて被害の規模が大きすぎた。
 異変が起こったのはその二刻ほど後、学園に戻り食事を摂り風呂に入り、それぞれが自室へと戻った頃合いだ。ある者は自主練に出掛けようとし、ある者は早めに眠ろうと布団を敷き、ある者は予習復習のため文机に戻った、そのときだ。
 予兆はほとんどなかった、と実体験で言える。一瞬目眩が起こったかのように意識が薄れた次の瞬間、同じ空間にもう一人の自分がいた。偽者だとか見間違いだとかではないと、本能で分かる。確かにそれは、自分自身だった。
 目が合い、しばし顔を見合わせた。鏡の中にあるものと同じ、自分の顔。なにが起こったのかすぐには分からなかったが、それが自分自身であることだけは強く理解出来ていた。どちらも私で、それ以外ではない。
 なにかを言いかけた。おそらく、もう一人もなにかを言いかけた。お互い同時に口を開いたその瞬間、けたたましい悲鳴と怒号が両隣の部屋からした。あいつらにも同じことが起こったのかと混乱する頭で思ったとき、すぱん、と戸が開く。先程自主練に向かった小平太が、「なあなあなあなあ長次!」ともの凄く楽しそうな様子で部屋の中に入ってきた。

「なんか私二人になっちゃったぞ! なんだこれ楽しいな!」
「あ、長次も二人じゃないか! 私だけじゃなかったのか!」

 なははははは、とばしんばしんと自分同士の肩を愉快そうに叩く小平太達に、若干冷静になった。おそらく六年全員、同じ状況だ。
 夢だろうか、と一瞬疑った。だがあまりに濃厚なこの現実感は、決して夢ではないと告げていた。これは確かに現実で、確かに私は二人になった。
 自分自身と目が合った。どちらも同じことを考えているだろうということは、確信すらあった。どすどすと響く足音に同時に戸に視線を向けると、開かれたままの入り口に、苦虫を噛み潰したような仙蔵が姿を見せた。……仙蔵ではない、仙蔵達だ。

「長次、小平太、お前達もか。……くそ、どうなっているんだ」
「面倒だ、全員ここに集まれ! ろ組、部屋を借りるぞ」
「おっ、仙ちゃんも二人か! あはははは!」
「あほか、一大事だ。おい小平太、どちらか会計委員室に行ってくれ。文次郎が一人で作業をしているはずだから、連れて来てくれ」
「分かった! 私が行く!」
「分かった! 私が行く!」
「ええい、どちらでもいいが二人では行くなよ!」
「よし、私が行こう! 後は頼んだぞ私!」
「任せろ私!」
「……なあ、これって夢か?」
「ああ、たぶん夢だな、俺。こんなのが現実のわけないだろ」
「夢だったらいいけどね留三郎、僕さっきからほっぺつねってるけど、すごく痛いよ……」
「ね、もう一人の僕……お互いのほっぺ引っ張ってるけどすごく痛いよ……」
「全員さっさと部屋に入れ! まずは状況確認をするぞ!」
「いやー、なんだろうなこれ! わくわくするな! 私こんなの初めてだぞ!」
「はあ、どうしようね僕」
「とりあえずほっぺに薬塗らないとね僕」
「おーーーい、文次郎連れてきたぞー!」
「ああ!? なんだおい、お前達もか!? どうなってんだ!」
「こっちが聞きてぇよ! お前まで二人になってんのか、暑苦しいわ文次郎!」
「隈が二人とか暑苦しい上に見苦しーんだよ!」
「んだとこらぁ! てめぇらだって二人だろうが!」
「暑苦しさで人のこと言えんのか、バカタレが!」
「「やんのかごらぁ!」」
「「上等だこらぁ!」」
「ええい、全員黙れ! 黙れと言っているだろうが!」
「黙らんと宝禄火矢をぶち込むぞ!」
「ほらほら、文次郎も留三郎も落ち着いてよ」
「とりあえず仙蔵の言うとおり、状況確認からね?」
「私私、組み手やろうぜ!」
「よし! そのあと学園十週マラソンな!」
「「黙れっつっとるだろうがああああああああああああ!」」

 多少の犠牲(こんがり焼けた小平太達と部屋の備品)を出しつつ、総勢十二人の私達はとにかく状況を確かめた。
 とはいえ、それはごく短い間だった。分かったのは、全員が二人になってしまったという事実だけ。外を走って文次郎を連れてきた小平太によると、自分達以外の生徒は分かれていないとのことだった。とすると今の時点では、それは六年生だけに起こっている現象だということだ。
 次いで、それまで困った顔をしていただけの伊作達が、ふいになにかに気づいたようにハッとした顔になった。みるみる真っ青になる顔色に、他の十人も大体気がついた。伊作達はお互いの真っ青な顔を見合わせて、そしておそるおそると口を開いた。実習後に飲んだ薬。たぶんあれは、滋養強壮の薬じゃない。

 余った期限切れの薬草を実験がてら全部混ぜて煮てみた、至極適当な調合をした薬だった、と。





「……えーと、つまり、それで」
「授業や委員会以外は長屋に出るのをやめた。姿を見られたら厄介だからだ」
「二人同時に長屋を出るのは、就寝時刻後の夜中だけと全員で決めた。とはいえ、やれることなど限られていたが」

 長次二人の言葉に、なるほどと思った。委員会の仕事が捗っているのも、委員長達が前に言ったことを覚えていないのも、そのせいなのだろう。
 あまりに突拍子もない話しだけど、それで長次がここに閉じこもっている理由が理解出来た。元に戻る方法。それを探し続けているんだろう。









続かない。元に戻るにはここでははばかれるくらいアホな方法を使おうとしていたのですが、書くまでに我に返ってよかったです。簡単に言えばR-18展開でした。

そろそろまともなものも書きたいです。たぶん次は途中まで書いて下ろした作兵衛夢を上げると思います。

『悪戯シリーズ逆襲〜三郎編〜』
2012/08/22 (水)
七月中には出来上がっていたのに、更新するの忘れてました。シリーズはこれで終わりです。
最初にも書きましたが、ヒロイン設定の主張がちょっと強いです。嫌いな方はご注意ください。

 


「え、お前まだ誤解解けてないの?」

 ぱり、と煎餅を食べる音が響く。
 五年ろ組の雷蔵と三郎の部屋には、同学年の生徒五人が集まって車座になっていた。ずず、と茶を啜りつつ、菓子をつまみつつ、藁で簡易的な虫籠を編みつつ、井戸端会議のような雰囲気だ。
 湯飲みを盆に戻しながら、そのうちの一人、勘右衛門が疲れた顔で「そうなんだよ」と頷いた。

「あいつ、ひとの話し全然聞かないからな。もうあいつの中では、俺は色気のある後家さんの間男だよ」
「なにそれ羨まし……悪い、なんでもない」
「冗談じゃないよ。女の子と付き合ったこともないっていうのに、なにが間男だよ」
「僕もあれ以来しょっちゅうやられてるよ。なにが『もう絶対やらない』んだか。風呂の中で迫られたときは、さすがに股間蹴り上げたけどね」
「風呂って、どういうことだ?」
「ああ、うん、変装して声色使って睦言言われた。耳元で」
「え、えげつないなあ……」
「なんか俺もいまいちまだ誤解が解けてない気がするんだよな。顔見てたら、慌てて隠そうとするし」

 共通話題は、なぜか最近調子に乗っている三郎のことだった。もともと愉快犯気質なところはあるのだが、最近のそれは酷すぎる、ということだ。

「なんであいつ、最近ああなんだ? 前まで悪質な悪戯はやらなかっただろ」
「ああ、その理由は一目瞭然だね」
「ん?」

 雷蔵がやれやれとため息を吐くのに、他の三人が身を乗り出す。雷蔵はちらりと右隣の人物を見て、言葉を続けた。

「なんかすごく良いことがあって、めちゃくちゃ機嫌がいいらしいよ」
「ああ……恋仲か」
「ああ……そういやそうだっけ」
「ひとを間男にしておいてあいつ、自分だけなに満喫してんだ!」

 ようは、長年片想いをしていた相手と恋仲になれた三郎は、軽く躁状態で非常に機嫌が良く、機嫌が良いと他人をからかいたくなり、結果として本人にその気がなくとも多大な迷惑をかけるらしい。

「なにその迷惑名人」
「でも、だから許されるってわけじゃないだろ? あいつにも僕達の気持ちを分からせるべきだと思うんだ」
「確かにそうだ。人をからかうにしても、俺達本人じゃなくて恋仲の相手を狙うなんて陰湿すぎる」
「誤解解くのにどんだけかかったと思ってんだ」
「俺なんてまだ誤解解けてないんだぞ」

 うんうんと四人全員で頷き、次いで雷蔵の隣にいる人物へと目を向ける。代表して、勘右衛門が口を開いた。

「そんなわけで澪、俺達に協力してくれないか」
「……え?」

 雷蔵の隣で、与えられた菓子を嬉しそうにぱくついていた澪は、名前を呼ばれて顔を上げた。四人がじっと澪を見つめている様子に、ぱちぱちと目を瞬かせ、眉を下げる。

「ごめん、なんにも聞こえてなかった……」
「あ、ごめん。澪ちゃん食べてるとき聞こえないもんね。そうだ、これもどうかな。昨日中在家先輩が、カメ子ちゃんからもらったっていう南蛮の飴を分けてくださって……」
「わあ、美味しそう! 食べていいの?」
「ちょ、ちょっと雷蔵、それは後にしろって」
「澪、ちょっとだけ食うのやめて、俺達の話を聞いてくれないか」
「ん? うん。どうしたの」

 輝かんばかりの顔で飴を受け取り、澪は真剣な表情の四人を不思議そうに見回す。
 三郎は今日、学園長先生のお使いで夜まで帰ってこないはずだった。堪忍袋の緒が切れた四人が作戦会議だとこの部屋に集合し、それならばと澪も呼ばれ、今に至る。

「簡単に言えば、三郎の悪戯がちょっとひど過ぎるんだよ」
「勘右衛門なんて、そのせいで間男になっちまったしな」
「八っちゃん、なってないって何回も言ってるだろ……?」
「人をからかうのが好きなのはあいつの性根だから仕方ないけど、このままだと僕達も限界でさ」
「俺達だけならともかく、最近は下級生からかうのにもご熱心らしいじゃないか。伊助が困ってた」
「そうなの……?」

 澪がきょとんと訊ねるのに、四人はうんうんうんうんと幾度も頷く。くのたま長屋と忍たま長屋は近いようで遠い。雑談を交わす機会はあまりないから、澪の耳にはそういったことは入ってこないのだろう。

「しかもな、俺達だけならともかく、俺達の好きな奴とか恋仲の奴まで狙ってからかっててな」
「そうそう、僕達はあいつの悪ふざけに慣れてるからいいけれど」
「さすがに恋仲の相手が絡むと許せないしな」
「勘右衛門なんてそのせいで色っぽい後家さんと」
「間男になんてなってないってば! 単に三郎が俺の顔で女の子誘っただけだってば!」
「冗談はともかく、ほんとに最近酷くてな。白昼堂々、他の生徒がいるところでも騙そうとしてくるし」
「しかもあれ悪気満々だしな」

 澪は喋る四人をきょろきょろと見回し、聞いたことを反芻するように、少し考え込む顔を作る。あ、となにかに気づいた雷蔵が、慌てて澪の顔を覗く。

「ごめんね澪ちゃん、澪ちゃんが悪いんじゃないんだよ。あー、でも恋人の悪口聞かされるのも嫌だよね、ごめんね」
「え? ううん、そうじゃないんだけど……」
「ごめんな、澪。でもな、嫌じゃなかったら俺達の代わりに三郎に言ってやってほしいんだ」
「俺達が言ってもどうしようもないからさ、ちょっと注意するだけでいいんだ」
「そうそう、もうちょっと自重してくれってさ」
「ついでに後輩からかうなってことも」
「ついでに風呂ではせめて雷蔵の顔でいろってことも」
「ついでに俺の誤解も解いてくれって……」

 たのむー、おねがいー、と仏像を拝むように手を合わせられ、澪はしばしの沈黙のあと、食べていた団子をお茶で流し込み、湯飲みを戻す。

「うん、わかった」
「え、ほんと!? いいの澪ちゃん!?」
「む、無理にとは言わねぇぞ? お前関係ないんだしさ」
「ううん、いいよ。からかったりするのやめてって言えばいいんだよね? 私で聞いてくれるかどうかは分からないけど……」
「頼む! 出来れば強めに!」
「ありがとう澪! 恩に着る!」
「あ、澪これ食うか? 苺豆腐! こっちは杏仁豆腐だ!」
「わあ美味しそう! もらっていいの?」
「生物委員の活動中に、初物の柘榴見つけたんだ。食べるか?」
「これ委員長委員会で余ったお饅頭。美味しかったから、食べてくれよ」
「ありがとうみんな!」

 次々出てくる菓子類に、澪はぱあっと顔を輝かせて手を伸ばす。うんうん、と四人は満足そうに頷き、澪が幸せそうな顔でぱくついている前でにやりと笑みを浮かべた。

「くくく、覚悟しろよ三郎……恋仲に注意されてヘコむがいい……」
「でもさ雷蔵。澪のほほんってしてるし、そんなに怒ったりしないんじゃないか?」
「そうかな、付き合い始めなんて特に相手の言葉が重く感じられるでしょ。恋仲に怒られるなんて、矜持の高い三郎にはいい薬だよ」
「だな。なんでもいいよ、少しでも三郎が落ち込むならさ」

 そーだそーだと四人が頷き、おいしーねーとなにも聞こえていない澪が微笑む。とりあえず澪が満足してから、綿密な打ち合わせをしよう、と四人は顔を見合わせてもう一度頷いた。






 作戦決行は、思ったより早く訪れた。次の日だ。
 毎度お馴染み一年は組が校外学習中に事件に巻き込まれ、教職員が総動員で駆り出され、結果として放課後の委員会がなくなった。これ幸いと四人が集まり、澪を呼び、三郎の場所を突き止め、今に至る。
 三郎はお気に入りらしい木陰で、一人きりで本を読んでいた。本を貸し出した雷蔵が言うには、変装術に関する文献らしい。また変装して誰か騙すつもりかてめえふざけんなと反応したくなるのを堪え、四人は三郎に気づかれないように気配を殺して物陰に隠れる。

『とうとう年貢の納め時だぜ三郎……! 覚悟しろ!』
『澪に怒られて涙目になるがいい……!』
『はあ、ほんとに三郎に口付けしてやればよかったなぁ』
『兵助さん、それどういう状況だったの?』
『あ、みんな、澪ちゃん来たよ』

 三郎には聞こえないよう、控え目の矢羽音で話していると、とことこと澪が歩いてきた。気配を察して顔を上げる三郎に、片手を振りながら。

「三郎、本読んでるの?」
「よう、どうした澪」
「お散歩してたら、三郎がいたから。今大丈夫?」
「ああ、ここ来いよ」

 機嫌良く隣の木陰を空けてやり、三郎が澪を手招きする。自分だけいちゃついてんじゃねーぞこらと同級生からどす黒い恨みの念が放たれているとも知らず、三郎は読みかけの本を閉じて隣に置いた。
 澪はちょこんと三郎の傍に座ったかと思うと、なぜか改めてその場に正座した。そして、じ、と意味ありげに三郎を見上げる。怪訝そうに見下ろす三郎に、「あのね」と口を開いた。

「私ね、三郎にお話しがあるんです」
「は、話し? ど、どうしたお前」
「真面目なお話しなんです。聞いてもらえますか」
「え、わ、分かった」

 途端真剣な表情になった澪に、傍目でも分かるほど三郎が動揺する。
 澪のそれは大人の真似をしている子どものような口調だったが、三郎は慌てて自分もその場に正座し、緊張の面持ちで澪と相対する。

『なにあれ、幼児に説教食らってる大人みたい』
『よーしいいぞ澪いけー! そのままがつんと怒ってくれ!』
『澪ちゃんがんばれー!』
『三郎が緊張してるの久しぶりに見たなー』

 わいわい騒いでいる外野を余所に、二人はじっと顔を合わせている。

「私ね、この間ちょっと聞いたんだけど」
「な、なにをだ? え、なにをですか?」

 澪の口調から、楽しい話しでないことはすぐに分かるだろう。珍しく三郎がおろおろとうろたえている。澪は一度そこで口を閉じ、またじっと三郎を見上げた。よしいけー、と盛り上がる四人の念を受ける澪は、ふいにむすっと顔をしかめた。半眼で、

「三郎。この間、勘右衛門の変装して女の子と遊んでたって、本当?」
「………………」

 ぴしゃあああん、と。音がしそうな程に、三郎が石のように固まった。身体はもちろん、表情も見事に凍り付いている。返事がなくとも、一目瞭然だ。

『あれ? 澪、聞いてたのか。流してるのかと思ってたけど』
『そういやそうだよね、普通怒るよねー。女遊びしてたんだもん』
『やーいやーい三郎やーい』
『ひとを間男にした報いだっつーの』

 三呼吸ほど固まっていた三郎は、ハッと我に返ったように硬直を解いた。相変わらず半眼で見上げる澪に、慌てふためいた様子で口を開く。

「ち、違うんだ! あれはその、すぐ近くに勘右衛門の好きな奴がいたから、ちょっとからかってやろうと思っただけで!」

『三郎の野郎おおおおおおお』
『ま、待って勘右衛門、今出て行ったら駄目だって!』

「だからやましいことなんて全然してないです!」
「遊んでたんでしょう?」
「い、いや、ほんとちょっと歩いただけでその、茶も飲んでないし軽く話しただけでえーと、その、……………本当に申し訳ありませんでした!」

 もはやこれ以上言い訳しても無駄だと悟ったのか、三郎はいきなりがばりと土下座した。『土下座早ーーーっ!』と驚きに満ちた友人達が見守る中、「ほんとにごめんなさい」と三郎の小さな声が響く。澪はその三郎を見下ろして、ふっと表情をいつものものに戻した。土下座して頭を伏せたままの三郎に、少し身を乗り出し、

「……ついでに聞いたんだけど、いろんな子に変装して悪戯してるっていうのは本当?」
「……ほ、本当です」
「恋仲の子の変装してからかったり?」
「その通りです」
「どうしてそんなことするの?」
「楽しいからです……」
「からかうことが楽しいの?」
「さ、最近ちょっと調子に乗ってまして、正直楽しいです」
「みんなが迷惑してること、分かってるの?」
「え、ええと……」

 畳みかけるような澪の言葉に、四人はおおおお、と内心で拳を握り締めた。これだ、これが望んでいたものだ。三郎がめっちゃしおらしい!

「三郎。もう一回聞くよ。みんなが迷惑してること、分かってやってるの?」
「は、はい。重々承知した上でやっておりましたが、止めろと仰るなら今すぐにでもそうします」

『承知した上でやってんのかよ! 最悪だ!』
『いやまあ、ひとをからかうのは三郎の性分だから……』

「ほんとにもうしない?」
「はい。女に声かけるのも、悪戯も絶対しません。誓ってこのとおり」
「ねえ、三郎」

 ぽとり、と。土下座して地面に押しつけている三郎の手の上に、温かなものが落ちた。おそるおそる三郎が見上げると、澪の瞳が潤んでいる。かちん、とまた固まった三郎の前で、澪がぽつりと口を開いた。

「私じゃ足りない?」
「……え」
「からかうの、私じゃ足りない?」
「澪」
「三郎、『お前からかうの楽しい』って言ってた。私それが嬉しかった。だけど三郎、他のひとをからかうほうが楽しいの?」
「……ち、違う。いや、そうじゃなくて」
「私、三郎のことが好きだよ。だから、三郎が嫌われてるのは寂しいよ」

 瞬きをした瞬間に、澪の瞳からまたぽとりと涙が溢れて落ちていく。三郎はごくりと息を呑み、それからゆっくりと身体を起こした。真面目な面持ちで、口を開く。

「ごめん。……もうしない。絶対しない」
「本当に?」
「ああ、絶対にだ」
「約束できる?」
「約束する。なんにでも誓う」

 真面目な瞳で頷く三郎に、澪もこくりと頷いた。「それじゃあ……」と言葉を続け、

「もしまた女の子に声かけたり、みんなに悪戯したりしたら、卒業まで無償で委員長委員会の雑用全部引き受けられる?」
「……はい?」
「あと、生物委員会の逃げた虫を捕まえるの手伝える?」
「えーと?」
「火薬委員会と図書委員会の雑用も、全部。卒業まで無償で」
「ま、待て澪。なんでそんな具体的に、あいつらの委員会を?」
「勘右衛門に悪戯したこと、ちゃんと説明して誤解解いてあげられる?」
「そ、それは分かるんだが、その前の……」
「それと」

 もの言いたげな三郎の言葉を遮り、澪は最後に一言付け足した。ほんの少しだけ躊躇する間を置いて。

「……もし約束破ったら、私とわかれ──」
「全部約束する! 絶対にもうしない! 死んでもしない!」

 言い終わらないうちに、今度は三郎が澪の声を遮って断言した。澪は一瞬虚を突かれたようにきょとんとしたあと、小さく微笑んだ。

「ほんと?」
「約束する。……だから、その」
「うん!」

 嬉しそうに笑って、澪は立ち上がる。戸惑う三郎を余所に、ぶんぶんと近くの茂みに手を振って、一言。

「だって、みんな!」
「っしゃあああああああああああああああ! 言質取ったーーーー!」
「聞いたぞ!? ちゃんとこの耳で聞いたからな三郎! もうからかったりするなよ! 誤解も解いてくれよ!」
「澪ちゃんありがとう! ここまで簡単に上手く行くと思わなかったよ!」
「いやー、まさかこんなに簡単に引っ掛かるとは思わなかったな」

 茂みから一気に飛び出して騒ぎ出す四人に、三郎は唖然と目を丸くした。困惑した表情で傍らの澪を見た瞬間、ハッと気づいたように勢いよく立ち上がる。

「ちょっ!? 澪お前、なに泣きやんでんだ! もしかして演技か!? え、全部!?」
「ごめんね三郎。みんなにお菓子もらったの。たくさん」
「おいてめぇら、ひとの女勝手に餌付けしてんじゃねえよ! 卑怯だろうが!」

 ようやくに自分が嵌められたことに気づいて怒り心頭の三郎に、んだとこのやろうという勢いで四人が反論する。

「うるせー! 誰が一番卑怯だか考えてみろよ!」
「そうだそうだ。澪本人になにもしてないのは、俺達の良心なんだぞ」
「そういえばそんな手もあったね。三郎が特殊な性癖してるとか教えてあげればよかった」
「雷蔵、詳しく教えて」
「ちょ、澪! そんな性癖ねぇから! 雷蔵も不必要ににこにこすんな!」
「あ、三郎。俺のことちょーっとだけ騙していいから、逃げた虫たち捕まえるの卒業まで手伝ってくれねえか? いや、最近また何匹か散歩に出ちまってな」
「澪ちゃん本当にありがとう、いやー見ててひやひやしたよー」
「だな。まさかあんなあからさまな嘘泣きを三郎が見破れないなんて、驚いた」
「う、うるせえ、ばか!」

 顔を真っ赤にする三郎を置いて、ひゃほーい、と雷蔵達は手を叩き合わせて勝利を祝う。へなへなと座り込んで落ち込む三郎に、こっそりと澪が上から覗き込む。

「ごめんね、三郎」
「……慰めはいらねーよ……」
「でもね、私も行きすぎた悪戯はどうかと思うの」
「そ、それは……」

 理解はしているのだろう。口ごもる三郎と視線を合わせるように、澪はしゃがみこむ。ちぇ、と拗ねる三郎に、笑って手を差し出した。

「でもよかった。もし『じゃあ別れよう』って言われたら、どうしようってどきどきしちゃった」
「……あ」
「だから、……──ね?」

 小さな声で、澪が三郎の耳元でなにかを囁く。二人以外の誰にも聞こえないように。
 顔を引き寄せ、こつんと額同士を触れ合わせる。ふふ、と近い距離で目を合わせて微笑んで、澪はすぐに身を引いた。立ち上がり、四人の元に向かう。

「みんなー」
「おう澪! 約束通り、今度金楽寺行ったら熟した柿取ってくるからな!」
「今度中在家先輩がボーロ焼くって言ってたから、少し分けてもらってくるね」
「いくらでも豆腐作るからな、言ってくれよ。胡麻豆腐に豆腐田楽、豆腐味噌……そうだ、なんなら今から作ってやろうか。今朝いい豆腐が出来てさ」
「ほんと!? 食べたい!」
「おいこらお前ら! さらに餌付けしてんじゃねーよ!」
「うるせー、餌付けじゃなくて礼だっつーの」
「その通りだ。豆腐は感謝の気持ちであって、餌付けなんかじゃないぞ」
「あ、三郎。今度から委員長委員会のお菓子で余ったやつ、澪にあげてもいいよね?」
「…………好き放題言いやがって」

 未だ赤い顔で、はあ、とため息を吐きつつ、してやったりとにまにま笑う友人達の元に足を向ける。一人だけにこにこと三郎を迎える澪に、さきほど囁かれた言葉が頭をかすめた。
 これもあいつらの入れ知恵か、それとも。

「あ、三郎も豆腐食べるか? 今から澪にご馳走するんだけど」
「……量が多くなけりゃな」
「いやー、三郎の落ち込んでるとこ見るなんて久しぶりだなー、あはははははははめっちゃ愉快!」
「だよねええええ、あ、三郎その前に早く誤解解いてくれよ! 俺そろそろあいつの中で、普通の間男から二股かけてる間男に進化しそうだし!」
「こらこら三郎、借りてる本、置きっぱなしにしちゃだめだろ」

 わいわい機嫌良く笑う仲間に囲まれて、はあ、とこれ見よがしに大きくため息を吐く。にこにこ相変わらず笑っている澪の頭を少し強めにべしべし叩き(「あ、こら澪ちゃんにあたらないの!」と雷蔵に怒られた)、兵助が作るという豆腐を食べに食堂へと向かう。

 ひとをからかうのは楽しいが、とりあえずここまで言われたなら仕方ない。べしべしと相変わらず澪の頭を叩きながら、三郎は仕方なしに諦めた。
 これからは、澪をからかうことで我慢しよう。
 破ったら別れる、と大きな約束をしてしまったのだから。
 ふふ、と、三郎を見上げた澪が、嬉しそうに微笑んだ。












 ──ねぇ三郎。もう、他の女の子と遊ばないでね?




 終

プロット自体は開設当初に作って放置していたものなので(勘右衛門夢だけ付け足しました)、今の自分じゃ絶対に考えつかないもので、新鮮というか甘くて吐きそうという感じでした。大量に放置しているプロットを少しでも消化できてよかったです。
最近はなにか書いては放置し、なにか書いては放置してるので、次はその未完系のものをぽつぽつと上げる予定です。

『悪戯シリーズ〜八左ヱ門・勘右衛門編〜』
2012/07/29 (日)
前の続きです。竹谷編と尾浜編。次の三郎編で終わりです。

 


「よしよし、お前ら今日も元気だな。飯はもうちょっと後だから、少し待ってくれよな」

 腹が減ってるのか、かぷかぷと甘噛みしてくる子猫の頭を撫で、抱き上げて母猫の元に連れて行く。この小屋にいるのは離乳が終わったあとの子猫たちばかりで、どの猫も好奇心旺盛で人懐こい。掃除やら飯やりやらで小屋に入る度に、構ってくれと寄ってくるのがすごく可愛らしい。
 学園で飼っている動物は、その大半が授業で使う虫遁術用だ。犬や猫などは頭も良いし町にいても目立たないから、特に使いやすい。

「お前達、たぶん今度一年生の授業に協力してもらうからな。一年坊主のこと、頼んだぞ。引っ掻いたりしないで手伝ってやってくれよ」

 ぽんぽんと子猫たちの頭を撫でながら言うと、なーご、と分かったような分からないような声が返ってきた。

「さてと、お前達、悪いけどちょっとどいてくれるか。その敷布取り換えるからな」
「あ、八左ヱ門、私も手伝うよ」
「じゃあそっち持ってくれ。ほらお前、そのままだと敷布から落ちるぞ。……っしょっと」

 子猫たちの寝床の敷布を取り上げ、軽く汚れを落とす。病気に罹りやすい幼児期だから、できるだけ清潔にしてやりたい。
 敷布を丸めて洗い籠に放り込み、一度小屋の外に出しておく。そしてまた小屋に戻り、寝床の掃除を始めるために箒を取り上げた。

 で。

「お前ここでなにしてんだ、三郎」
「あれえ、一発でバレた? おっかしいなあ、自然に溶け込めたと思ったのにな」
「邪魔しに来たならとっとと帰れよ。なんだよその顔」
「自信なくすなあ、こんなにそっくりなのにな」

 むにむにと自分の頬を掴んでいる三郎の顔は、俺の恋仲の澪のものだ。整った顔立ちも愛らしい雰囲気も澪そのものだが、なにより首から下が男のままというのが頂けない。その上三郎は五年の装束姿のままだ。これで騙せるなら、俺の女装の点数は満点だ。

「お前それ騙す気ないだろ。なんのつもりだよ」
「いや、ちょっとからかって遊んでやろうと思ってさ。ほらお前、最近よく澪が委員会手伝いに来てくれるって嬉しそうに話してただろ? 喜ぶかなと思ってな」
「おもいっきりからかって遊ぶって言っておいて、よくそんな口を……。頼んでねーよ、早く帰れ」

 えー、と不満げに三郎が俺を見上げてくる。改めてじっと澪の顔の三郎を見下ろすと、三郎はにっこりと微笑んで甘えるような表情を作って見せた。
 うん、すげえ可愛い。でも三郎だと思うとまったく嬉しくないし動悸が揺れもしない。澪は確かに可愛い造作をしているけれど、俺は別にその外見だけに惚れたわけじゃないし。
 逆にひとの恋仲で遊ばれているようですげー不愉快だ。澪の顔で俺をからかうのと、兵助の顔で俺をからかうのとでは、全然受け止め方が違う。

「子猫、可愛いねえ。私も一匹欲しいなあ。ねえ八左ヱ門、一匹飼っちゃだめかなあ」
「だからやめろって……なんだよそれ、変装の練習なら俺の使えよ」
「いや、お前をからかいに来ただけだって言ったろ? ……ね、この子可愛いね。名前ついてなかったら八ってつけちゃおうかなー」

 声だけ聞いてれば本当に澪が傍にいると錯覚してしまうほど、さすがに三郎は変装と声色が上手い。その分腹も立つんだが。
 猫と遊んでいるうちはいいが、調子に乗るともっと酷いことをしでかすだろう。三郎のそういう性格を知っているから、今のうちに止めさせようと、俺は意図して不機嫌そうな表情を作った。

「可愛いねー。じゃああなたは八ね。嬉しい? ふふ、八って名前いい名前だもんね」
「やめろっつってんだろ三郎。鬱陶しいから、とっとと雷蔵のでも俺のでもいいから違う顔に変われよ」
「鬱陶しいってお前なあ。恋仲の相手の顔に、その言い草はないだろ」
「黙れ。俺は別に澪の顔だけが好きなわけじゃないんだよ。だからさっさとその顔やめろ。その顔見ると腹立つから、二度とやんな!」
「……八、私の顔嫌いなの?」
「当たり前だろ、誰が好き好んでそんなもん見たいかよ。ふざけんのも大概にしろ、気持ち悪い」

 多分にわざとを含んで吐き捨てたとき、澪の顔をした三郎がきょとんと俺を見上げていた。どうしたのかと思ったとき、背後から声がした。

「……気持ち悪い、の?」
「は?」

 ぞく、と背筋を悪寒が走った。おそるおそる振り向くと、先程三郎が言っていたように、おそらく委員会の手伝いに来てくれたのだろう澪が、飼育小屋の戸に手をかけた体勢のまま、呆然と俺を見ていた。



 ────ち、



「ち、違う、澪、違う!」
「ごめんなさい……っ」
「うっわー、まさかここまでの修羅場になるとは思いもしなかったわー」
「ちょっ、澪、ちょっ、ああああああああああああもう! 三郎、お前あとでぶっ殺すからな! 澪、澪ーーーー!」

 委員会の仕事をほっぽり出して追い掛けたけれど、澪はすぐにくの一教室の長屋に入ってしまったらしく、なかなか見つけることが出来なかった。見つけることが出来たときも、遠目に俺を見ただけで悲しそうに逃げられた。ようやく話しが出来たときも、私気にしてないからと泣きそうな顔で言われ、とにかく土下座して謝った。


 結局、誤解を解くのに二十日かかった。







 


「はい勘右衛門君、これね。数合ってるかな、見てくれる?」
「えーと、水無月の抹茶が十個と、みたらし団子十五本……。はい、大丈夫です」
「よかったー。この間ちょっと数を一桁間違えちゃって、怒られたところだったから。こっちは料金表ね。学園長先生にお渡しして」
「はい、ありがとうございます。それでは」
「うん、勘右衛門君、お疲れ様ー」

 小ぶりの風呂敷包みを手に、小松田さんに頭を下げる。その中身は、学園長先生が注文した委員会用のお茶菓子だ。今日の夕方委員長委員会の集まりがあるから、そのときに出すことになっている。

「この間初摘みの茶葉も入ったし、今日も庄左ヱ門に淹れてもらうか。あいつほんとにお茶淹れるの上手いからなー」

 自由になる金が少ない俺達学生にとって、甘味は大のご馳走だ。自然機嫌も良くなるし、足取りも軽くなる。委員会費で支払っているあたり他の委員会には悪いと思うけど、これも委員長委員会の役得だ。

「とりあえず、先に学園長先生のところにお持ちするか。全部委員会で食べるかどうか分からないしな」

 風呂敷包みを落とさないよう抱え込み、学園長先生の庵へと向かう。昨日学園は休みだったから、それを引きずって少しぼうっとしている下級生達をよく目にした。昨日遊びすぎたのか眠そうだったり、次の休みはいつかなと話し合っていたり。さすがに俺のように上級生になると、休みの日は大抵鍛錬や委員会活動で追われるから、そうそう休みを満喫出来ることはないけれど。
 まあそれも、甘味が食べられるのだから構わない。機嫌よく共用の渡り廊下を通り過ぎ、庵へと続く庭を突っ切ろうと縁側から地面に下りた。
 ふいに、びくりと身体が反応した。考えるより先に、足が動く。咄嗟に横手へと飛び退くと、一瞬前までいた場所に、深々と棒手裏剣が刺さっていた。

「っちょ!?」
「────っ!」
 
 どこからか、ちっ、と舌打ちの音が聞こえた瞬間、すぐ傍の茂みから人影が飛び出した。しゅん、と空気を切る音に慌てて右腕を掲げると、ずしんと衝撃が走る。手甲に叩き込まれたのは、重さはないが的確に急所を狙った鋭い蹴りだ。腕を払ってその蹴りを防ぎ、やれやれと風呂敷包みを抱え直した。
 飛び込んできた人影は、つまらなそうな顔で足を引き戻し、じろりと俺を睨む。

「なんだ、澪。出会い頭にご挨拶だな」
『うっさい、こきゅうすんなぼけ』
「死ねって言ってるようなもんだけど!?」

 澪は自分が投げた棒手裏剣を縁側から引き抜き、制服のどこかに戻してから、手を腰に当てて俺をまた睨み付けた。もともと愛想が欠片もない幼なじみだけど、今日はどうも本気でご機嫌斜めらしい。被害を受けないようにそっと風呂敷包みを縁側の端に置き、「えーと」と口を開いた。こちらにやり合う意志がないと伝えるよう、両手を軽く上げて。

「澪さん、なにか俺にご用ですか?」
『うっさい、しねばか』
「まあまあ、そう言わずに。説明くらいはして頂けると大変ありがたいんですけど……」

 澪は優しい性格ではないし、さっきも言ったが愛想があるほうでもない。友達には優しいらしいが、幼なじみの俺への対応なんて、いいとこ子分か便利な弟だ。けれどそれでも、ここまで容赦なくつんつんしていることは滅多にない。分かるのは、どうやら俺の関係することで激怒しているのだろう、ということだけだ。

「澪。俺のことでなんか怒ってるんだろう? とにかくその、話し合おうか」
『おこってない、ころしたいだけ』
「いえ、それは怒っているということではないかと。えと、澪。理由があるなら言ってくれないか? 悪いけど、なんでお前が怒ってるか俺全然分からないし」

 素直に聞いてみると、澪はその問いにすら苛ついたらしく、キッと顔を歪めた。そしてさっきよりもずっと憎々しさを感じる瞳で、俺を睨み付ける。澪は身体は小さいし見た目はひ弱そうだけど、こういうときにめちゃくちゃ威圧感がある。まともにやれば俺のほうが強いはずなのだけど、正直、かなり怖い。

「なあ、頼むって。それで俺が悪かったら殴っていいから」
『………………』

 澪にここまで怒られるようなことをした覚えはない。そもそもここ十日ほど、澪とはほとんど顔を合わせていないのだ。食堂や共用場ですれ違うくらいだ。怒らせようもない。
 澪はじっと俺を見つめてなにか考えた後、ゆっくりと瞬いて指を動かした。相変わらず俺を睨みながら。

『かんちゃん、うわきした』
「……はい?」
『おんなのことふたりであるいてた』
「……え?」
『このてでしまつする』
「いや、ちょっと、待って!? ええ!?」

 またどこからか棒手裏剣を取り出して握り込む澪に、俺は慌てて声をかける。今言われたのは、浮気、という言葉だ。浮気したから、始末する、と。そもそもまったく身に覚えはないが、それ以前の問題で、

「別に俺とお前恋仲でもなんでもないし、浮気って言われてもげふ!」

 言い終わらないうちに、拳が飛んできた。棒手裏剣を握り込んだほうでなかっただけ、痛み的にはましだった。ひりひりする頬で、「えと、なんかすみません」ととりあえず謝った。
 澪は苛々した瞳で、くるりと棒手裏剣を回してみせる。次にくだらないことを言ったら刺す、と脅されているも同然だ。瞳と同じく、言葉を紡ぐ指もどこか苛々と動く。

『かんちゃん、わたしのことすきっていった。だからそれでほかのおんなのことあそぶのは、うわき』
「えー、そうなの……? だって澪返事くれないじゃん」
『うわきもの』
「いやあのさ、誤解しないで欲しいんだけど、俺女の子と遊んでなんかいないよ?」

 澪の言った通り、俺は少し前に澪に告白した。ま、告白とか言っても流れというか今更というか、幼なじみとして長い間共にいた澪と、卒業しても共にいようと確認したようなものだった。それでも確かに俺は澪に好きだから恋仲になってくれと告げたし、澪は考えさせろと言った。ちっとも返事が返ってくる気配がないのは、まあいいとして。

「大体、それいつのことだ? 女の子と遊ぶなんて嬉しいことあったら、わくわくして眠れない……はいすみません。棒手裏剣引いてください」
『きのう、まちでみた。『おじょうさん、おちゃでもどうですか』ってこえかけて、そのままあるいてった。このふけつ』
「はあ!? え、いや、絶対俺じゃない! 俺昨日学園から出てないから!」
『うそつき』
「いや、嘘吐いてないし! 昨日は一日中長屋で自主トレしてたんだよ! 誰かに聞いて確かめてきてもいい!」
『たしかめた』
「え?」

 澪の気配が、すうっと冷えていく。もともと冷たい顔立ちをしているから、冷たく鋭い気配はよく似合う。そう、絶対零度の雪女のような感じだ。

『いちおう、さぶろうにきいた。そしたら、「ああ、あいつきのうまちにでていったぜ、なんかたのしそうにしてたけど」って』
「ぎやあああああああああああああ!」

 それで全てが分かった気がした。昨日、俺が自主トレをしていたのは八左ヱ門とだ。兵助は委員会、雷蔵も委員会、けれど学級委員長委員会は休みだったから、三郎は長屋にいなかった。加えて昨日、雷蔵が『三郎が饅頭買ってきてくれたんだ』と夕食のときに話していた気がする。
 つまり、なんだ、これは確実に、

「それは三郎で、俺じゃない! お前騙されてんだよ!」
『さぶろうがいってた』
「え、……な、なにを?」
『かんちゃんがなんでおんなあそびしてたのかって。「たぶんかんえもん、おまえにフラれたとおもってやけになってんだよ、ふくざつなおとこごころ、りかいしてやれよ」って。でもりかいしない』
「三郎のあんちくしょう、もっともらしい理由言いやがって!」
『おとこごころなんてしらない、ゆるさない』

 澪の目は、もはや冷ややかを通り越して完全に据わっている。そろそろ我慢の限界が近いのだ。
 長い間付き合ってきて、これは断言出来る。怒った澪は基本的にひとの話しを聞かない。一度怒ると手がつけられなくなるのだ。今みたいに。
 早く鎮めないと、大変なことになる。

「澪、頼むから聞いてくれ。それは俺じゃない。俺はお前のことしか好きじゃないから、他の女はどうでもいい。お前以外には全然興味ない」
『おんなのことあそぶなんてうれしいことあったら、わくわくしてねむれない……』
「ああああああさっきの俺のばかああああ!」
『こくはくしといておんなあそび、ゆるさない』
「澪さん落ち着いて、ほんと、違う、違うから、あーーちょっと! その風呂敷包みはやめてお願い! 俺にして! せめて俺にしてーー!」

 逆鱗に触れてしまったようだった。言い方を間違えた俺は一方的に殴られ蹴られ(ま、もちろん死ぬようなもんじゃなかったけど、身体は打ち身だらけになった)、最後には『かんちゃんのばか』と小さく言葉を投げ捨てて澪は去っていった。
 身体も痛いが心もかなり痛い。
 結局誤解は解けずじまい、告白の返事はかなり遠くなったと見ていいだろう。
 とにかく打ちひしがれた俺は、動けるようになってすぐ、決意を固めた。

 三郎、ころす。


 

『悪戯シリーズ〜雷蔵・兵助編〜』
2012/07/23 (月)
遥か昔に作ったプロットが出てきたので書いてみました。
三郎発端の五年全員のどたばた連作夢です。それぞれの話しでそれぞれのヒロインが出てきます。恋仲だったりそうじゃなかったり。ちょこっとヒロインの設定主張が激しいかもしれません。どれも短いです。まずは雷蔵と兵助から。
雷蔵夢は以前夢としてサイトに上げていたものの書き直しです。


 


 授業が長引かずにきちんと終わり、お互いに委員会活動もなく、ご飯もお風呂も済ませてしまって、あとは寝るまでの時間を潰すだけだった。
 いつもなら自習をしたり自主トレに出掛けたり、忍具の整備をしたり、部屋に八左ヱ門達が遊びに来たりで時間が過ぎて行くのだけど、なぜか今日三郎はそのどれにも気が向かなかったらしく、僕が図書室から借りてきた本を(勝手に)ぱらぱらとつまらなそうな顔で読んでいた。その目が明らかに文章を追っていないことといい、時折嘆息することといい、『退屈だ』と思っていることがありありと伝わってくる。
 僕はそれを知りつつも、放っておけばいいやと大して気にせず、文机で教科書を開き、明日の予習に励んでいた。気分屋の三郎にいちいち構っていたら、時間がいくらあっても足りない。五年間こいつと付き合ってきていて、それくらいのことは学習していた。
 けれど。どうも三郎は、そんな僕の考えすら見抜いていたらしい。僕だけがきちんと時間を潰しているのも気にくわなかったのだろう。ふいに、「なあ、雷蔵」と口を開いた。

「んー……? なに、三郎」

 返事はしたものの、僕の視線は教科書に向かったままだった。雑談くらいなら付き合ってやるけど、予習の邪魔はするなよ、と言外に伝えたつもりだった。気分を損ねて拗ねられるよりは、そのほうがいい。けれど三郎は、話し始めずにまた僕の名を呼ぶ。

「雷蔵」
「うん、なんだ?」
「なぁ、雷蔵ってば。らーいーぞー」
「なんだよ三郎、やけにしつこ──うわっ!」

 何度も呼ばれるので顔を上げて振り向いた瞬間、思わず叫んでしまった。叫んだ後で、しまったと思う。案の定三郎はとても嬉しそうな顔で立ち上がり、僕の元に駆け寄ってきた。……僕の大好きな女の子の顔で。

「ちょっ!? おい、やめろよ三郎!」
「雷蔵ー! 暇だから私と遊んで!」
「おい! なんで澪の顔してるんだよ、元に戻せって! つか抱きついてくるな、こらーーーー!」

 ご丁寧に澪の声色まで使って(本物そっくりだ)、三郎が僕に飛び込んでくる。慌ててそれを避けるため、文机から飛び退いた。間一髪で三郎に抱きつかれるのを防いだ僕に、三郎は澪の顔のままで少しむすっとして見せた。か、可愛いけど三郎だから可愛くない!
 いくら三郎が変装の名人でも、体格までは簡単に変えられない。首から上は完璧と言えるほどに澪そっくりだったけど、そこから下は明らかに男だ。ちぐはぐでいっそ不気味とも言えるのに、それでも情けないことに、澪の顔を見ると否応が無しに鼓動が高まる。
 ていうか、いくら暇だからってあんまりだろ!?

「いきなりなんなんだよ三郎! お前、遊んでる暇があるなら自習でも自主トレでもなんでもしてこいよ!」

 三郎に怒りつつも、一度飛び跳ねた動悸はなかなか静まってくれない。目の前にいるのは澪の顔をした三郎だとはっきり分かっているのに、分かっているのに、澪の顔を見ると動揺する。
 それを理解しているらしく、澪の顔のまま三郎は愉しそうに笑う。部屋の真ん中に退避した僕にずりずりとにじりより、そしてふいににっこりと微笑み、一瞬動揺して硬直した僕に、思いっきり抱きついてきた。

「雷蔵ー! 私といちゃいちゃしよう!」
「うわっっ! ちょっ、や、やめろってこら三郎、つか重い! 乗るなーー!」

 咄嗟に逃げだそうとした僕の背中に、どすんと三郎が乗ってくる。本当に澪ならすごく嬉しいけど、自分とほぼ同じ体型の三郎に乗りかかられて、重くないはずがない。ていうか不快だ。腹立ちも相まって寝技に持ち込んでやろうと三郎の腕を掴んだとき、それを悟ったらしい三郎が、そっと僕の耳元で囁いた。澪の声色で。

「雷蔵、大好き」

 ──、一瞬。頭が白くなりかけた。
 十二分に理解している。これは三郎なのだと理解している。しているけれど──

 同じ声で動揺しないなんて、無理だ。

「ひ、卑怯だろう三郎! やめろよばか!」
「だって俺退屈なんだよ……からかわせてくれよ……」
「なに本音言ってるんだよ腹立つな! いいから、下りろーーーー!」

 さすがに我慢出来ず、乗っている三郎を無理矢理振り落とす。三郎はどすんと床に転がってから、その場から身を起こしてやれやれと胡座をかいた。無論、まだ澪の顔のままで。

「なんだよ雷蔵、俺は単に勉強ばかりじゃつまらないだろうから、息抜きのつもりでだな」
「明らかに『からかわせろ』って言ってたよね……? お前が暇なのも退屈なのも分かったら、とにかくその顔はやめろ」

 じろりと睨み付けると、三郎はしゅんと落ち込んでみせた。勿論澪の顔で! 卑怯すぎる! 感じなくてもいい罪悪感が!

「雷蔵は、私のことが嫌いなんだね……」

 とどめかと思えるほどの破壊力。さすがにざっくり傷ついた。

「……三郎。いい加減にしないと、僕本気で怒るからね」
「ちぇっ。からかいがいのある奴ほど、キレたらなにするか分からないからなー」

 つまらん、と三郎は肩をかくめ、渋々とようやくに澪の変装を解いて僕の顔に戻った。身体からほっと力が抜けると同時に、またふつふつと怒りが湧いてくる。

「大体な三郎、勝手に顔と声借りたから澪に悪いだろ。しかも僕をからかうためだけになんて」
「なら、今度澪に聞いてきてもいいか? 『お前の顔と声で雷蔵に「大好き」って言うと雷蔵がめっちゃ動揺するんだけど、顔と声借りてもいいか?』って、ぶっ!」

 思わず殴りつけると、三郎はどたりと床に倒れてから、またすぐに起き上がってきた。ふう、とため息を吐き、

「分かった雷蔵、じゃあ今度は澪の体型も再現出来るようにあいつが風呂入ってるとこ覗いてくるから、それで許して──ほんとすみませんでした苦無刺さないで」
「いいか、もう二度とやるなよ」
「なんだよマジギレかよ。お前ほんとに澪のこと好きなんだな」
「な、なにを今更!」

 僕が怒っていると分かってるくせに、三郎は全然悪気なく、どこか呆れたように言う。ここまで人をからかっておいて、ほんとに好きなんだな、ってどういうことだよ!

「つかお前ほんとにやめろよ……していいことと悪いことの区別くらいつけろよ……」

 なんだかどっと疲れてきた。ついでに無性に落ち込んできた。
 たとえばさっきの三郎みたいに、澪がこんなに近くで、大好き、なんて。僕に言ってくれることは、これから一度だってないかもしれないのだ。
 告白もしていないし、望みがあるとも思っていない。嫌われてはいないのだろうと、分かることはそれくらいだ。僕をからかうためだけに澪を利用する三郎に腹が立つのは勿論だけど、でもそれ以上に、本当の澪が僕に笑ってくれることはあるのだろうかと考え始めたら、なんかものすごく、心がささくれる。
 どんよりした僕の気配の意味に気づいたのか、三郎が慌てた様子で僕の肩に手を置いて顔を覗きこんでくる。

「ま、まあまあ、元気出せよ。大丈夫だって雷蔵。お前いい男だからいけるって。ほら俺を見ろ、な、いい男だろっ!?」
「鏡見るより自信なくしたよ」
「またまた、そんなこと言うなって。大丈夫だって。な?」
「欠片も説得力ないのによく言うね……」

 なんだかどんどん心が沈んできた。僕は澪が大好きだけど、澪は僕のことなんか、たぶん好きなんかじゃない。
 僕がどれだけ澪を好きでも。澪は、たぶん。……僕を好きじゃないのだ。

「……ら、雷蔵? 俺が悪かったからそんなに落ち込むなよ。顔色悪いぞ?」

 誰のせいだよ、と返すことも出来なかった。ただぽつりと、さっきの三郎が浮かべていた嬉しそうな澪の顔を思い出して、呟いた。
 三郎と分かっていても動揺してしまうくらいに。僕は。

「……好きなんだよ、澪のことが」
「うん、分かってる。悪かったって」

 さすがの三郎も少しばつが悪そうに、僕の背中をぽんぽんと叩く。

「もう、絶対やらない」

 そう言って三郎は、ごめんな、と謝った。













 まあ、案の定またやるんだけどさ。

「らっいぞおおおおお! 好き! 抱いてーーー!」
「三郎ーーーーー! お前もう絶対やらないって言ったじゃないか!」
「ねえねえ雷蔵、最初は男の子と女の子どっちがいい? 私どっちでもいいから雷蔵に似た子がいい──ぎゃっ! ちょ、雷蔵、無理に皮剥がすな! 素顔が出るから素顔が! 痛いって!」
「うるさい! 澪の顔のままじゃ殴れないだろうが! 僕もうほんとに怒るからな!」
「きゃあっ、雷蔵やめて……! 乱暴にしないで、優しくして……!」
「だーかーら、澪の声で言うなああああああああああ!」




 終



 


 委員会が終わり、忍たま長屋へと歩いていた。日は沈むか沈まないか、というところ。俺と同じく長屋へ帰るらしい下級生が、二人で野菜籠を運んでいる。夕食の材料だろう。
 五年い組の食事当番は、今日は俺じゃない。さて晩飯はなんだろうか、豆腐の味噌汁食べたいなと、そう思いながら歩いていた。

「あ、兵助ーっ!」

 ふいに、名を呼ばれた。足を止めた瞬間、ぽす、と背中に軽い感触。聞き慣れた声に、自然に顔が緩む。振り向くまでもない。誰だと考えるまでもない。

「えへへ、兵助」
「どうした、澪」

 ぎゅうっと俺の背に擦り寄る慣れた仕草に、ああもう可愛いなあと思いながら振り向いて、

「だああああああああああああああああ!」

 反射的に、目前のわけのわからないモノに殴りかかった。

「きゃっ。兵助、なにするの? 恋仲の私に殴りかかるなんて酷い」
「だだだだだ誰が誰と恋仲だ! おい、どういうつもりだ三郎!」
「あれ、なんで一発でバレたんだ? 顔そっくりだろ」
「黙れ。はなから完全に騙す気なんかないだろお前。気持ち悪いからその口閉じろ!」
「口閉じたらちゅーしてくれるの……?」
「澪の声で喋るなって言ってんだよ!」

 それはもう異様な光景だった。
 完全に男の体格の奴が、可愛い澪の顔をしているのはすごく違和感だ。というか腹が立つ。すごく腹が立つ。なんだかもう澪を汚されている気がする。
 三郎はふいに澪らしい表情を消し、愉しげににやにやと笑ってみせる。

「まあまあ、兵助。お前ら付き合ってまだちょっとだろ? 手繋ぐくらいしかしてないだろ? 練習台にしていいぞ、ほれほれ、ちゅー」
「するか! お前な三郎、やっていいことと悪いことがあるだろうが!」
「兵助、私には口付けしたくない……?」
「三郎じゃなきゃ大歓迎だけどな……!」

 ようし殴ろう。そして池に叩き込もう。澪の顔をしているだけならともかく、俺に迫る演技をするなんて許せない。澪が可哀想だろうが!

「いいじゃない、口付けしよ? 私は兵助としたいな」

 えへへと、澪そっくりの声と澪そのもののはにかんだ笑顔で見つめられて、ぐらんと揺れる。だ、だめだ、違う、これは澪じゃない! 澪じゃないから!

「お、お前、いい加減にだな!」
「ね、兵助……ちゅーだけじゃなくてもいいんだよ……? 私、兵助といっぱい、恥ずかしいこと、したいな」

 顔を赤らめて澪の声で言われて、崩れ落ちそうになった。駄目だ。違う。違う。これは悪魔の囁きだ。澪じゃない。言い聞かせ、俺は気合を奮い立たせる。

「……ほほう、そうか」

 きらきらと嬉しそうに澪の顔で俺を見つめている三郎の両肩を、ぐっと掴んで引き寄せた。

「そんなに言うならやってやるよ」
「え? あれ、兵助さん?」
「望み通り口付けしてやるよ」
「い、いやちょっと待て兵助……、や、やだ兵助、私まだ心の準備が……」
「人を散々からかっといて、今更嫌とかどういう了見だ」
「兵助さんちょっと落ち着いて。初接吻が俺となんかでいいのか? 澪のやつ泣くぞ?」
「もうやることやってるからいい」
「手ぇ早っ! お前豆腐みたいな顔してるくせに!」
「うるさい大人しくしてろ、お前が言いだしたんだろうが!」
「ぎゃーー! 兵助にヤられるー! たすけてー!」

 こちらが本気だと理解したのか逃げだそうとする三郎を、腕を引いて廊下の床に叩きつけ、覆い被さる。本気でやってやろうとした瞬間、三郎が俺の肩を掴んで引き倒し、逆に俺の上になる。身体を起こそうとする三郎を下から引き寄せ、逃がさないように頭と顎を掴む。怒りのまま唇を重ねてやろうとした、そのときだった。

「……兵助?」

 かちん、と思考が固まった。
 おそるおそると声のしたほうへ振り向くと、きょとんと俺達を見ている澪の姿があった。
 ……客観的に見て。俺と三郎は長屋の廊下でもつれあい、今にも口付けしそうになっている。それも三郎が俺を押し倒し、さらに俺が三郎に口付けをねだって顔を引き寄せているような体勢だ。ついでに言うと、ここは決して人通りが少ない廊下ではない。
 …………滅茶苦茶まずい。

「あ、……そ、その、澪」
「えっと、三郎だよね? 三郎、私の顔でなにしてるの?」
「実は兵助の要望でな」
「え、ち、違う、違う澪! 違うから!」
「…………」

 澪は、誤解させまいと慌てふためく俺と、自分の顔をした三郎に交互に幾度か視線を向け、うーん、と首を傾げ、それからひらめいたようにパチンと両手を胸の前で合わせた。

「そっか! 兵助、押し倒されるほうが好きなんだね!?」
「は。……はあああああああああああ!?」
「え、思考そっちに行くの?」

 不思議そうな三郎を押しのけて澪に駆け寄ると、澪はぐっと両の手で握り拳を作り、輝かんばかりの満面の笑みを浮かべた。

「待っててね兵助、私頑張って男の人みたいに体格良くなるから! 兵助押し倒せるくらいに!」
「うあああああああああああ! 違う! 澪違う、それ全然違う!」
「え、じゃあ……もしかして兵助、ほんとは男の子のほうがいいの? どうしよう、私今から男の子になれるかなあ」
「根本的に違う! 全然違うから澪、聞いて!」
「そっか、兵助は男の子に押し倒されるほうが好きなんだ……。よし! 三郎、私三郎には負けないからね! 兵助が喜んでくれるように頑張るから!」
「おー、頑張れよ澪」
「うんっ! 私いっぱい鍛錬して、男の子くらい体格良くなる!」
「ってなに煽ってんだこら三郎! お前も澪に説明して……って、あ、澪! ちょっと待ってどこ行くの、澪ーーーーーーーーーー!」
「めざせ筋骨隆々ーー!」
「目指さなくていいからー! 澪ーーーー!」

 いきなり走り出した澪を追い掛けたけれど、学園でも有名な俊足な澪には簡単に追いつけず、俺は一刻ほど澪と追いかけっこをすることになった。

 しかも、誤解を解くのに十日かかった。




 終

メガネをかけた伊作の話 ※現パロ・学パロ
2012/07/16 (月)
めっちゃ短いですが、リクエストくださった霧谷さんに。
なんかただのバカップルです。

 

「あれ? 伊作君、眼鏡作ったの?」

 今日の自習室は貸し切り状態だった。試験が終わった後で、皆開放的な気分になっているからだろう。僕がここに来たのも、澪が自習しないかと誘ってくれたからだ。
 澪の前には、英語の参考書や赤本がずらりと並んでいる。試験が終わったばかりだけど、澪は次の日曜日にある英語検定のために、暇があれば自習室に篭もっている。澪が真面目に取り組んでいるのを見ていると僕も気合が入るし、予習復習も出来るし、なにより共に居られるのだから一石三鳥というやつだ。

「ん、ああ。前から家では読書するときとかに掛けてたんだけど、最近ちょっと視力が落ちちゃって。勉強するときには掛けようかなって」

 ケースを開き、軽くレンズを拭いてから眼鏡を掛けた。目の前の澪の顔が、さっきよりも少しだけ鮮明に写る。掛けなくても日常生活には影響はないけれど、これ以上悪くならないための処置だ。
 澪はじっと僕を見上げて、それから小さく笑う。

「初めて見た。眼鏡、似合うね」
「そ、そうかな」
「うん。知的でかっこいい」
「……あ、ありがとう……」

 にこにこと澪が視線を向けてくるのがなんとなく気恥ずかしくて、ふわふわと宙に視線をさまよわせてしまう。それを察したのか、澪はくすりと笑って参考書を開き、シャーペンを取り上げた。流れるような動きで英単語をノートに書きながら、

「私も昔よりは視力が落ちてるの。見えにくくなったら、伊作君とお揃いで眼鏡にしようかな」
「澪、そんなに悪いの?」
「ううん、ちょっとだけ。悪くなったら、ね」
「……そっか」

 ふと、澪が眼鏡を掛けたら似合うだろうな、と思った。がちがちの文学少女、というイメージではないけど、澪は勉学に真面目だし、派手な服は着ないから。
 眼鏡を買ったときに見た、様々な種類の眼鏡を思い出す。黒縁よりは、ノンフレームの眼鏡とか、可愛らしくて澪によく似合いそうだ。澪が僕に言ってくれたように、今より知的な雰囲気になるだろう。

「僕も、澪は眼鏡が似合うと思うよ」
「え? そのことずっと考えてたの?」
「あー、えーと……うん」
「じゃあ、もし眼鏡を作ることになったら、伊作君一緒に買いに行ってくれる? 選んでくれると嬉しいな」
「もちろん」
「ふふ、ありがとう」

 嬉しそうに笑って、澪はそれから今一度じっと僕を見上げた。僕の掛けている眼鏡に視線を向け、それからそっと手を伸ばす。

「……澪?」
「眼鏡、伊作君似合っててかっこいいけど、ちょっと不便だね」

 そっと、澪の両手が僕の両耳に伸ばされ、優しく眼鏡が取り上げられる。一瞬ぶれた視界に、今度は身を乗り出した澪の顔がすぐ傍に映った。

「不便って、なにが──」
「キスするとき、ちょっと不便」

 ちょっと恥ずかしそうに笑った澪の唇が、僕のそれに柔らかく重なった。





リア充爆発しろ。
霧谷さんが「伊作がメガネかけてヒロインとイチャラブしながら最終的にヒロインがメガネ外してチューする話!」とリクくださったのでほんとにそのまんま書きました。ひねりがなくてごめんなさい、ジャスト30分で書けました。ありがとうございました!

石川五十ヱ門夢『次は花冷えの季節に』第二話
2012/07/02 (月)
いつぶりやねん、な石川夢第二話。プロットは全部出来てるのでまったり書いていきたいです。

 


 昼と夕方の合間の時間は、市が混む。夕食の材料を買い求める町人達と商売人達とで溢れるからだ。
 売買のやり取りで騒がしい市を、石川のすぐ後ろをついてくる澪は興味津々に眺めている。眺めるだけならばいいいのだが、愉しげに声をかけてくるのが厄介だ。

「ねえ旦那様、お肉とお魚どちらがお好みですか? 旬のものといえば海産物ですけど、根菜もいいですよね」
「…………おい」
「あらこのお大根、綺麗な色。ねえ旦那様、美味しそうですね」
「お、姉ちゃん若いのによく分かるね、一本どうだい? 安くしておくよ」
「まぁ嬉しい。旦那様、今日の晩ご飯にどうです? お大根のお味噌汁か細切りにして塩もみか……って、あたたたた」

 無言で澪の耳を引っ掴んで野菜売りから離れ、石川は「痛いですわ旦那様」と芝居がかったか弱そうな仕草で見上げてくる澪に頬をひきつらせる。周囲に聞こえぬよう、小声で。

「……誰が旦那だ、誰が」
「あら、だって石川さん、先生って呼ぶなって仰るから」
「当たり前だろ。俺とお前の組み合わせで師弟なんざおかしいだろうが」

 一点して、不機嫌そうにぶー、と頬を膨らませる澪は、変装の意味を知らないのか知らないふりをしているのか、学園の制服の上に大きな赤い半纏を着たままだ。どでかい眼鏡と合わせて、とりあえず似顔絵が描きやすそうな格好ではある。しかもその変な格好をした年頃の若い女に『先生』などと呼ばれては、傍から聞いていればどんな関係かと勘繰られるに違いない。かと言って、無難な『夫婦』という関係もあまり積極的に取り入れたくはない。

「でも先生と弟子じゃないですか。確かに短期間ではありますけど、石川さん、私の先生になってくださるって言いましたよ?」

 どうもそうらしい。
 なんの因果か前世でなにかをした祟りなのか、あれよあれよと言いくるめられ、石川は澪の体験学習を引き受けてしまった。頷かないとどこまでもつけ回される、という確信にも似た予感があったというのも理由の一端だが。

「なのに先生って呼んだら怒られるので、それなら夫婦ということにするのが一番かと。そうでしょう、旦那様」
「だからそれはやめろって言ってるだろ……。大体お前、俺が嫌がってるの分かってて連呼してるだろ」
「男の嫌がることをしてこそのくの一だと教わりました!」
「ああ言えばこう言う……とにかく、先生呼びも旦那呼びもやめろ」
「ではなんとお呼びすればいいですか? お兄様? お父様? ……はっ、ご主人様?」
「……名前で適当に呼べ」
「わかりました、石川様!」
「……様はいらん」

 嘆息しつつ歩き出すと、「はい、石川さん!」と嬉しそうに澪がついてくる。その右手には、片時も離さない手帖がある。反故紙で手製したらしいそれは表紙に『泥棒観察日記』と書いてある。レポートを書くための覚え書きだと言っていたが、正直その題名含めていい気分はまったくしない。
 
「大体お前、多少は変装しろって言っただろうが。昨日のやつらがお前の姿形を覚えていたらどうする気だ」
「いえいえ、そんなへまはしてませんよ。安心してくださって構いません」
「せめて、眼鏡と半纏を取って普通の町娘の格好は出来ないのか。目立ちすぎるだろ」
「……んー……それは出来ません。ごめんなさい」

 急にしおらしくなった声に石川が肩越しに振り向くと、澪はすまなそうな顔で石川を見上げている。意味ありげな様子に石川が無言で理由を問うと、澪は小さくため息を吐いて答えた。どこか儚げな様子で、一言。

「半纏脱ぐと……寒いじゃないですか」
「お前もう帰れ」
「あと眼鏡は本当に無理なんですよ、これ取るとなんにも見えないんです。大体、石川さんだって眼鏡してるじゃないですか」
「だから尚更二人並んでると目立つだろうが……、っと」

 連絡所の茶屋が見えてきたので言葉を切ると、澪もそれを察したのか口を閉じた。今朝方急遽取り決めた矢羽音で今後の予定を軽く伝えると、すぐさま了解を示す矢羽音が返ってくる。矢羽音をすぐに記憶し使用できるあたり、澪は確かに忍びの技を学んで来ているのだろう。それは疑いの余地がなかったが、ひととしてどうなんだ、という点が多々ある辺りが残念だ。
 茶店の軒先に腰掛けると、何気なく隣に座った、魚売りに扮した男がにやりと笑った。石川の馴染みの情報屋だ。

「久しぶりですね、旦那。見ないうちに若い娘娶ったんで?」
「妻の澪でございます」
「こりゃご丁寧に。しがない魚売りです。旦那さんにはいつもご贔屓にして頂いて」
「妻の澪でございます」
「……お前、団子と茶注文してこい」
「はい、旦那様。あなたの嫁が今すぐに」

 楚々とした仕草で一礼し、澪はいそいそと店員へと駆け寄っていく。その澪を興味深そうに見送って、男は石川を見ずにもう一度笑う。訓練したものにしか分からない小声と矢羽音で、

「あれが、昨日薬問屋でお前がへました原因か? 女に骨抜きにされて失敗とは、天下の大泥棒の名が泣くぜ」
「からかうな、あいつは旧友からの預かりものだ。……で、昨日のあれはどこまで広まっている?」
「薬問屋に大泥棒が忍び込んで失敗した、というくらいだな。二人組だったってことは知られてるが、どっちの人相も背格好も話しには出てねえ。どうせまた偽者だろうと思っていたが、本当にお前だったのか」
「あの預かりもんが随分じゃじゃ馬でな。今後俺らしくない噂を聞いたら、全部あいつのせいだと思ってくれ」
「そうかそうか。半年ほど前にお前の偽者が放火騒ぎかなんか起こしたことがあったが、その頃からあの娘といい仲だったんだな」
「……情報料、払わねぇぞ」
「悪かったよ。ほら、頼まれていたやつだ」

 さり気なく石川の手に折り畳まれた紙を渡し、男は少し身を引いた。丁度そのとき、盆に茶と皿を載せた澪が戻ってくる。

「どうぞ、お待たせしました。それで、どんなお話しを?」
「後で聞かせてやるから、お前は団子食ってろ」
「焼き餅も頼んでしまいましたが」
「いいからそれも食ってろ」
「わーい」

 子どもじみた笑顔で餅をぱくつく澪に嘆息して、石川は男に団子の皿と茶を押しやる。同時に、一瞬触れた手に金子を包んだ薄紙を押しつけた。

「おや旦那、茶菓子頂いてよろしいんで?」
「この間の魚の礼だ。遠慮なく食ってくれ。活きがいいってうちのが喜んでな」
「いやあ、こちらこそいつも贔屓にして頂いて……では遠慮無く」

 一般人を装って湯飲みを取り上げる男に続いて、石川も茶を啜る。もぐもぐと無言で餅を食べ続ける澪を横目で見てから、団子を一本取り上げて口に運んだ。





「それで石川ふぁん、さっきの穴丑さんからどんな情報を頂いたんでふか?」
「お前、いつのまに団子の持ち帰りなんぞ……、まぁいいか。あいつはこの辺りの情報屋でな、仕事するのに丁度良い場所なんかを教えてくれる。その分料金は高いが」
「情報収集はとても大事……っと」

 団子を咥えつつ、澪は器用に例の『泥棒観察日記』に書き込んでいく。書くのは構わないが、どこかにひょいと落とされでもしたら身の破滅だな、と石川は他人事のように思う。
 陽はそろそろ沈もうとしていた。そろそろ市の売り手も帰り支度を始めている。投げ売りを始めた魚やら野菜やらを適当に買い、澪を伴って町外れの木立へと足を踏み入れる。
 澪は石川からお前も持てと渡された野菜をしげしげと眺めながら、不思議そうに口を開く。

「石川さん、町でお泊まりにならないんですか? 石川さんのお家は町中にあると思ってましたが」
「まあ幾つかはあるが、お前を連れてるとどうしても目立つからな。しばらくは人があんまりいないところに身を隠す。お前も大人しくしていろよ」
「なるほど、愛の逃避行というわけですね。素敵です」
「この魚も持っとけ、小娘」
「愛が……重いです」

 とりあえず、澪の言葉を無視出来るほどには慣れた。木立を少し進み、現われた寂れかけた石段を上っていく。きょろきょろと辺りを見回しながら、澪もその後ろをついていく。十数段上ったところで、拓けた場所に出る。石段と同じく寂れかけた、小さな寺だ。

「廃寺ですか?」
「正しくはその寸前だが、まあ時間の問題だろう。後継者が見つからなくてな、日通いで近くの寺の小坊主が掃除だけしに来ている」
「なるほど。その小坊主を始末してこの廃寺は俺のもの、と」
「……目立つ殺しをやってなんの得がある。しばらく掃除をするのと引き替えに、間借りする約束をしているだけだ」
「掃除とは、泥棒用語で殺人を犯す事である、と」
「………………」

 わざとやっているのが見え見えなので、放置することにした。
 寺の境内は参拝者が集う本堂と、寺の関係者の住居である小さな建屋の二棟から成っている。人気がない狭いそこは、寸前とはいえ廃寺らしい寂れた雰囲気だ。
 買ってきた食料品を建屋に運び込み、ひとまず井戸や竈が使えるのを確認する。

「そろそろ陽も沈みますね。真っ暗になる前にご飯にしましょうか。お魚、焼き魚でいいですか?」
「作れるのか、お前」
「んまっ失礼な。これでもくの一教室では『つまみ作りの澪』と呼ばれたものです。まあ任せておいてください、旦那様」
「だからそれはやめろって……ま、適当に頼む」
「はい! 美味しいご飯作ってみせますよっ」

 自信満々に言い切るので、一度くらい試してもいいかと、石川は夕食の支度を全て澪に任せた。さほど期待していたわけでも、凄まじく不安だったわけでもない。が。

「……ほう、美味いな」
「うっふふ、お代わりならたくさんありますよ!」

 意外と言えば意外、当然と言えば当然だが、澪は自分で言うだけあって料理の腕は上手かった。焼き魚も芋の味噌汁も山菜の混ぜ飯も、どれも町で評判の飯屋ほどの美味さだ。

「ま、誰にでも一つくらいは取り柄があるもんだな」
「私の場合そこに美貌と明晰な頭脳が加わりますからね、取り柄が多すぎるのもいろいろ大変なものなのです。こんな弟子が出来て石川さんは幸せものですよ」
「大根の葉が残ってるなら、明日は刻んで混ぜ飯にしてくれ」
「もちろん朝食は大根菜飯の予定です。たくさん食べてくださいね! はいあなた、あーんあーん」
「……ま、誰にでも一つくらいは取り柄があるもんだな」

 頬を染めて匙を差し出してくる、完璧に演技そのものの良妻っぷりから視線を逸らし、もう一度しみじみと呟く。
 陽はとっくに沈み、夜の気配がじわじわと迫ってきていた。本来なら今からが仕事の時間だが、今日は大人しく寝てしまうつもりだった。
 素直に澪を仕事の場へと連れ出す気は毛頭ない。適当にそれっぽいところを見せて学園に帰してやろうと内心で頷き、石川は「お代わりですか? ささどうぞどうぞ」と手を伸ばす澪に、空の茶碗を差し出した。

 


お題SSS(留三郎夢)
2012/05/03 (木)
エロ練習。雰囲気だけのぬるいエロ。短いです。

 


 温かな海に浸かっているようだった。
 汗に濡れた身体はどちらも浅い呼吸を繰り返し、お互いに縋るように隙間なく触れ合っている。どちらが己のものかはっきりと分からないほど、内と外で響く鼓動が混じり合い、ひとつになる。
 手も足も頭も、身体中が熱に染まっていた。繋がり合ったまま、動きを止めて抱き締め合う。行為のどの部分よりも、深く一体感が抱けるときだ。
  
「……っん、食満……」

 挿れてからしばらくして、目を閉じて浅い呼吸を繰り返していた澪が、顔を上げて身じろぎする。対面で向かい合って繋がっていた俺には、その僅かな動きでも、淡い痺れが腹奥に響いた。

「痛いか」
「ううん、大丈夫。……まだこのままでもいい?」
「……あと少しなら、我慢する」
「ありがとう」

 薄赤に染まる顔で微笑み、澪が俺の首元に頬を擦り寄せ、また縋り付いてくる。
 挿れてすぐは圧迫感が辛そうだから慣れるまでは動かない、と決めているのもあるが、どうも澪は繋がったまま動かず、静かに抱き締め合うのが好きらしい。食満の鼓動の音を聞くと落ち着くと、初めてのときから言っていた。
 正直少し苦しいときもないわけではないが、幸せそうに擦り寄ってくるのを見ると、多少の我慢はしようという気分になる。どうしても身体の負担を強いてしまうのだから、出来る限り澪の悦いようにもしてやりたい。

「くっついてると温かいね」
「そりゃ、熱が上がるようなことしてるからな」
 
 誰でもそうだろうが、行為中は体温が上がる。触れ合って繋がってしまえば、鼓動と同じでどちらの体温もひとつに溶けていくから、違いが分かるのは最初だけだが。
 すぐ下にある澪の額に口付けると、澪はうっすらと目を開いて顔を上げ、俺の頬に口付けを返す。自然に見つめ合い、唇を重ねた。柔らかな唇と舌先を舐め合う戯れのような触れ合いから、少しずつ口付けが深くなる。澪の後頭部に手を回して引き寄せると、誘いに応じて澪も少し腰を上げてさらに深く舌を絡めてくる。
 心地良い、と思った瞬間、下腹に掻痒感に似た耐え難い熱が沸き起こった。

「──っ、悪い」
「……食満?」

 口付けをやや乱暴に解いて息を吐くと、澪が小さく首を傾げて見上げてくる。
 繋がった箇所から、甘い痺れがじわじわと背筋へと上ってくる。それがやがて自分の制御の利かないところまで浸食してくるだろうことは、今までの経験から明らかだった。
 我慢出来るのもあと少しだ。情けなく思いながら澪のこめかみや鼻先に口付けて熱を逸らそうとしていると、それを察したのか、澪が口を開く。

「動いていいよ。もう大丈夫だから」
「……ぎりぎりまで我慢する」
「我慢しなくてもいいのに」
「俺がしたいんだ、放っておいてくれ」

 やや拗ねた声音になってしまい、澪がきょとんとする。惚れた女に早漏だとかガキくさいと思われるのは勘弁ならない。今日こそは出来る限り耐えてやろうと、すぐにでも動かしたい欲求を抑えつける。
 澪はじっと俺を見上げていたが、次いでしまりない顔で笑う。どこか楽しそうに、

「食満、文次郎みたいだね」
「あ?」

 反射的に顔がひきつるが、澪は気づかないのか気にしていないのか、機嫌がよさそうに続けてくる。

「昼間に文次郎が、『忍耐力を鍛えるのが大事だ!』って会計委員の下級生に言っててね。そういえば前も小平太と熱いお風呂にどっちが長く入ってられるか競争したって……、っ、わっ!」

 むかっときたので、後ろの布団の上に無理矢理押し倒してやる。澪の足を折り畳んで身を寄せると、細い腰が小さく跳ねた。

「け、食満?」
「おっまえなぁ……」

 もう我慢なんかしてやるか、畜生。
 澪の背に腕を回して引き寄せ、ゆっくり突き入れる。今まで動かなかったせいか、その緩い動きでもぞわりと背筋に震えが走った。

「っあぁ、……んっ!」
「おまえ、こんなときに他の男の話なんかすんなって……」
「……嫌だった?」
「なんかむかつくだけだ」

 なにか言おうとした澪の唇を塞ぎ、口付け合いながら腰を揺する。長い間押しとどめていた快楽が一気に襲い、もう抑えが効かなくなる。
 澪の細い腕が背に回され、肌と肌がいっそう密着する。こめかみにまで響く甘い痺れに、頭の中に薄い靄がかかったようだった。
 
「あ、……あっ、……ふぁっ」
「はっ、……っ」
「……食満。きもち、いいよ」
「ん……ああ、俺も」

 小刻みに突く振動に、熱がまたぶわりと上がる。理性のない獣のように快楽のまま求め合いながら、隙間のない満足感と幸福感に浸ってもいる。
 交わっているとき、海に浸かっているようだ、といつも思う。自分の身体の境界すら分からないほど、熱に浮かされて溺れている。


「…………熱い」


 そう漏らしたのはどちらの言葉だったのか。
 くらりと酩酊したように視界が揺れる。汗まみれの身体を抱き締め合いながら、高みへと上り詰めた。



お題:『暑苦しい熱の理由。』(留三郎夢)
お題提供:『Abandon』
うめこさんに、いつものお礼に無理矢理押しつけ捧げます。あんまりエロく出来なくてごめん。
とりあえずしばらくサイト用の小説に専念する予定なので、サイトもここも更新停滞すると思います。

CGI nicky! Skin 海月屋